不意に、意識が覚醒する。そうして、少し遅れて、自分はどうやらいつの間にか眠ってしまっていたことを。ぼんやりとする意識の最中で、まるで他人事のように思いながらも理解する。
──……俺、寝て……?
寝起き直後特有の、鈍く重く思考が上手く定まらない頭で。とりあえず、自分が今どんな状況に置かれているのかを確認しようと。そう思った、瞬間。
「先輩!」
耳に馴染んだその声が、聞こえてきた。先輩と、その声は呼んでくれた。
──ッ……!
勝手に全身が強張る。途端に心臓が早鐘を打ち始め、肌に薄らと緊張の汗が滲み浮かぶ。
反射的に開こうとした目を、閉ざしたままにする。どうしてそうしたのかは、自分でもよくわからない。
ただ、時間が欲しかった。気合いを入れる為の、意を決する為の、覚悟をする為の。そういった準備をする時間が、必要だった。
「起きてください、先輩。ラグナ先輩……!」
しかし、当然のようにそんな時間が与えられるはずもなく。声の主はあっという間にこちらのすぐ傍にまで駆け寄ってきて。心配の言葉をかけながら、身体を揺さぶってくる。
──……。
相変わらず、どうすればいいのかわからず。またこのまま素直に目を開くことも、何故か躊躇って。
結果、雑な狸寝入りを決め込んでしまった。が、それでも身体は揺すられ続け、心配と不安に駆られる声で呼びかけ続けられ。
──……ああ、もう。
とうとう根負けて────ラグナは遂に、ゆっくりとその目を開かせた。
「先輩!大丈夫ですか!?怪我はありませんか!?」
そしてこちらがその顔を捉えるとほぼ同時に、そう訊ねてくる目の前の青年────クラハ。
一体、いつぶりになるのだろうか。こうして互いにちゃんと、顔を見合わせるのは。実際はそう大した月日は過ぎていないはずなのに、まるで十数年を経た再会のように思えてしまう。
──クラハ……。
以前と変わらない様子で、先輩と呼ぶクラハの顔に。ラグナは無意識の内に腕を上げ、手を伸ばす。
信じられない。こうして目の前にいるはずなのに、未だに信じられないでいる。だが、それも仕方ないのではなかろうか。
何故ならば、このクラハとの再会を素直に受け止め、純粋に心から喜べない程の────
『さようなら。ラグナさん』
『あなたは違う』
『これでいいと、そうは思いませんか』
『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』
『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』
────あまりにも壮絶で、ただただ一方的な別れ方だったのだから。
クラハは今、どんな気持ちでここにいるのだろうか。何を思い、考え、こうして会いに来てくれたのだろうか────そんなことを気にしながら、ラグナはクラハの顔を再度見つめる。
きっと、その声と同じような、酷い顔をしているに違いないだろうから。後悔と罪悪感に苛まれて、もはやどうしようもないことになっているだろうから。
そう思ったラグナの視界に飛び込んだのは────
──……あ、れ……?
────自分が思い描いていたものとは、まるで正反対の。こちらのことをただひたすらに真摯に見つめる、どこまでも真剣な表情であった。
そのことでラグナは驚き、目を見開く────寸前で、どうにか堪えた。
──……お前、いつの間にそんな顔できるようになって……。
その事実にラグナは少し淋しいような思いを抱き、そして確と認識する。
──これまでに何があったのか、俺にはわからないけど。乗り越えたんだな、クラハ。
先輩として、それは誇らしい。後輩の成長を嬉しく思わない訳がない。
故にだからこそ、ラグナは思う。思わざるを得ない。
──じゃあやっぱ、俺はもうお前の先輩には
ラグナは覚えている。
『…………あの、ラグナって……
自分が
──俺にお前と向き合う資格なんて、なかった。俺はそれを、自分から捨てちまった。
クラハに伸ばした手が。彼の頬に指先が、触れる────
パァンッ──その寸前で、ラグナはクラハの頬を張った。
──だからもう、全部終わらせる。
「……どの面下げて、戻って来てんだ。この野郎」
できる限り嫌な表情を取り繕い、声にも表して、ラグナはその一言をクラハに対して吐き捨てる。
果たして、クラハはどう思っただろうか。これでまた自分を見放してくれるだろうか。
「はい」
否。乗り越えたクラハは、こんな程度ではまるでへこたれないことを、ラグナは重々承知している。
「俺のこと、あんだけ傷つけといて」
故に、更にラグナは続ける。
「はい」
心にもない言葉を、クラハにぶつける。
「突き放して、勝手に離れて」
「はい」
そうして、ラグナは止めの一言を口に出す。
「それでよく、戻って来れたもんだよな」
「……はい」
流石のクラハといえど、その一言には数秒の沈黙を経てからでないと返せなかったらしく。またその声も、先程と比べて幾らか苦しげで、辛そうだった。
──ここで逆ギレかまさないところが、本当にお前だよな。
と、心の中で呟きつつ。腹の奥から込み上げてくる吐き気に耐えながら、ラグナは言う。
「それで?何しに戻って来たんだよ、お前」
「もう一度、先輩に会う為に」
「…………」
ギュ──その言葉を聞いて、ラグナは思わず手を握り締めてしまった。
──お前、さ……!
正直に言ってしまえば嬉しかった。嬉しくない訳がなかった────だが、それと同時にちょっと、腹も立った。
どうして、今になって。今頃、こんなことになってからそんなことを言うのか────そう思わずにはいられなくて。そしてラグナは悟る。
責めたり詰ったところで、今のクラハは止まらない。であるなら、やり方を変えるまでだ。
「そっか。俺に会いに、な」
自分としては、メルネの声音を真似たつもりだった。けれどいざこうして聴いてみると、全身の肌が粟立つ。自分に対する気色悪さと気恥ずかしさに、この場から逃げ出してしまいそうになる。
「も一つ、訊くけど」
だが今はそれを必死になって堪えながら、ラグナはクラハに訊ねる。
「今お前さ、俺のことどう思ってんだ?」
そう訊ねる傍ら、ラグナは思い出さずにはいられない────あの夜のことを。
『…………っ』
……本当はあの時、たとえ嘘であったとしても構わないから────
「僕にとっての先輩は、先輩しかいません」
────そういうことを、言ってほしかった。
──……あー、何で……こんなことになっちまったのかなぁ。
そう思いながら、気がつけばラグナはクラハに抱きついていた。彼の首に両腕を回し、無駄に大きく膨らんだ胸をここぞとばかりに押しつけ、潰しながら。
「嘘吐き」
と、耳元で囁いた。その声はラグナ本人でさえも今初めて耳にするものだった。
自分が出してるとは思えないような、自分のものとは信じられないような、その声のまま。ラグナはクラハに続ける。
「女が欲しいなら素直にそう言やいいのに」
少し離れて見てみれば、クラハは呆然とした表情でこちらを見ていた。それを目の当たりにしたまま、ラグナは彼に言う。
「まあ、お前なら構わねえよ別に。他の男に比べりゃ全然マシっていうか、なんていうか」
……別に嘘などではない。ここでクラハに押し倒されたのなら、ラグナは彼を甘んじて受け入れ、一人の女として最後まで受け止めるつもりであった。
「じゃあ
と、
「ラグナ先輩」
掴んでいた手で、こちらの手を握り返され。そして一段と低くなった真剣な声音で、クラハにそう呼ばれてしまった。
先輩────その響きに、決意が揺らぎそうになる。
「嘘なんかじゃありません。先輩は先輩だって、僕は何度だって言ってみせますよ」
その言葉に、折れてしまいそうになる。
「もうちょっと、さ。他の建前は思いつかなかったのかよ」
だからこそ。そんな自分に嫌気が差しながらも、身も蓋もない最低な言葉を、ラグナは吐き捨てた。
「やっぱ恥ずかしいってか?そりゃ確かに童貞だしな、お前。とりあえず、俺に任せて楽にしてろ。こっちだってまあ、処女だけどよ。どうすりゃいいのかは大体わかってるか「建前でもありません」
そしてそれこそが建前であることを悟られないよう、早口で言い終えようとしたラグナの言葉は、クラハによって遮られる。
「だ、だからもういいって言ってるだろ、そういうの。わかってんだからな、俺だって」
そのことに思わず驚きながらも、負けじとそう返すラグナ。しかし、クラハは至って平然とした様子で、静かに言う。
「いいえ。先輩は何もわかっていません」
何が────そう、ラグナは言おうとした。
「なので、言いますね」
けれど、クラハが言わせてくれなかった。こちらに口を挟む余地を許さず、彼は言う。
「先輩は先輩です。嘘でも、ましてや誤魔化しの建前なんかでもありません。それが僕の思いです」
「……黙れ」
「嫌です。何度でも言ってみせるって言いましたから。僕にとって先輩は、先輩です」
「煩い」
「ただ一人の、唯一の、先輩なんです」
パァンッ──気がついた時には、手を出してしまっていた。
「ふざけんのも!馬鹿にすんのも!いい加減にしろッ!!」
その言葉も、気がつけば口に出してしまっていた。両頬を赤く腫らすクラハの顔を目の当たりにしながら、熱くなった頭のまま、ラグナは続ける。
「先輩?俺が?今の俺が、こんな俺がか?お前それ本気で言ってるんだよな!?なあッ!!」
心の奥底に押し込め、押し留めていた本音を、怒声と共に吐き散らす。
「お前こそ何もわかってねえんだよ!お前がさっきからほざいてる先輩なんてもうどこにもいやしない!」
そうして、とうとう────
「今いんのは、こんなヒラヒラした服着た、一人の女だッ!!!」
────それすらも、ラグナは吐き出してしまった。
全部言い終えて、肩を大きく上下させ、荒い呼吸を何度も繰り返す。ラグナがそうしている間、クラハは黙り込んでいた。
そんなクラハを尻目に、ぽつりとラグナは呟く。
「……お前が俺を女にした癖に……」
それを最後に、ようやっとラグナは口を閉ざした。
──言っちゃった、俺……。
しかし、もうこれでいい。こんな形で終わらせるつもりはなかったが、終わりには違いないのだから。
「それでも」
そう、ラグナが思った矢先。沈黙を破って、クラハが言う。
「先輩は、先輩です」
……次に何を言えばいいのか、もうわからなかった。
「たとえ世界中の誰も彼もがそうではないと、否定しても。そして他の誰でもない先輩自身がそうではないと、否定したとしても」
だから、黙っているしかなかった。だが、それでもクラハは続けた。
「僕だけは先輩を先輩だと、言い続けます。どんなことがあったとしても、そう言い張り続けます」
そう、言い切った。
──…………ああ、駄目だ。駄目だって、わかってるのに……。
そう、わかっている────もはや女となってしまった自分に。自ら進んでこんな格好をするようになってしまった自分に、先輩と呼ばれる資格はないことなど、とうにわかり切っている。
……なのに。だというのに、そんなことを言われてしまえば。
「……ふざ、けんな……っ」
先輩、と。また呼ばれたくなるに決まっている。
「
別に泣きたくもないのに、涙が勝手に瞳から溢れ出してくる。しかし、この涙を止められる気はしないし、だからといって手の甲で拭う気力もない。
──俺は、先輩でいいのか……?
涙を流しながら、ラグナはそう思い。そして再度、口を開いた。
「なあ、クラハ」
そうして、恐る恐るとクラハに訊ねる。
「この格好、さ……その、えっと……に、似合ってる、か……?」
その問いかけもまた────
『この格好どうだっ!?……お、俺、似合ってる…………か……?』
────あの日のことを、ラグナに思い出させる。
──これで、もし。
きっと、まるで追い縋るような、救いを求めるかのような。そんな情けない表情を浮かべていたに違いない。
それでも、聞きたかった。他の誰でもないクラハの口から、それを聞きたかった。
──似合ってないって、そう言ってくれれば、俺は……っ。
と、切に願いながら。答えを待つラグナに対して、少しの沈黙を挟んでから、クラハは。
「…………似合ってますよ。似合ってない訳、ないじゃないですか」
そう、答えるのだった。
──……………。
瞬間、ラグナの時間が止まった。
「先輩のドレス姿。とても綺麗で、素敵で、本当に魅力的だと思います」
直後。怒りと悲しみがラグナの中で滅茶苦茶に入り乱れ、無茶苦茶に入り混じった末に、酷く醜悪で歪な負の感情となり。
「でも」
それがラグナを堪え難い衝動で以て、無理矢理に突き動かす。自分でも気づかない内に振り上げたその手を、ラグナはクラハに向かって振り下ろし────
「先輩には相応しくない」
────そして手の平が頬を打ち抜く、その寸前で。クラハの言葉が、またしてもラグナの時間を止めた。
──……ああ、そっか。
呆然とする意識の最中。ただこちらを真っ直ぐ見据えるクラハの顔を見つめながら、ラグナはようやっと理解した。
──俺はあの時、クラハにそう言って、ほしかったんだ……。
それを理解した瞬間、ラグナは────────クラハに、思い切り抱きついていた。