パァンッ──乾いたその音は、やけにはっきりと、鮮明過ぎる程に聴こえた。
少し遅れて、僅かな熱と痺れ、そして確かな痛みが頬に広がる。それをありありと、如実に感じ取りながら。
「……どの面下げて、戻って来てんだ。この野郎」
先輩の、怒りと軽蔑が入り混じったそんな言葉を。僕は黙って、聞いていた。
すぐさま厳粛な静寂を取り戻す教会の、祭壇の上で見つめ合う、僕と先輩。おいそれと口を開くことは憚られる沈黙の最中────意を決して、僕は口を開く。
「はい」
少し経ってから、先輩もまた閉ざしたその口を再度開かせ、言う。
「俺のこと、あんだけ傷つけといて」
「はい」
「突き放して、勝手に離れて」
「はい」
先輩の一言一句を聞かされる度に、僕の脳裏に呼び起こされる数々の非道な所業。それら全ては他ならない僕の意思により、行われたものである。
「それでよく、戻って来れたもんだよな」
「……はい」
もはや僕には謝罪を口にする資格すらない。故に先輩の非難をただ受け入れる他になかった。
当然、そんな僕の態度に腹を立てたのか、若干棘のある声音で、先輩が僕に訊ねる。
「それで?何しに戻って来たんだよ、お前」
「もう一度、先輩に会う為に」
その返答が先輩の逆鱗に触れることは、わかり切っていた。だが、たとえそうであったとしても、僕はこれ以外の返答を口にするつもりもなかった。
何故ならば、それが僕の紛れもない、心の底からの本音なのだから。
「…………」
案の定、僕の返答を受けた先輩は鋭く、煌めきを灯す紅玉の瞳を細めた────のも、一瞬のことで。
「そっか。俺に会いに、な」
と、呟くその声は柔らかく、
「も一つ、訊くけど」
柔らかな声音のままそう言って、先輩は僕に更に訊ねる。
「今お前さ、俺のことどう思ってんだ?」
──……。
その先輩の質問は、否応にも────
『クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?』
────あの夜のことを、僕に思い出させる。
あの時の僕は何も答えられなかった。本当なら即座に答えを返すべき場面で答えに窮し、結局何も言えず。そして先輩を失望させてしまった。
──そうだ。僕は裏切った……あの時からずっと、僕は先輩を裏切り続けて、しまった。
だが、今は違う。今なら、僕は確固たる自信を以て、そうですと答えられる────けれど、今やそれすらも
そう。こんなことになってしまった以上、もはや先輩にとってこの答えは、もう間違いでしかない────
「僕にとっての先輩は、先輩しかいません」
────そのことを重々承知した上で、それでも僕はそう答えた。
僕と先輩の間で、静寂が流れる。それが一分程続いた後、不意に先輩は両腕を振り上げたかと思えば、僕の首に回し。
そうして僕を自らの元に引き寄せつつ、先輩も上体を起こし────
「嘘吐き」
────と、僕の耳に触れるかないかの、その寸前にまで口を近づけさせ。僕の胸板に柔らかなその胸を遠慮なく押し当て、押し潰しながら。
そして僕が初めて聴く、驚く程甘ったるく、毒々しいまでに蕩けた魔性の声音で。そっと、僕にそう囁くのだった。
「女が欲しいなら素直にそう言やいいのに」
僕が呆然とする間もなく、先輩はそう言いながら、僕から顔を離す。
先輩の顔には微笑みが浮かんだままだった。が、いつの間にかそれは変質してしまっていて。先程が慈愛的であるとすれば、今やそれは性愛的なものに、文字通り変貌を遂げていた。
「まあ、お前なら構わねえよ別に。他の男に比べりゃ全然マシっていうか、なんていうか」
まるで
「じゃあ
堪らず固まる僕に対してそう言いながら、片腕を僕の首に回したまま、もう片方の腕を離れさせ。僕の胸板に指先を沿わせて下へなぞらせ、そうして僕の手を掴み。そして自らの胸元へと、導こうとする先輩。
小柄な体躯に反して豊かに膨らんだ先輩の胸に、僕の指先が触れる────寸前。
「ラグナ先輩」
少し力を加えただけで、それだけで粉々に砕けて壊れてしまいそうな。そんな印象を抱かざるを得ない、小さく華奢なその手を。僕は慎重に、けれど何かの拍子でするりと抜け落ちてしまわないように、確かに握り締めて。
そして自分が今最大限出せる、真剣な声で、その名を口に出す。
そんな僕の行動が予想外だったのか、似合わないその笑みを崩し、僅かに目を見開かせる先輩。そんな先輩に対して、僕は続ける。
「嘘なんかじゃありません。先輩は先輩だって、僕は何度だって言ってみせますよ」
目は逸らさない。決して、絶対に。たとえ目潰しをされるとしても、僕はそれを望んで受け入れる。
その覚悟と思いの下、僕は先輩の顔を見据える。当の先輩といえば、呆然としていた────と、僕がそう思ったのも束の間。
「もうちょっと、さ。他の建前は思いつかなかったのかよ」
呆れたその声音と違わない表情で、先輩は僕にそう言い、仕方なさそうに嘆息するのだった。
「やっぱ恥ずかしいってか?そりゃ確かに童貞だしな、お前。とりあえず、俺に任せて楽にしてろ。こっちだってまあ、処女だけどよ。どうすりゃいいのかは大体わかってるか「建前でもありません」
優しくも何処か揶揄うような先輩の言葉を、途中で遮り。はっきりと、僕は先輩にそう言う。
先輩といえば、やはり驚いたように目を丸くして。それから動揺して僅かに震える声で、先輩は僕に言い返す。
「だ、だからもういいって言ってるだろ、そういうの。わかってんだからな、俺だって」
「いいえ。先輩は何もわかってません」
僕の言葉に透かさず先輩は何か言おうとしたが。その前に、僕は声を上げる。
「なので、言いますね」
そうして無理矢理にも先輩の出鼻を挫いた後、その宣言通り、僕は先輩にはっきりと告げる。
「先輩は先輩です。嘘でも、ましてや誤魔化しの建前なんかでもありません。それが僕の思いです」
「……黙れ」
「嫌です。何度でも言ってみせるって言いましたから。僕にとって先輩は、先輩です」
「煩い」
「ただ一人の、唯一の、先輩なんです」
パァンッ──瞬間、今度は左の頬を引っ叩かれた。
「ふざけんのも!馬鹿にすんのも!いい加減にしろッ!!」
すぐさま、先輩が声を張り上げさせる。こちらを睨めつけるその瞳は、完全な敵意で満ちていた。
「先輩?俺が?今の俺が、こんな俺がか?お前それ本気で言ってるんだよな!?なあッ!!」
笑みはとうに、跡形もなく消え去って。その代わりに今浮かんでいるのは、ただただ純然とした怒りのみ。それをまざまざと僕に見せつけて、ラグナ先輩は続ける。
「お前こそ何もわかってねえんだよ!お前がさっきからほざいてる先輩なんてもうどこにもいやしない!」
そして遂に、その一言を先輩は口にした。
「今いんのは、こんなヒラヒラした服着た、一人の女だッ!!!」
言い終えた先輩は、肩を大きく何度も上下させ、荒い呼吸を繰り返し。しばらくして、僕から目を逸らし、顔を伏せ。
「……お前が俺を女にした癖に……」
そうして、消え入りそうな声で、先輩はそう呟くのだった。
──……その通りだ。
その最後の呟きが、僕の自己嫌悪と罪悪感を一気に加速させた。
──先輩の言うことは何も間違っていない。僕の所為で、僕なんかの所為で、先輩は……。
「それでも」
何の後ろめたさも感じさせることのないように。そしてこちらの言葉に嘘偽りなど微塵も皆無で、そんなものが介在する余地もないことが伝わるように。
「先輩は、先輩です」
そう、僕は言い切った。……が、それに対して先輩は何も。反応らしい反応を、何も示すことはなかった。
「たとえ世界中の誰も彼もがそうではないと、否定しても。そして他の誰でもない先輩自身がそうではないと、否定したとしても」
しかし、たかがそれしきのことで。僕はもう止まらない。止まる訳にはいかない。後には退かず、前に進むだけだ。
不退転の覚悟と意思を以て、僕は躊躇うことなく、そして遠慮なく────
「僕だけは先輩を先輩だと、言い続けます。どんなことがあったとしても、そう言い張り続けます」
────そう、先輩に告げるのだった。
数分の静寂が教会に満ちる。その間、僕は先輩から目を逸らすことはせず。先輩は顔を伏せたままだった。
──自分が言いたいことは言った。これで後はもう……。
胸が張り裂けそうな緊張感の下、僕が固唾を呑んで、黙って待っていた、その時。
不意に、鼻を啜る音が微かに聴こえた。それは間違いなく、先輩の方からしたもので。そうであると僕が認識した、その瞬間。
「……ふざ、けんな……っ」
と、どうにか言った直後。先輩は伏せていたその顔を上げた。
先輩は、泣いていた。次々と、止め処なく。その瞳から雫を溢れさせては、零していた。
「
と、言った後。少しの間を挟んでから、ラグナ先輩は再び口を開く。
「なあ、クラハ」
ようやっと僕の名前を呼んで、恐る恐る先輩が言う。
「この格好、さ……その、えっと……に、似合ってる、か……?」
『この格好どうだっ!?……お、俺、似合ってる…………か……?』
その問いかけもまた、その日のことを僕に思い出させた。
本当なら、似合ってなどいないと。そう答えるのが
……だが、しかし。僕は先輩に対して、もう
「…………似合ってますよ。似合ってない訳、ないじゃないですか」
だからこそ、僕はそう答えた。瞬間、先輩の顔が固まる。その反応は予想の範疇内で、そして僕の言葉を聞いて、先輩がどう思ったのかも、手に取るようにわかってしまう。
「先輩のドレス姿。とても綺麗で、素敵で、本当に魅力的だと思います」
依然として涙を流すその瞳を大きく思い切り見開かせ、憤怒と悲哀が混在する、凄絶極まる形相で三度手を振り上げる先輩を前に。僕はそれでも構わず、言葉を続ける。
「でも」
そうして、振り下ろされた先輩の手が僕の頬を打つ────
「先輩には相応しくない」
────寸前で、僕は言い終えることができた。
「…………」
振り下ろされた先輩の手は、僕の頬に触れる寸前で、止まっていた。