「準備完了完了……っと。ふぃー、これで今日もまた日常通り開店、営業できるってなぁ」
早朝。朝日が昇った、白んだ空の下で。浅黒い肌をした、
「んー、本日も快晴だぁ。そんじゃまあ、お次は
そうして今日の天気の具合を確かめた後、自らが
「おぉ……こんな朝早くから」
こちらへ徐々に近づいて来るに従って、その一つの人影の姿が。次第に、ロブの視界に鮮明となって映り込む。
一つの人影の正体は────一人の少女であった。
遠目からでもよく目立ち、目に映える、燃え盛る紅蓮をそのまま流し入れたかのような赤髪。燦々とした煌めきを灯している、紅玉が如き瞳。
まだあどけない幼さが目立つものの、時折憂いのある大人びた雰囲気を醸し出す、可憐にして美麗な顔立ち。
ロブは知っている。というよりは、今や
ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ────それが少女の名であり。そしてそれは
その
……けれど、ロブは知っている。彼を含めた、この街に住まう人々だけは知っている────それ故に、誰もがこう思わざるを得ないでしまっている。
果たして今の少女を、ラグナと呼んでもいいのかと。
ラグナ=アルティ=ブレイズとしての記憶も在り方も、その何もかもを忘却してしまった、今の少女を。その名前で、呼んでもいいのだろうか、と。
そんなことを思い考えながら、ロブは。その身長には些か不釣り合いな胸と、ショートパンツの裾から伸びるむっちりとした
「おはようさん。こんな朝早く、こんな場所にたぁ珍しいじゃねえの。一体どうしたい?ラグナ」
と、不躾な己の視線の誤魔化しも兼ねた、朝の挨拶と。そして純粋な疑問による、そんな問いを投げかけるのだった。
「おはようございます、ロブさん。ちょっと、この先に用事がありまして」
やがて店の前にまでやって来たラグナ。無論ロブの下卑た野朗の視線に気づいていない訳ではないが、日頃からよく利用している店ということもあり、気づいていない風を装いながら。そう挨拶を返すと共に、眩しく可憐な笑顔を浮かべ。それから投げかけられた質問に対して答えた。
──この先に用事……用事、ねえ。
正直、ロブは訝しまずにはいられなかった。
「んまぁ、そういうことなら俺の勝手で引き留める訳にはいかんよな。そら、行きな」
だからといって、下手に踏み込もうとはしなかった。
「はい。今日もまた立ち寄らせてもらいますね、お店」
「ああ。今後とも贔屓にしてくれよ」
そうして朝日に照らされ、燐光の如く、淡く煌めく赤髪を。ふわりと揺らし、靡かせながら。ラグナはロブの目の前を横切り、彼に見送られながら、先へ進んだ。
「…………用事つったってよぉ、この先にあるのは……」
ラグナの可愛らしくも何処か儚げなその背中が。ある程度離れたその時、ロブはそう独り言ちるのであった。
「もう……ロブさん、別に悪い人じゃあないんだけど」
『あなたの生活を助けるロブの商店』、店主────ロブ=ウッドと別れ。この先にあるであろう
「…………」
そのことに若干の、誰に対する訳でもない申し訳なさを胸中に抱きながらも。ラグナは歩みを止めることなく、街道を進み続け────そうして、ラグナは着いた。
「……ここ、だよね」
目的地────一軒の家の前に立ち止まり。まるで確かめるように、ラグナが呟く。
──着いた……着いちゃった。
そう心の中でも呟いて、徐に。ラグナは懐に手を入れ、
「…………」
『あなたの目で、確かめて』
鍵を見つめるラグナの脳裏で、メルネの言葉が響き。それが切っ掛けとなって、ラグナは今朝の、彼女との会話を思い起こす──────────
「これで全部、私が話せるだけのことは話したわ」
と、メルネはその一言で締め。それに対して、ラグナは複雑そうな。何を考え、思い、そして抱けばいいのか。それがわからないでいるかのような表情を浮かべ。
「…………そうですか。そんなことが、あったんですね。……私に、そんなことが……」
そうして数秒の沈黙の後、消え入りそうな声音で、ぽつりとそう呟くのだった。
時間にして約数十分。こうして互いの面と面を向かい合わせた、メルネの口から直接聞かされた────クラハ=ウインドアという一人の青年の話。クラハ=ウインドアと、そして
その全てを聞かされた。余さず、誤魔化されることもはぐらされることもなく、ありのまま全てを聞いた。
だというのに、それは紛れもない、嘘偽りなどありはしない────
『……はい。さようなら、ラグナさん』
『あなたは違う』
『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ』
────この身に確と起きた、歴とした己の真実であると、覚えのない記憶が訴えかけてくる。
そのことに言葉では上手く言い表せない、奇妙な
ラグナとメルネの二人が黙り込み、リビングに重苦しい静寂が漂い始める。
──……どうしよう……。
と、ラグナが思ったのも束の間。話し終え、先程から固く押し黙っていたメルネが。不意に、ぎこちなくその口を開かせた。
「……これを、渡すわ」
メルネはそう言うと、
「か、鍵……?」
特に変わったところもない、何の変哲もない、至って普通の鍵である。強いて言えば、妙に真新しいことくらいだ。
それをメルネはテーブルの上に置くと、スッとラグナの前にまで押しやった。
「今日まで黙っていて、隠していてごめんなさい。ラグナ……この鍵はね、元々あなたが持っていたものなの。病院の
「そ、そうなんですか?」
「ええ」
目を丸くするラグナにそう言って、更にメルネは続ける。
「ロブのお店はわかるでしょ?あそこを先に進んで少しすると、ある一軒家が見えてくるわ」
「え?は、はい」
メルネにそう言われて、ラグナは堪らず信じられないような声音を出してしまう。何故ならば、今までその道の先には、行かせてもらえなかったから。
『駄目。この先には、行っちゃ駄目』
という一言で、メルネにはその先へ進むことを固く禁じられていたのだから。
そうして自ずとラグナは察する。メルネが頑なに進ませようとはしなかった理由と、彼女の言う一軒家が何なのか────一体、
「あなたの目で、確かめて」
目の前に差し出された鍵を見つめ、様々な思案を脳裏に巡らすラグナに対して。心の底から案じる表情と、祈るかのような声音で、メルネはそう言うのだった。
──────────それが今朝の、メルネとの会話。その全容を思い起こし、手元にあるその鍵を見つめながら、ラグナは思い返す。
果たして、この目で確かめてもいいのかと。このまま、本当に確かめてしまっても、大丈夫なのかと。
「…………」
そうして数分の間、言い知れない恐怖にもよく似た躊躇いを抱いてしまい、玄関前で立ち往生していたラグナであったが。
「……よ、よし……!」
と、震えながらも強い決意に満ちた声音で呟き、鍵を握り締め、扉を真っ直ぐ見据え────一歩、ようやっとその場から踏み出し。そのまま二歩三歩と、ラグナは進み、扉のすぐ目の前にまで立つ。
──確かめなきゃ。私は、クラハさんを……そして
そう心の中で、己を奮い立たせる為の言葉を紡ぎながら。意を決したラグナは扉の鍵穴へ、遂に鍵を差し込んだ。
「お、お邪魔します……」
そしていよいよ以てその家の────クラハ=ウインドアの自宅の扉を開き、その中へと、ラグナは足を踏み入れた。