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終焉の始まり(その四十二)

 不意に、意識が覚醒する。そうして、少し遅れて、自分はどうやらいつの間にか眠ってしまっていたことを。ぼんやりとする意識の最中で、まるで他人事のように思いながらも理解する。


 ──……俺、寝て……?


 寝起き直後特有の、鈍く重く思考が上手く定まらない頭で。とりあえず、自分が今どんな状況に置かれているのかを確認しようと。そう思った、瞬間。






「先輩!」






 耳に馴染んだその声が、聞こえてきた。先輩と、その声は呼んでくれた。


 ──ッ……!


 勝手に全身が強張る。途端に心臓が早鐘を打ち始め、肌に薄らと緊張の汗が滲み浮かぶ。


 反射的に開こうとした目を、閉ざしたままにする。どうしてそうしたのかは、自分でもよくわからない。


 ただ、時間が欲しかった。気合いを入れる為の、意を決する為の、覚悟をする為の。そういった準備をする時間が、必要だった。


「起きてください、先輩。ラグナ先輩……!」


 しかし、当然のようにそんな時間が与えられるはずもなく。声の主はあっという間にこちらのすぐ傍にまで駆け寄ってきて。心配の言葉をかけながら、身体を揺さぶってくる。


 ──……。


 相変わらず、どうすればいいのかわからず。またこのまま素直に目を開くことも、何故か躊躇って。


 結果、雑な狸寝入りを決め込んでしまった。が、それでも身体は揺すられ続け、心配と不安に駆られる声で呼びかけ続けられ。


 ──……ああ、もう。


 とうとう根負けて────ラグナは遂に、ゆっくりとその目を開かせた。


「先輩!大丈夫ですか!?怪我はありませんか!?」


 そしてこちらがその顔を捉えるとほぼ同時に、そう訊ねてくる目の前の青年────クラハ。


 一体、いつぶりになるのだろうか。こうして互いにちゃんと、顔を見合わせるのは。実際はそう大した月日は過ぎていないはずなのに、まるで十数年を経た再会のように思えてしまう。


 ──クラハ……。


 以前と変わらない様子で、先輩と呼ぶクラハの顔に。ラグナは無意識の内に腕を上げ、手を伸ばす。


 信じられない。こうして目の前にいるはずなのに、未だに信じられないでいる。だが、それも仕方ないのではなかろうか。


 何故ならば、このクラハとの再会を素直に受け止め、純粋に心から喜べない程の────




『さようなら。ラグナさん』


『あなたは違う』


『これでいいと、そうは思いませんか』


『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』


『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』




 ────あまりにも壮絶で、ただただ一方的な別れ方だったのだから。


 クラハは今、どんな気持ちでここにいるのだろうか。何を思い、考え、こうして会いに来てくれたのだろうか────そんなことを気にしながら、ラグナはクラハの顔を再度見つめる。


 きっと、その声と同じような、酷い顔をしているに違いないだろうから。後悔と罪悪感に苛まれて、もはやどうしようもないことになっているだろうから。


 そう思ったラグナの視界に飛び込んだのは────


 ──……あ、れ……?


 ────自分が思い描いていたものとは、まるで正反対の。こちらのことをただひたすらに真摯に見つめる、どこまでも真剣な表情であった。


 そのことでラグナは驚き、目を見開く────寸前で、どうにか堪えた。


 ──……お前、いつの間にそんな顔できるようになって……。


 その事実にラグナは少し淋しいような思いを抱き、そして確と認識する。


 ──これまでに何があったのか、俺にはわからないけど。乗り越えたんだな、クラハ。


 先輩として、それは誇らしい。後輩の成長を嬉しく思わない訳がない。


 故にだからこそ、ラグナは思う。思わざるを得ない。


 ──じゃあやっぱ、俺はもうお前の先輩には


 ラグナは覚えている。






『…………あの、ラグナって……






 自分がを。


 ──俺にお前と向き合う資格なんて、なかった。俺はそれを、自分から捨てちまった。


 クラハに伸ばした手が。彼の頬に指先が、触れる────




 パァンッ──その寸前で、ラグナはクラハの頬を張った。




 ──だからもう、全部終わらせる。


「……どの面下げて、戻って来てんだ。この野郎」


 できる限り嫌な表情を取り繕い、声にも表して、ラグナはその一言をクラハに対して吐き捨てる。


 果たして、クラハはどう思っただろうか。これでまた自分を見放してくれるだろうか。


「はい」


 否。乗り越えたクラハは、こんな程度ではまるでへこたれないことを、ラグナは重々承知している。


「俺のこと、あんだけ傷つけといて」


 故に、更にラグナは続ける。


「はい」


 心にもない言葉を、クラハにぶつける。


「突き放して、勝手に離れて」


「はい」


 そうして、ラグナは止めの一言を口に出す。


「それでよく、戻って来れたもんだよな」


「……はい」


 流石のクラハといえど、その一言には数秒の沈黙を経てからでないと返せなかったらしく。またその声も、先程と比べて幾らか苦しげで、辛そうだった。


 ──ここで逆ギレかまさないところが、本当にお前だよな。


 と、心の中で呟きつつ。腹の奥から込み上げてくる吐き気に耐えながら、ラグナは言う。


「それで?何しに戻って来たんだよ、お前」


「もう一度、先輩に会う為に」


「…………」


 ギュ──その言葉を聞いて、ラグナは思わず手を握り締めてしまった。


 ──お前、さ……!


 正直に言ってしまえば嬉しかった。嬉しくない訳がなかった────だが、それと同時にちょっと、腹も立った。


 どうして、今になって。今頃、こんなことになってからそんなことを言うのか────そう思わずにはいられなくて。そしてラグナは悟る。


 責めたり詰ったところで、今のクラハは止まらない。であるなら、やり方を変えるまでだ。


「そっか。俺に会いに、な」


 自分としては、メルネの声音を真似たつもりだった。けれどいざこうして聴いてみると、全身の肌が粟立つ。自分に対する気色悪さと気恥ずかしさに、この場から逃げ出してしまいそうになる。


「も一つ、訊くけど」


 だが今はそれを必死になって堪えながら、ラグナはクラハに訊ねる。


「今お前さ、俺のことどう思ってんだ?」


 そう訊ねる傍ら、ラグナは思い出さずにはいられない────あの夜のことを。






『…………っ』






 ……本当はあの時、たとえ嘘であったとしても構わないから────




「僕にとっての先輩は、先輩しかいません」




 ────そういうことを、言ってほしかった。


 ──……あー、何で……こんなことになっちまったのかなぁ。


 そう思いながら、気がつけばラグナはクラハに抱きついていた。彼の首に両腕を回し、無駄に大きく膨らんだ胸をここぞとばかりに押しつけ、潰しながら。


「嘘吐き」


 と、耳元で囁いた。その声はラグナ本人でさえも今初めて耳にするものだった。


 自分が出してるとは思えないような、自分のものとは信じられないような、その声のまま。ラグナはクラハに続ける。


「女が欲しいなら素直にそう言やいいのに」


 少し離れて見てみれば、クラハは呆然とした表情でこちらを見ていた。それを目の当たりにしたまま、ラグナは彼に言う。


「まあ、お前なら構わねえよ別に。他の男に比べりゃ全然マシっていうか、なんていうか」


 ……別に嘘などではない。ここでクラハに押し倒されたのなら、ラグナは彼を甘んじて受け入れ、一人の女として最後まで受け止めるつもりであった。


「じゃあ接吻キスから始めるか。ああ、それとも俺の胸でも触ってみるか?お前だって少しくらいは揉んでみたいだろ」


 と、雰囲気ムードなどお構いなしにそう言うや否や、ラグナはクラハの手を掴み、自らの胸元に近づけ、触れさせる────寸前。


「ラグナ先輩」


 掴んでいた手で、こちらの手を握り返され。そして一段と低くなった真剣な声音で、クラハにそう呼ばれてしまった。


 先輩────その響きに、決意が揺らぎそうになる。


「嘘なんかじゃありません。先輩は先輩だって、僕は何度だって言ってみせますよ」


 その言葉に、折れてしまいそうになる。


「もうちょっと、さ。他の建前は思いつかなかったのかよ」


 だからこそ。そんな自分に嫌気が差しながらも、身も蓋もない最低な言葉を、ラグナは吐き捨てた。


「やっぱ恥ずかしいってか?そりゃ確かに童貞だしな、お前。とりあえず、俺に任せて楽にしてろ。こっちだってまあ、処女だけどよ。どうすりゃいいのかは大体わかってるか「建前でもありません」


 そしてそれこそが建前であることを悟られないよう、早口で言い終えようとしたラグナの言葉は、クラハによって遮られる。


「だ、だからもういいって言ってるだろ、そういうの。わかってんだからな、俺だって」


 そのことに思わず驚きながらも、負けじとそう返すラグナ。しかし、クラハは至って平然とした様子で、静かに言う。


「いいえ。先輩は何もわかっていません」


 何が────そう、ラグナは言おうとした。


「なので、言いますね」


 けれど、クラハが言わせてくれなかった。こちらに口を挟む余地を許さず、彼は言う。


「先輩は先輩です。嘘でも、ましてや誤魔化しの建前なんかでもありません。それが僕の思いです」


「……黙れ」


「嫌です。何度でも言ってみせるって言いましたから。僕にとって先輩は、先輩です」


「煩い」


「ただ一人の、唯一の、先輩なんです」


 パァンッ──気がついた時には、手を出してしまっていた。


「ふざけんのも!馬鹿にすんのも!いい加減にしろッ!!」


 その言葉も、気がつけば口に出してしまっていた。両頬を赤く腫らすクラハの顔を目の当たりにしながら、熱くなった頭のまま、ラグナは続ける。


「先輩?俺が?今の俺が、こんな俺がか?お前それ本気で言ってるんだよな!?なあッ!!」


 心の奥底に押し込め、押し留めていた本音を、怒声と共に吐き散らす。


「お前こそ何もわかってねえんだよ!お前がさっきからほざいてる先輩なんてもうどこにもいやしない!」


 そうして、とうとう────






「今いんのは、こんなヒラヒラした服着た、一人の女だッ!!!」






 ────それすらも、ラグナは吐き出してしまった。


 全部言い終えて、肩を大きく上下させ、荒い呼吸を何度も繰り返す。ラグナがそうしている間、クラハは黙り込んでいた。


 そんなクラハを尻目に、ぽつりとラグナは呟く。


「……お前が俺を女にした癖に……」


 それを最後に、ようやっとラグナは口を閉ざした。


 ──言っちゃった、俺……。


 しかし、もうこれでいい。こんな形で終わらせるつもりはなかったが、終わりには違いないのだから。


「それでも」


 そう、ラグナが思った矢先。沈黙を破って、クラハが言う。


「先輩は、先輩です」


 ……次に何を言えばいいのか、もうわからなかった。


「たとえ世界中の誰も彼もがそうではないと、否定しても。そして他の誰でもない先輩自身がそうではないと、否定したとしても」


 だから、黙っているしかなかった。だが、それでもクラハは続けた。


「僕だけは先輩を先輩だと、言い続けます。どんなことがあったとしても、そう言い張り続けます」


 そう、言い切った。


 ──…………ああ、駄目だ。駄目だって、わかってるのに……。


 そう、わかっている────もはや女となってしまった自分に。自ら進んでこんな格好をするようになってしまった自分に、先輩と呼ばれる資格はないことなど、とうにわかり切っている。


 ……なのに。だというのに、そんなことを言われてしまえば。


「……ふざ、けんな……っ」


 先輩、と。また呼ばれたくなるに決まっている。


りぃよ、お前、本当に……!」


 別に泣きたくもないのに、涙が勝手に瞳から溢れ出してくる。しかし、この涙を止められる気はしないし、だからといって手の甲で拭う気力もない。


 ──俺は、先輩でいいのか……?


 涙を流しながら、ラグナはそう思い。そして再度、口を開いた。


「なあ、クラハ」


 そうして、恐る恐るとクラハに訊ねる。


「この格好、さ……その、えっと……に、似合ってる、か……?」


 その問いかけもまた────






『この格好どうだっ!?……お、俺、似合ってる…………か……?』






 ────あの日のことを、ラグナに思い出させる。


 ──これで、もし。


 きっと、まるで追い縋るような、救いを求めるかのような。そんな情けない表情を浮かべていたに違いない。


 それでも、聞きたかった。他の誰でもないクラハの口から、それを聞きたかった。


 ──似合ってないって、そう言ってくれれば、俺は……っ。


 と、切に願いながら。答えを待つラグナに対して、少しの沈黙を挟んでから、クラハは。




「…………似合ってますよ。似合ってない訳、ないじゃないですか」




 そう、答えるのだった。


 ──……………。


 瞬間、ラグナの時間が止まった。


「先輩のドレス姿。とても綺麗で、素敵で、本当に魅力的だと思います」


 直後。怒りと悲しみがラグナの中で滅茶苦茶に入り乱れ、無茶苦茶に入り混じった末に、酷く醜悪で歪な負の感情となり。


「でも」


 それがラグナを堪え難い衝動で以て、無理矢理に突き動かす。自分でも気づかない内に振り上げたその手を、ラグナはクラハに向かって振り下ろし────






「先輩には相応しくない」






 ────そして手の平が頬を打ち抜く、その寸前で。クラハの言葉が、またしてもラグナの時間を止めた。


 ──……ああ、そっか。


 呆然とする意識の最中。ただこちらを真っ直ぐ見据えるクラハの顔を見つめながら、ラグナはようやっと理解した。


 ──俺はあの時、クラハにそう言って、ほしかったんだ……。


 それを理解した瞬間、ラグナは────────クラハに、思い切り抱きついていた。

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