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終焉の始まり(その十七)

「それと、その……貴女は一体、誰なんですか?」


 最初、彼女────メルネ=クリスタはそう言われた時。膨大に溢れ返っていた歓喜と安堵がことごとく、まるでそんな感情ものは最初からなかったかのように、影も形も残さず吹き飛ばされ。直後、瞬く間に頭の中が真白に染め上げられ、染め尽くされ、もはや彼女は何も考えられなくなってしまった。


 自覚はなかった、というよりはそうであると自覚する余裕すらなく。きっと無意識の内に、いつの間にか顔に出してしまっていたのだろう。


「すっ、すみません!私今、何も思い出せなくてっ……何も、憶えてなくて」


 ただただ硬直し、こちらが固まるしか他にないでいると。突然、そんなことを、焦燥と怯えの声音で言われて。ハッとしたメルネは慌てて返事する。


「い、いいの。大丈夫、大丈夫だから……えっと、ごめんなさい。ちょっと、待ってて」


 予想だにし得ない、そもそもできる訳がない、こんな事態と直面し。流石のメルネといえど────否、他ならぬメルネ=クリスタだったからこそ、受けたその衝撃ショック一入ひとしおで、多大な動揺と困惑を禁じ得なかった。


 ──落ち着きなさい、落ち着くのよ……メルネ=クリスタ。


 と、焦って仕方がない自分に対してそう言い聞かせて、深く息を吸い込むメルネ。そうしてゆっくりと吐き出し、数秒。意を決したように、彼女は訊ねた。


「ラグナ……あなたに訊きたいのだけど、その、何も思い出せないって……何も憶えてないって、一体どういうこと?」


 メルネとしては、柔らかで、優しげのある声音を出したつもりでいた。


「……えっ、と。ほ、本当に何もわからないんです。ここがどこで、貴女が誰で……自分が、誰なのか」


 だが、どうやらラグナには、そうは聞こえなかったようで。未だ怯えたように、恐る恐るとメルネにそう返す。


「…………そう」


 胸中を渦巻く、複雑極まる様々な感情に。振り回され、翻弄される最中、やっとのことでメルネが絞り出せたのは。そんな味気のない、たったの一言。


 今この時、この瞬間には決して相応しくはないと、それがわからないメルネではなかったが。しかし、彼女はそれで精一杯だった。


 必然、ラグナとメルネの会話はそこで終わり。そうして、互いの沈黙から成った静寂が、この病室を包み込む。


「ここは、病院。私の名前はメルネ……それであなたの名前は、ラグナ」


 やがて先に口を開いたのは、メルネであった。どうしていたらいいのかわからない様子のラグナに、彼女はそう説明し。そして椅子から静かに立ち上がった。


「医者を呼んでくるわ。あなたはここで休んでて」


「え、あ、はい……わかりました」


 椅子から立ち上がるや否や、メルネはやや早口気味に伝え。対してラグナは未だこの状況を今一いまいち理解できていなかったようだが、頷き了承するのだった。


「ありがとう。じゃあちょっと待っててね、ラグナ」


 そう言って、できるだけ強張らないように。極力不自然にならないように、微笑みかけて。


 そうして、メルネは病室を後にし。ゆっくりと扉を閉め、彼女は静かに歩き出す。


 ──……ああ、そうか。そういう、ことか。


 廊下を進むその道中、呆然とメルネは内心独り言ちる。薄い水色の瞳に、仄かな翳りを差しながら。


 ──きっとこれは、私に下された……罰、なんだ。


 悲嘆に暮れ、絶望に伏し。呆然自失になりながら、メルネは呟く────そう、これは罰なのだ。


 もはやどう足掻いても贖えぬ、赦されざる大罪を犯した愚者じぶんに。天頂に座する、世界オヴィーリスみ出し『創造主神オリジン』が下した、当然の罰。これ以上にない、絶対の罰。


 そしてメルネは恨んだ。そうして彼女は憎んだ────他の誰でもない、自分自身を。己が罪が齎した罰に、あろうことかラグナを巻き込んでしまった、自分自身メルネ=クリスタという一人の女性を。


 ──ごめんなさいラグナ。ごめんなさい、ラグナ……!


 あまりにも度し難く、そして何処までも救い難い自分を呪いながら、ラグナに対して謝り続けるメルネ。そのような謝罪を何万、何億、幾ら続けようが。何の意味もないことを理解していながら。


 この街オールティアのことも、『大翼の不死鳥フェニシオン』の皆も、自分のことも。


 ──私、私なんかの所為で……あなたは……ッ!


 全て、何もかもを忘れてしまった。かけがえのない、大切な記憶を失ってしまった────────











「……………忘れ、た……?全部、忘れて……」











 ──────────瞬間、曇り濁り、仄昏く淀んでいたメルネの瞳の奥で、光が瞬く。


「……そう、そうなの……全部、忘れたのね。ふふ、ふふふ、ふふふふ……」


 と、静かに呟くメルネの瞳の輝きは。不安定で、何処か不穏で。そして形容し難い、底知れない狂気を帯びていて。


「ふふふふふふふふふふ」


 またそれに影響されたのか、そのメルネの微笑みは酷く歪んでしまっていた。




















「いただきます」


「はい。私も、いただきます」


 気がつけば、あの時から早くも数日が過ぎた。しかし、メルネにはまるで昨日────どころかつい先程の、今し方のことのように思えてしまう。


 確かにこれは自分に下された罰なのだろう。だが、


 これは罰であると同時に────千載一遇、唯一無二の試練きかいなのだ。


「どうですか?今日も美味しく作れてますか……?」


「ええ。美味しい、本当に美味しいわ。ラグナの手料理」


「あ、ありがとうございます。えへへ……」


 故に今一度、メルネは誓う。彼女は強き意思の下に、固く決意する。


 ──私はもう間違えない。私はもう迷わない。私はもう躊躇わない。


 メルネは誓う──────────






 ──私が救う。今度は、今度こそは私があなたを救ってみせるわ……ラグナ。






 ──────────歪な独善に囚われ、狂気に侵され捻じ曲げられた希望を。濁り淀んだ、仄昏い瞳の奥で爛々と輝かせながら。

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