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終焉の始まり(その四十三)

「ねえ、ロックス」


 この街オールティアの教会が建つ遠方を眺めていたメルネが、不意に口を開き。彼女に名を呼ばれたロックスは、咥えた煙草タバコの赤く燃ゆる先端から紫煙を燻らせながら、彼女の方に振り向く。


「はい。何です、姐さん?」


 と、返事をしたロックスに。メルネは遠方を眺めたまま、静かに問う。


「覚えているわよね?あの事件」


 何の脈絡もない、その突飛で唐突なメルネの問いかけに対して、ロックスがすぐに答えることはなかった。


 ロックスは依然として紫煙をゆらゆらと燻らせて、数秒。


「『魔人』クレヒト」


 ようやっと、その一言だけを彼は口にした。


『大翼の不死鳥』ウチGMギルドマスター……いえ、当時の『六険』たちの尽力により未遂に終わったものの、GDMグランドマスター、オルテシア=ヴィムヘクシスの殺害を企て実行しようとしたあの男のことなんて、忘れられる訳がありませんて。あの時はまだ馬鹿な子供ガキだった俺でも」


 そこまで言い終えると、ロックスは徐に【次元箱ディメンション】を開き、今し方まで咥えていた煙草を投げ入れる。それから神妙な面持ちで、彼は再度口を開いた。


「正直、似てると思ってますよ」


 そう言うロックスの脳裏に過ぎる、先程の光景────ライザーが見せた、得体の知れない謎の力。


「悪魔と交わした契約により手にした奴の力と、ライザーの力」


 ですが、と。ロックスがこう続ける。


「クレヒトのものとは何処か……何かが決定的に違う。俺はそんな気がします」


「ええ、そうね」


「そしてそれは自分よりも、姐さんの方が強く、感じてるんじゃあないでしょうか」


「……ええ、そうね」


 呟くメルネの脳裏に呼び起こされる、一ヶ月程前の記憶────突如として空を割り砕き、影のような無数の手を従えて、この世界に顕現あらわれる、あの光景すがた


 そうして二人の間に流れる沈黙。それを先に破ったのは、メルネの方であった。


「待ちましょう」


 教会の方を見つめ、固く拳を握り締めながら、メルネがそう呟く。


「信じて、待ちましょう」


 まるで自分で言い聞かせるように────






『ハハ、ハハハッ!フハァハハハハッ!!』






 ────胸中に滲み広がりつつある、なんとも言えない気色の悪い、その嫌な予感を無視するように。





















「あなたには相応しくない」


 僕がそう言い終えるとほぼ同時に、僕の頬を打つ寸前で、ラグナ先輩の手は止まっていた。その顔からも、今し方まで浮かんでいた、筆舌に尽くし難い凄絶な形相は何処へやらと消え去っており。


 今や呆気に取られたような……まあ、今この状況で先輩に面向かってそうとは口が裂けたとしても言えないが、少し可愛らしい表情となっていた。


 そのまま数秒の間、互いの顔を見つめ合う僕とラグナ先輩。いても立ってもいられないようなその緊張感に、僕が堪らず固唾を呑んだ────瞬間。


 振り下ろしたままで制止させていた腕を、ゆっくりと下ろしたかと思えば。まるで弾かれたように、その場を蹴って。




 ギュッ──ラグナ先輩は僕に抱きついてきた。思い切り、勢いよく、それこそ水面みなもに飛び込むみたいに。




 抱きつかれたその時、僕が声を出さずにいられたのは。単にラグナ先輩に抱きつかれたという現実に対して僕の理解が追いつかず、結果固まることしかできなかったというだけの、実に不甲斐ない理由からに過ぎない。


 仮にもしこの時僕の頭の回転が早く、現実を受け止め理解し得ていたのなら、きっと僕は情けない声を上げてしまっていたことだろう。


 そんなことはさておき。ラグナ先輩に抱きつかれたという確かな事実、その状況によって成り立つこの現実を、十数秒を経てようやっと理解した僕は。慌てて口を開いた。


「せ、先輩……?」


 正直、気が気でなかった。声が上擦りそうになるのを必死に堪えるので、今は精一杯だった。


 鼻腔を擽る、ふんわりとした仄かに甘い匂い。遠慮も惜し気もなく押しつけられる、むにゅんとした胸の感触────これらを不意に味合わされて、動悸を乱すなという方がまず土台無理な話な訳であって。それでも外面だけでもこうして平静を装えていることを、誰でもいいから褒めてほしい。いや本当に。


 まあそんなことはともかく。先輩はというと僕に抱きつき、胸元に顔を埋めたまま、何も言わない。だが、こちらの背中に回された両腕には確かな力が込められており、決して離しはしないし、離れもしないという強い意志を。ひしひしと僕に伝えてくる。


 無論力を入れていると言っても、それが先輩の全力で、限界であったとしても。僕からすればそれは些細なものでしかなく、大した力も必要とせずに振り払えるだろう。こちらとてそんなことする気はさらさらないが。


 未だに何も言わずにいるラグナ先輩に、再度僕が声をかけようとした時。


「……逃げようとした」


 ようやく、閉ざしていたその口を先輩が開いた。依然として僕の胸元に顔を埋めながら。


 耳の鼓膜はもちろん肌も震わされて、僕がそれを擽ったいと思う間もなく、先輩が更に続ける。


「俺はお前から、逃げようとした」


 そこまで言うと、ラグナ先輩は僕の胸元から顔を離す。しかし上げることはなく、俯かせたまま、先輩は話し続ける。


「だからもう、その資格がないことなんてわかってる。自分からその資格を放り捨てちまったことは、とっくにわかり切ってる」


 そこまで言って、ラグナ先輩は俯かせていたその顔を、振り上げた。


「でも俺、それでも、お前に先輩って呼ばれたい……っ!」


 と、切なく震える声で。煌めきを灯すその瞳から、大粒の涙を浮かべ、ぽろぽろと零しながら。ラグナ先輩は僕にそう訴えかける。


「あんな、酷えこと言っちまってごめん……馬鹿にしたようなこと、吐いてごめん……!」


 だけど、と。ラグナ先輩は切実に、健気に、懸命に。時折詰まりそうになりながらも、どうにか言葉を紡いで、僕に続ける。


「いい、か?俺、俺……また先輩って、呼ばれても……なあ、クラハ……?」


 その懇願に対して、僕はすぐには答えなかった。数秒の沈黙を以て、僕はゆっくりと口を開く。


「そんなこと、訊くまでもないですよ」


 と、こちらの顔を黙って見上げながら、恐れと怯えが入り混じった、不安そうな表情を浮かべるラグナ先輩に。僕はできるだけ柔らかで穏やかな笑みを浮かべながら、答えた。


「だってもう、さっきからずっと呼んでるじゃないですか。ラグナ先輩」


 僕の言葉を聞いたラグナ先輩は、最初こそ固まって。しかし、すぐさま堰を切ったように、その瞳から止め処なく、涙を溢れさせて流し。


「クラハ!!」


 と、濡れて震える声で僕の名前を叫び。そしてまた、僕の胸元に向かって飛び込み、ラグナ先輩は抱きついてくるのだった。


 ──先輩……。


 抱きついてくるや否や、形振り構わず泣き噦るラグナ先輩。当然だがそんな先輩を目にするのは、これが初めてで────






『ごめん、な……お前しか、守れなくて……ッ』






 ────いや、違う。だがその時、自分はどうしたか。どう、自責の念に駆られ、押し潰されそうになった先輩をどう宥めたのか。


 僕がそれを思い出そうとした、寸前────拍手が。まるで小馬鹿にするように、わざとらしいまでに間延びした拍手の音が、唐突に教会に鳴り響いた。


くして、すれ違い離れ離れになった二人は再び、何やかんやで共に歩むことを選びましたとさ。めでたし、めでたし」


 そして聞こえてくる、嘲りの言葉。声がした方へ視線をやれば、長椅子ベンチの一つに図々しく腰かけた、その姿が視界に映り込む。


「とは、ならないんだなぁこれが」


 と、依然として嘲ったようにそう吐き捨て、続ける。


「それ相応のハッピーエンドを迎えたきゃあ、それ相応の試練を乗り越えないとな?それが物語の本筋ってもんだろ?」


 そうして長椅子に座りながら、僕と────否、僕に訊ね。けれど、その問いに対して僕は答えず。そっと、慎重に、割れ物を扱うように、泣き止んだラグナ先輩の肩に手を置く。


「退がっていてください、先輩」


 僕がそう言うと、ラグナ先輩は一瞬淋しそうな表情を浮かべながらも、すぐに頷き。名残惜しそうにしながら、僕の元から離れるのだった。


「……クラハ」


 と、こちらの身を案じる声音で呼びかけるラグナ先輩に。僕は振り返り、ただ黙って真剣な眼差しを送る。


 それ以上、ラグナ先輩が何か言うことはなかった。そうして僕はまた、正面へと向き直る。


「感謝してほしいぜ全く。何せこの俺自ら、その乗り越えるべき試練になってやろうってんだからよお」


 そう言いながら、満を持してとでも言われたげな様子で。長椅子から立ち上がり、僕に対して不敵な笑みを送りつけてくる。


 ──……。


 あれで終わったなどと、最初から思っていない。


「さて。それじゃあ二回戦、始めるとするか。なあ、クラハ」


 ライザー=アシュヴァツグフという男が、あの程度で終わるような男ではないと、僕は知っている。


「ああ、先に言っちまうが……お前には乗り越えられねえよ、この試練は」


 僕がその言葉の寓意ぐういを理解するよりも先に、ライザーが動く。


「ハハハ……ハハハハッ!」


 驕り高ぶった、傲慢極まるその高笑いと共に。ライザーの魔力が勢いづき、増していく────いや、


 元々悪辣で、何処か捻じ曲がってはいたものの。それでも、それはあくまでも、人間的な範疇にまだ収まっていた。


 徐々に、だんだんと。邪悪に禍々しく、歪に。ライザーの魔力から人間味が薄れ、失せていく。


「力だ。俺は、力を手にしたんだ……誰にも負けない、この力をなあッ!!」


 ライザーが叫んだ瞬間、彼の魔力は一気に噴出した。周囲の長椅子ベンチを吹き飛ばし、立て続けに教会の窓硝子ガラスが次々と割れ砕けていく。


 その光景を黙って眺める僕に、次第に人から外れていくその魔力を激しく荒ぶらせながら、興奮の声音でライザーは言葉をぶつけてくる。


「手段や過程なんざどうだっていいんだよ!要は勝ちゃあいい!!最後に立って笑えれりゃ、それでいいッ!!!」


 そうして────髪の一部が漆黒に染まったライザーは、自信と余裕に満ちた、抑え切れない悪意が見え隠れする笑みを浮かべ。真っ直ぐに、僕を見据える。


 ──……ライザー、お前は……。


 もはや以前の面影など消え失せてしまったライザーの魔力────否、彼が自ら口にする、手にしたという力を目の当たりにした僕は。危惧していたことが、よもやと思い考えていたことが。こうして、現実になってしまったことを理解する。


「相も変わらずだんまり決め込んでるけどよぉクラハ!?命乞いするなら今の内だぜ!?まあしても無駄だけどなあッ!ヒャハハハッ!!ハハハハッ!!!」


 今のライザーの実力は未知数だ。唯一わかることがあるとすれば、以前とはまるで比べ物にならないということくらいだろう。次元が違うと言っても、過言ではない。


 しかし、だからこそ。僕は面と向かって、はっきりと────






。ライザー」






 ────そう、ライザーに告げた。

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