「それと、その……貴女は一体、誰なんですか?」
最初、彼女────メルネ=クリスタはそう言われた時。膨大に溢れ返っていた歓喜と安堵が
自覚はなかった、というよりはそうであると自覚する余裕すらなく。きっと無意識の内に、いつの間にか顔に出してしまっていたのだろう。
「すっ、すみません!私今、何も思い出せなくてっ……何も、憶えてなくて」
ただただ硬直し、こちらが固まるしか他にないでいると。突然、そんなことを、焦燥と怯えの声音で言われて。ハッとしたメルネは慌てて返事する。
「い、いいの。大丈夫、大丈夫だから……えっと、ごめんなさい。ちょっと、待ってて」
予想だにし得ない、そもそもできる訳がない、こんな事態と直面し。流石のメルネといえど────否、他ならぬメルネ=クリスタだったからこそ、受けたその
──落ち着きなさい、落ち着くのよ……メルネ=クリスタ。
と、焦って仕方がない自分に対してそう言い聞かせて、深く息を吸い込むメルネ。そうしてゆっくりと吐き出し、数秒。意を決したように、彼女は訊ねた。
「ラグナ……あなたに訊きたいのだけど、その、何も思い出せないって……何も憶えてないって、一体どういうこと?」
メルネとしては、柔らかで、優しげのある声音を出したつもりでいた。
「……えっ、と。ほ、本当に何もわからないんです。ここがどこで、貴女が誰で……自分が、誰なのか」
だが、どうやらラグナには、そうは聞こえなかったようで。未だ怯えたように、恐る恐るとメルネにそう返す。
「…………そう」
胸中を渦巻く、複雑極まる様々な感情に。振り回され、翻弄される最中、やっとのことでメルネが絞り出せたのは。そんな味気のない、たったの一言。
今この時、この瞬間には決して相応しくはないと、それがわからないメルネではなかったが。しかし、彼女はそれで精一杯だった。
必然、ラグナとメルネの会話はそこで終わり。そうして、互いの沈黙から成った静寂が、この病室を包み込む。
「ここは、病院。私の名前はメルネ……それであなたの名前は、ラグナ」
やがて先に口を開いたのは、メルネであった。どうしていたらいいのかわからない様子のラグナに、彼女はそう説明し。そして椅子から静かに立ち上がった。
「医者を呼んでくるわ。あなたはここで休んでて」
「え、あ、はい……わかりました」
椅子から立ち上がるや否や、メルネはやや早口気味に伝え。対してラグナは未だこの状況を
「ありがとう。じゃあちょっと待っててね、ラグナ」
そう言って、できるだけ強張らないように。極力不自然にならないように、微笑みかけて。
そうして、メルネは病室を後にし。ゆっくりと扉を閉め、彼女は静かに歩き出す。
──……ああ、そうか。そういう、ことか。
廊下を進むその道中、呆然とメルネは内心独り言ちる。薄い水色の瞳に、仄かな翳りを差しながら。
──きっとこれは、私に下された……罰、なんだ。
悲嘆に暮れ、絶望に伏し。呆然自失になりながら、メルネは呟く────そう、これは罰なのだ。
もはやどう足掻いても贖えぬ、赦されざる大罪を犯した
そしてメルネは恨んだ。そうして彼女は憎んだ────他の誰でもない、自分自身を。己が罪が齎した罰に、あろうことかラグナを巻き込んでしまった、
──ごめんなさいラグナ。ごめんなさい、ラグナ……!
あまりにも度し難く、そして何処までも救い難い自分を呪いながら、ラグナに対して謝り続けるメルネ。そのような謝罪を何万、何億、幾ら続けようが。何の意味もないことを理解していながら。
──私、私なんかの所為で……あなたは……ッ!
全て、何もかもを忘れてしまった。かけがえのない、大切な記憶を失ってしまった────────
「……………忘れ、た……?全部、忘れて……」
──────────
「……そう、そうなの……全部、忘れたのね。ふふ、ふふふ、ふふふふ……」
と、静かに呟くメルネの瞳の輝きは。不安定で、何処か不穏で。そして形容し難い、底知れない狂気を帯びていて。
「ふふふふふふふふふふ」
またそれに影響されたのか、そのメルネの微笑みは酷く歪んでしまっていた。
「いただきます」
「はい。私も、いただきます」
気がつけば、あの時から早くも数日が過ぎた。しかし、メルネにはまるで昨日────どころかつい先程の、今し方のことのように思えてしまう。
確かにこれは自分に下された罰なのだろう。だが、
これは罰であると同時に────千載一遇、唯一無二の
「どうですか?今日も美味しく作れてますか……?」
「ええ。美味しい、本当に美味しいわ。ラグナの手料理」
「あ、ありがとうございます。えへへ……」
故に今一度、メルネは誓う。彼女は強き意思の下に、固く決意する。
──私はもう間違えない。私はもう迷わない。私はもう躊躇わない。
メルネは誓う──────────
──私が救う。今度は、今度こそは私があなたを救ってみせるわ……ラグナ。
──────────歪な独善に囚われ、狂気に侵され捻じ曲げられた希望を。濁り淀んだ、仄昏い瞳の奥で爛々と輝かせながら。