天上の幸福を噛み締める、悍ましい歓喜と度し難い狂気の
己の全てであった拳を手首の上から跡形もなく、丸ごと吹き飛び、拳打による陥没の跡が薄らと残る額から血を流しているヴェッチャ。
二回りは増強していたその巨躯も、今や空気の抜けた風船のように
全員が全員、『
その有り様に差異の違いはあれど、四者一様に共通して────気を失い、戦闘不能に陥っていた。
ロンベルら四人を倒した、他の誰でもない張本人たるクラハは、彼らに一瞥もすることなく。ゆっくりとした、
「……」
そうして、遂に辿り着いた。時間にして約十分と少しという。複数人の、それも指を折って数えられる程の実力者である《A》冒険者を相手取ったにしては。些か短い時間を費やして、ようやっとクラハは辿り着いた。
路地裏の狭まった奥。埃で薄汚れた、安物の
少女は眠っていた。整った寝息を静かに立てながら、頬をほんの僅かに上気させながら。疲労と快楽の余韻が未だに残る、何処か心地良さそうで艶かしい寝顔を晒しながら。彼女はその寝台の上で、眠っていた。
「…………」
そんな少女の寝姿を。そんな彼女の寝顔を。クラハはただ、黙って。無言で眺める。数分、十数分────こうして時間が過ぎるのも構わず、
「クラハ」
唐突に、その声が頭の中に響く。残響する声に続いて、その光景もまた脳裏に
『その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ』
響くその声と、過ぎる光景に対して。ただ一言、クラハが呟く。
「違う」
『祝福なんかじゃねえっての』
直後、響く声は同じだが。過ぎる光景は変わった。そしてそれも、クラハは否定する。
「違う」
『服は百歩いや千歩譲って着てやるけどっ』
それもまた、クラハは否定する。
「違う」
『ちょっと、お前に訊きたいことがあってさ』
「違う」
『本当に、そう思ってんのか?
「違う」
『すまん。鍵すんの、忘れてた。……ん』
「違う」
『なんだって、おれがおんななんかになんなきゃいけねえんだよぉ……ひっく』
「違う」
『……これが、大丈夫に見えんのか?』
「違う」
『俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ』
「違う」
『助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな』
「違う」
『お前がそう思ってるんなら、俺は……それで……』
「違う」
『義理、とか……道理とかじゃあ、なくて。俺はただ、お前が心配で……だから、その』
「違う」
『受付嬢じゃ、駄目なのか。先輩じゃなきゃ不安になるのも心配すんのも死ぬなって思うのも……駄目なのか』
何度否定しても。幾度否定しても。その度に、言葉が響く。光景が過ぎる。響いては過って、過っては響いて。それを何度も、幾度も、永遠と繰り返す。
堪え難い苦痛。度し難い心労。御し難い狂気。それらが滅茶苦茶に混ぜ合わされ、無茶苦茶に
クラハを苛烈に責め立て、非情に苛み続け、酷薄に追い詰め────ただひたすらに、彼を正気の沙汰から追い出す。
その傍らで、クラハは呼ばれる。彼はその声に、呼ばれている。
クラハの頭の中で聞こえているはずのその声が、彼のすぐ耳元で聞こえてくる。
「クラハ」
何度も。
「クラハ」
幾度も。
「クラハ」
そして、永遠に。
「クラハ!」
「クラハ?」
「クラハ……」
「クラハッ!!」
「クラハ!?」
「…………クラ、ハ」
「違う、違う、違う……」
顔を俯かせ、耳を塞ぎ、目を見開かせ。恐れと怯えに震える声音で、弱々しく呟くクラハを────────
「どうして、俺を殺したんだ?……クラハ」
──────────その、胸を血で染め上げた、赤髪の少女が。正気の沙汰から、突き飛ばした。
「違うッ!違うッ!!違うだろぉ!?」
耳を塞いでいたその手で頭を掻き毟り。頭皮を引っ掻き、爪の間に
「君はお前はあなたはこいつはそいつは違う違う違う違う君は違うお前は違うあなたは違うこいつは違うそいつは違う」
そして不意に、クラハは
「この子は、先輩じゃない!!この子は先輩なんかじゃないッ!!先輩じゃあないんだあッ!!!だから、だから……っ」
顔を歪め、表情を悲痛に歪ませて。そうして、クラハは心底苦しみ痛みに喘ぎながら、吐き捨てるように呟いた。
「僕は、ラグナ先輩を、殺してなんか……ないんだ…………」
そう呟いたクラハの視界に、少女の姿が映り込む。ありありと、
「……君は、違う」
見るに堪えない、あまりにも酷い表情をしながら。それに見合った声音で、クラハが言う。
「なのに、どうして……どうすれば……僕はどうすれば、いいんだよ……」
そう言って、クラハはまた黙り込み。が、すぐさま彼は自嘲の笑みを、その酷過ぎる表情に貼り付けた。
「わかってる。わかっているんだ。一体どうしたらいいのか……一体どうすればいいのか。そんなこと、もうとっくのとうにわかり切ってる」
と、まるで何もかもを諦めたような声音と何もかもを放り出すような口調で。何処か開き直るようにクラハはそう言うと、徐に────己の腰に下げた、
「大したことじゃない。別にこれが二度目や三度目でも、ましてや初めてでもない。今更、本当に大したことじゃないんだ」
そして誰かに言い訳でもするかのようにそう言って、クラハは。長剣を、鞘から引き抜くのだった。