「ハハハ!ハハハハハハッ!」
異常であり、そして異様────今この場の光景、この時の状況を表すのに、それ以上に相応しい言葉などありはしないだろう。
果たして、一体どれだけいることだろうか。これらの現実と対面し、動じることなく平然としていられる人間が。
こんな光景を。こんな状況を。目の前にして、それでも唖然とせず、絶句もせず、確と冷静に受け止め。そうして、理解するまでに平然と至れる────そんな人間が、一体どれだけいることだろうか。
精々、二人か一人────それだけ、常軌を逸している。
一人の青年がいた。その首や手や足を掴まれ、そうして彼は宙へと持ち上げられていた。
青年の身体は凄惨な有様だった。右手の人差し指は本来曲がるところとは逆の方を向いており、その全体が青紫色に染まっている。左手に関しては更に酷く、人の手としての形を辛うじて保てているだけで。ぐしゃぐしゃに
右足は一見すると何もなく無事なように思えるが、そんなことはなく。注意して見てみれば、ところどころが凹んでいることがわかり。またその凹んだ部分のズボンの布地は赤黒く変色している。そして左足はまるで渦を巻くかのように、布地を巻き込むようにして全体が捻れ、また赤黒く染まっていた。
それから左手と同じように、青年の左腕も堪らず目を背けたくなる惨状で。彼の左腕は今、文字通り
もはや大抵の者がいっそのこと殺してくれと懇願するか、発狂して支離滅裂に叫び散らすかの二択。
だが、驚くべきことに青年────クラハ=ウインドアはそんな状態に陥りながらも、懇願することもなければ発狂することもなく、その口を閉ざして沈黙していた。俄かには信じ難いことだが、最初から今に至るまで、彼はその沈黙を貫き通していた。
とはいえ、それでも流石に顔色は青いを通り越して白く、尋常ではない量の脂汗を両頬に浮かばせ、顎下へと伝わせては滴らせて、虚な眼差しを宙に送ってはいたが。
そしてそんなクラハのことを見上げる、一人の少女がいた。薔薇の花飾りやハイヒール、イブニンググローブと呼ばれる手袋が、まるで舞い散った
少女は下着姿だった。足元のドレスに合わせられたものなのだろう、彼女のような未だ十代半ばの少女が身に付けるには、少々大胆で
本来であれば衣服の下にひた隠し、秘さなければならないその艶姿を、恥じらう素振りを僅かにも見せることなく、そうやって白日の下に晒け出しながら。
少女────ラグナ=アルティ=ブレイズもまた黙って、クラハのことをただ見上げていた。疲労困憊の、完全に憔悴し切った、感情が死んだ無表情で。遥か深き絶望の最奥にて、昏き紅蓮が
一方は肉体的に。もう一方は精神的に。徹底的なまでに、完膚なきまでに。そうして満身創痍にされたクラハとラグナの二人を────
「ハハハハハハハハハハッ!!」
────エンディニグル・ネガはひたすらに嘲笑っていた。
「いや、いやいやぁ!凄いな、凄まじいな!?まさかここまでやって、それでも微かな呻き声一つ漏らさなんだとはッ!!見事に驚いた、ものの見事に驚かされてしまったぞ!我は!!」
と、褒めちぎるような口調と言葉とは裏腹に、何処までも見下し馬鹿にするような声音で、エンディニグル・ネガは更に続ける。
「あぁ、そうしてこうして……ラグナ=アルティ=ブレイズの
「…………次は、どうすりゃいい。さっさと言いやがれ。とっとと、言え」
ふざけ切った様子で訊ねるエンディニグル・ネガに、ラグナは最初、深く、大きく、息を吸い。少しの間を置いた後、ようやっとその言葉を絞り出す。
溢れて
酷く忌々しげに、今し方目一杯吸い込んだ息と共に、その言葉を。ラグナは鬱屈と絞り出し、吐き出したのだ。
「ハハハハ!止せ止せ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。そんな格好でそんな風に煽っても、男に
ドッ──エンディニグル・ネガの馬鹿笑いが響くその最中、突如として瞬速に伸びた影のように黒い手が、クラハの脇腹に深々と突き立てられた。
「っクラハ!!」
「おっとすまん。つい、イラッ……っとしてしまってな。ついつい、な?」
肉を打つ、重く鈍い音に紛れて。骨が砕ける、軽く乾いた音がして。一拍置いて、クラハの口端から血が流れ出す────が、それでも彼は苦痛の声を漏らすことなく、その顔も歪めることはなかった。
それを聴き、それを見たラグナは堪らずに悲痛な叫声を迸らせる。そんなラグナの姿を見やりながら、全く、欠片程も悪びれていない様子と声音で、エンディニグル・ネガはそう言う。そして更に続ける。
「だが悪いのは貴様だラグナ=アルティ=ブレイズ。我が苛立つのも、こいつが殴られ骨を砕かれるのも、そしてこんなことになったのも……全ては貴様の所為だ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。精々、噛み締めろ」
心の底からそう言って、それが当然であるというように言うエンディニグル・ネガを。ラグナは灼き尽くさんばかりの眼差しで以て睨めつけるが、しかしまるでどうともしない様子で、エンディニグル・ネガは言う。
「さてさて。
と、呟いた後。エンディニグル・ネガはラグナを指差す────正確には、ラグナの胸辺りを。
「上だ。次は上のそれを脱げ」
「……」
「目だ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。貴様がその体躯に少々似つかわない胸を晒したその時、我はこいつの目を潰してやろう」
瞬間、ラグナの全身が固まる。数秒遅れて、ラグナはようやっと口を開く。
「お前……本当に…………ッ」
ラグナのその声には、怒りと憎しみと。そして、恐怖があった。
「両方……と言いたいところだが、ここは左で留めてやろう。こいつとて、貴様の所為でこんな目に遭わせられているのだ。貴様なんかの所為でこんな目に遭っているのだから、貴様の裸体くらい拝まなければ割に合わんだろう。全く、我はなんと慈悲深いんだ。ハハハッ!」
と、本気でそう宣ってから。エンディニグル・ネガはクラハの首を掴む黒い手に徐々に力を込め、じわじわとゆっくり指先を沈ませていく。
「さあ、早く。早く脱いで、見せつけてやれよラグナ=アルティ=ブレイズ」
「…………」
ラグナの手が、背中に伸びていく。伸ばす最中、ラグナは必死に心の中で繰り返す。
──死ぬよりマシ、死ぬよりマシ、死ぬよりマシ、死ぬよりマシ死ぬよりマシ死ぬよりマシ死ぬよりマシ死ぬよりマシ死ぬよりマ
「ぅぐっ」
何度も繰り返し、幾度も呟いていたその時。ラグナは背中に伸ばしていた手を咄嗟に口にやり、押さえた────
「お゛え゛え゛え゛ッ……ゔ、ゔぅ」
────が、堪え切れず。手を
「……全く。ゲロ臭くて敵わんな。まあそれはともかく、吐いてる場合じゃないぞラグナ=アルティ=ブレイズ。早く脱がんと、取り返しがつかなくなるぞ?」
無様にみっともなく吐いたラグナを蔑み見下しながら、そう言うエンディニグル・ネガの言葉通り。気がつけば黒い手の五指の先の半分程がクラハの首にめり込んでおり、そしてクラハの顔もまた、徐々に苦しげに歪み始めていた。
ぐったりとした青い顔になりながらも、口端を手の甲で拭い、ラグナは再び自らの背中へと手を伸ばす。ラグナの指先が、
──……早く、脱がな、きゃ。早く、脱がないと……そうしないと、クラハが死んじまう…………ッ。
自ずと知れずに、呼吸が乱れ始めるラグナ。心臓が早鐘を打ち、胸の奥が熱くなって、けれど全身は寒気を覚え始める。次第に手足の末端が痺れきて、それに伴い頭痛も激しく、重たくなっていく。
肌という肌から冷や汗が滲み出るのを如実に感じ取りながら────そうして、とうとう。
パチン──ラグナは遂に、下着の留め具を、外した。
最初の頃はだいぶ苦戦していたというのに。今やこうして、平常時とは遥か遠くかけ離れた精神状態であっても、流れるようにあっさりと外せる。あっさりと外せるまでに、もはや慣れてしまった。
留め具によって繋がれていた端と端がぶらんと左右に分かれ、少し遅れて。
はらり、と。またしても
「…………」
今し方まで
「脱いだ!脱いだ、脱いだぞ!脱いだな、ラグナ=アルティ=ブレイズ!お前ッ!?ハハハハッ!!」
そんなラグナのことを、エンディニグル・ネガは嗤う。心の底から嗤う。
その最中、クラハの顔に、ゆっくりと。黒い手が伸びて、這って、だんだんと。その指先が、彼の左目に近づいていく。
「そらそら、両目が揃っている今の内にまじまじと、あの生
と、エンディニグル・ネガが下卑た笑みと声でそう言うが。しかし、クラハがその言葉に従うことはなく。彼は申し訳なさげに、その目線をただ伏せるのだった。
そんなクラハをエンディニグル・ネガはつまらなさそうに見やり、退屈そうに息を吐き、仕方なさそうに肩を竦めさせた。
「なるほどわかった」
と、エンディニグル・ネガが言い終えた瞬間。ゆっくりと、じわじわと。まるで焦らすかのようにクラハの左目に迫っていた黒い手の指先────
ドスッ──目にも
「っ、ぐ、ぅぁぁぁ……ッ!!」
とうとう、堪らずに声を上げてしまうクラハ。突っ込まれた指がずるりと抜かれ、宙に血の尾を引き。透かさずクラハは顔を下に向け、ぼたぼたと血を垂れ流し。眼下の教会の床を点々と、赤く染めていった。
「……お前ッ!!!」
最初こそ呆気に取られてしまっていたラグナだったが、ハッと我に返るや否や、怒り心頭に発し。それをエンディニグル・ネガに対して、あらん限りにぶつける。
「左だけって、言ったッ!言ったのに、なのにッ!お前ェ……ッ!!!」
「すまんすまん。なに、我とてそのつもりだった。だったのだが……こいつが自ら、二つともいらんと申すからな。故に我はただ、それに従ったまでのこと」
それに、と。エンディニグル・ネガが半笑いで続ける。
「ラグナ=アルティ=ブレイズ。貴様がそうして憤るのは、
「はあッ!?一体何が……!!」
筋違いと言われ、怒髪天を
「貴様自ら、選択したことだろうに」
そのエンディニグル・ネガの言葉を耳にした瞬間、ラグナは固まってしまった。目を見開き、何も言い返せなくなってしまったラグナに、それでも構わずエンディニグル・ネガは続ける。
「こいつの指が折られたのも、こいつの左手が握り砕かれたのも、こいつの右足を殴り潰されたのも、こいつの左腕が折り曲げられたのも、こいつの左足が捻り砕かれたのも、こいつの両目が突き潰されたのも……そう、貴様の。他の誰でもない、ラグナ=アルティ=ブレイズの選択の結果だろう」
依然としてラグナは何も言えず、数歩その場から
「そも、こうなるのが堪えられないのなら。許容できないのなら、嫌だったのなら。さっさと我に反抗し、とっとと我に殺させればよかったのだ。そうすれば、少なくともこいつがこのような有様になることはなかった。このように、生き苦しむことなどなかった」
だのに、と。エンディニグル・ネガは遠慮なく言葉を続ける。
「そうしなかった。そうしなかったのは貴様だろうが、ラグナ=アルティ=ブレイズ。こいつを助けたいが為に……否、貴様が失いたくないが為に。このような生き地獄へと、こいつを突き落としたのは。
「……ち、が……」
またしても、ラグナは認めてしまっていた。認めざるを得なかった。認めたくないのに、認めるしかなかった。
だが、それでも。なけなしの意地で、精一杯に否定しようとした。しようとして、しかし。結局、ラグナはそこで言い淀み、止まってしまった。
「我だ。折るのも、砕くのも、潰すのも、捻るのも。その全てをやるのは、このエンディニグル・ネガだ」
そんなラグナに対して、情けなしに。エンディニグル・ネガは言い放つ。
「だがそうさせるのは貴様だ。我にそうさせるのは、貴様の選択だ。他の誰のものでもない、ラグナ=アルティ=ブレイズの意思だ……ハハ、ハハハ!ハハハハッ!!」
そしてそれが