「…………」
そうしてクラハの自宅へと足を踏み入れたラグナであったが。まず最初に感じたのは懐かしさ────だったのならば、それで良かったのだが。
──埃臭い、な……。
暫くの間は掃除されていないことを示唆させる、薄らと積もった埃の臭いだけだった。
懐かしさは当然として、少しの感慨も抱けないまま。ラグナは複雑そうな表情を浮かべ、靴を脱ぎ、恐る恐るクラハの自宅に上がる。
埃臭さが漂うことからも、クラハの自宅内の空気は決して良くはなく。それに加えて締め切られたカーテンによって陽光が遮られており、全体的に薄暗い。
それら二つの要素が重なったことで、クラハの自宅内は暗澹で陰鬱とした雰囲気を
だがそれでもクラハの自宅から出ようとはせず、ラグナは進み────ふとした拍子に、とある場所を視界に映す。
「ここって……」
その場所は、脱衣所。別に広いだとか、逆に狭いということもない、特筆すべきことなどありはしない、至って普通な浴室であった。
特に何かを考える訳でもなく、ラグナは脱衣所に近づき。薄暗いその中へと踏み込み、そうして浴室に続く。
カララ──少し控えるようにして、浴室の扉を開いたラグナ。その目に飛び込んだのは、きちんと整理された室内の光景。
「……」
それらを目の当たりにしたラグナの脳裏で。己の意思とは反するようにして、
『え、えっと……ほ、本当にいいんですか?僕がその、先輩の髪を洗っても……?』
と、こちらに投げかけられる、躊躇いが大いに表れている、遠慮がちな確認の一言。
「洗ってもいいも何も、そもそも俺がお前に頼んだことじゃねえか。遠慮する必要なんてねえぞ?……って、言ったんだ……そう言ったんだ、
そのことに軽い頭痛を覚え、どうしようもない苦笑いを浮かべつつも、そそくさとラグナは浴室と脱衣所から離れる。
それからまた歩いて、少し────次に見たのは、閉まっている扉。
一見するとどんな部屋なのかは判別できず、それを確かめようと、ラグナはその扉を開いてみる。
「…………
そう、トイレであった。部屋の中央に鎮座する純白の便器を見つめ、そっと呟いたラグナであるが。少し遅れて、その身体が小さく震える。
──……そういえば私、今朝からずっと済ませられてない。
その事実を思い出した途端、知らず知らずの内に溜まっていたその欲求が解放しろとラグナに訴え、内側から好き勝手に責め立てる。
「んぅ、ぅぅ……っ」
堪らず
が、しかし。ラグナの胸中で躊躇にも似た疑問が、頭を
──つ、使っちゃってもいいのかなぁ……?
知人、それも先輩と後輩という親しい間柄で、その上同棲もしていた────けれど、それはあくまでも記憶を失う前の
許可も得ずに他人の家のトイレを勝手に使うのは、どうしようもなく気が憚れる。が、そうこう悩んでいる間にもこの生理的欲求は膨れ上がるばかりで、今や気を抜けば決壊を免れないまでに危うい状態に追い込まれてしまっている。
そうして悩み込んだ、その末に────ラグナは屈した。
「す、すみませんクラハさんちゃんと掃除しますから……!」
今は緊急事態、抜き差しならない状況、もうしょうがないのだと、そう自分に言い聞かせて。謝罪を述べつつ申し訳そうな表情を浮かべながら、おずおずとトイレの中へ踏み込むラグナ。
下ろされていた
そうして満を持して、ゆっくりと腰を下ろし、便座に腰かけたラグナは、無意識に正面へ顔を向ける────
『す、すみませんでしたァッッッ?!』
────瞬間、間の抜けた素っ頓狂な悲鳴がラグナの脳裏で炸裂した。
「……」
炸裂したその悲鳴に呼び起こされたのだろう、その一連の記憶を見せつけられて。ラグナの申し訳なさそうな表情は一転して、微妙なものとなり。それから半ば呆れたような声で、静かに呟く。
「羞恥心、なかったのかな……
そうしてようやっと、ラグナは緩やかに、下腹部から力を抜くのであった。
ジャアアアア──掃除も含めた全ての所用を済ませ、流れる水の音を背後に、トイレを後にするラグナ。
そんなラグナが次に向かったのは────リビングであった。ラグナ自身、そこがリビングであるとは露知らずのことだったが。
玄関や廊下と同じように、薄らと埃が積もった床を歩き、リビングを見回すラグナ。特に珍しくもない、至って普通のリビングで。
テーブルや椅子はシンプルなデザインで揃えられており、また置いてある家具の類がどれも見た目より機能性を重視していることから、家主たるクラハが華美をあまり好まず、実用的であることを好む人間なのだと、それをぼんやりと理解し受け入れるラグナ。
そうしてリビングをある程度歩き回っていたラグナは、やがてそれを────ソファを視界に映す。
『本当に、そう思ってんのか?
瞬間、その
『え……あ……』
深夜、月明かりだけが照らす薄暗いリビングに、二人の男女がいた。ソファに座る青年と、彼の膝の上に座る少女がそこにいた。
呆然とした表情を浮かべる青年の両頬を、両手で包み込む少女。口を開くどころか微かに呻くことですらも気が憚られる沈黙の最中、それを破り捨てるように、少女が口を開かせる。
『クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じこと、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ』
縋るかのようにそう訊ねる少女の、その
『っ……ぅ……』
不安と、それに隠れるほんの少しの期待の眼差し。最初こそ堪えていた青年だったが、次第に堪えられなくなり。
『…………っ』
そして遂に、顔を逸らした。少女の眼差しから、逃れるように。
傍目からすれば、裏切りにしか見えない青年の行為。そんな彼に、少女が言葉をかける。
『……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな』
少女の声音は酷く優しくて、穏やかで────そして寂しそうだった。
『こんな時間に悪かった。……おやすみ』
という、少女の言葉を受けて。慌てて青年は口を開こうとするも、それよりも先に少女が膝から下りてしまう。
『せ、先輩っ!』
そうしてようやっと口を開き、青年が少女のことを呼び止める。呼び止められ、その場で立ち止まる彼女に、彼は言う。
『せ、先輩……あの、その……僕は、僕は………』
けれど、辛うじて出せた言葉は、言葉の体を成しておらず。それは失望されても仕方がない、否されて当然のことであり。
やがて立ち止まっていた少女は再び歩き出し、そしてリビングを出て行くのであった。
「……」
ラグナが気がついた時には、既にリビングは元通りになっていた。カーテンが締め切られた窓から差し込むのは朝日の明かり。ソファにも、今や誰もいない。青年────クラハ=ウインドアの姿など、そこにはなかった。在るはずが、なかった。
そんな当たり前の現実を受け止め、受け入れて。先程の
そこは寝室。適当な家具と
そんな寝室の寝台の上に寝転び、天井を仰ぎながら。独り、ラグナは呟く。
「クラハ……」
その名を呟く度、その名を思う度。脳裏を過ぎる、数々の記憶。
『さようなら、ラグナさん』
『あなたの言葉を聞く道理も義理も、今や僕にはない』
『僕は冒険者ランカーだ。あなたは受付嬢だ。……いい加減、その事実を理解してください。その現実を受け止めてくださいよ、ラグナさん』
『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』
こちらを非難し、否定してくるそれらの、
クラハの自宅を見て回ったが、それでも自分のことのようには感じられなかった。その全てがやはり、まるで他人の記憶としか感じない。今の
そのどうしようもなくままならない事実を前に、ラグナはただ辟易とするしかない。
けれど、そんな薄情な今の
「…………何で、貴方は」
クラハが使っていたのだろうその
「そんなに苦しそうな、辛そうな
そう呟かれた疑問に対して、答えが返ってくることはなかった。