「うわあ、すごいなぁ。やっぱりすごいなあ」
憧れだった。間違いのない、絶対の。それは永久不変の憧れであった。
父も母もいない、使用人たちが忙しそうに行き交う屋敷で、無駄に広い部屋の中で。まだ幼い子供が読むには些か分不相応に思える新聞を、最高等級の
少年は眺めていた。純真無垢な金色の瞳を輝かせ、その写真を目に、記憶に刻み焼きつけていた。
貴族であるその少年は将来の為、この家を引き継ぐ為に齢一桁にして、この程度の新聞であれば読解し、その全容を把握できる程の教育を施されている。それも毎日。
そんな少年が今、夢中になっているその記事に書かれているのは。記事と共に掲載されている一枚の大写真に映っているのは。
とある街の、とある
後に世界最強、人智を超越し人域を逸脱せし
まだ若き青い十代の頃の。冒険者組合『
そう、齢一桁の頃からの。永久不変、絶対不動、唯一無二の──────
「ぼくもいつか、ラグナさんみたいになりたいなあ!」
──────少年にとっての夢であり、目標であり、そして憧れだったのだ。
──……おいおい。
そんな少年の姿を。夢に、目標に、憧れに。その全てに焦がれ、求めて、追った。遠い彼方の、在りし日の少年の姿を。
──懐かしいにも、限度ってもんがあるだろ……。
羨望と渇望の眼差しで以て、ただ眺め。成れの果てにして末路たるその男は、心の中でそう呟く。
もはや手の施しようがない程に、何もかもが手遅れであることは、重々承知の上のことだった。
幾ら嘆き、どう足掻こうが。もうどうにもならないことなど、とっくのとうの、昔から知り尽くしていた。思い知らされていた。
……だが、それでも。その背中に手を伸ばさずにはいられなかった。決して届きはしないと、諦めながらも。
やがて周囲の光景も、そして少年の姿も。徐々に白み始め、はっきりと見えなくなっていき。判然としない意識の最中で、否応にも悟る。
──……終わり、だな。
そうしてその男は────ライザーは眠るように。そっと、瞳を閉ざし。
「…………」
再び開くと、今度視界に映り込んだのは、一面中に広がり伸びる朝焼けの空。その燃え盛る美しい様に見入りながら、徐にライザーは口を開かせる。
「別に
と、自嘲の声音でそう言って。ライザーは朝焼けの空の次に、こちらのことを黙って見下ろすラグナの顔を見上げるのだった。
「……お前さ」
少しの沈黙の後、ラグナはようやっとその口を開き、ライザーに訊ねる。
「こうでもしなきゃ、止まれなかったのか。こうにでもならなきゃ……
「だからこうなった」
と、ラグナの問いに対し即答するライザーの身体は、
四肢の先から、まるで風に吹かれる砂のように。或いは散らされる、灰のように。少しずつ、僅かばかり、仄かに────だが着実に、確実にライザーの身体が崩壊していく。
そんなライザーに、ラグナは更に続けて訊ねる。
「結局のところ、お前は何がしたかったんだ。お前はクラハを、本当に殺したかったのか?こんなことをしでかしてまで、そんなになってまで」
「……そこんところなんですが。実を言うと、自分でもよくわからないんです」
そのラグナの問いかけには、少しの間を挟んでから。ライザーはそう答えて、そして続ける。
「クラハを殺したかった。今回のことも、今回の為にやった今までの全部のことも、
しかし、と。そこでライザーはラグナから視線を逸らし、明後日の方向に向けながら、まるで独り言を呟くかのように言う。
「今にして思えば、それはただの……謂わば、照れ隠しみたいなもんだったかもしれません」
「ふざけんな」
すみません、と一応の謝罪を挟みながら、ライザーはこう言った。
「勝ちたかった。俺はあいつに、ちゃんと勝ちたかったんです。……最後の最期の土壇場で、そう気づきましたよ」
と、染み
「……」
そんなライザーのことを、ラグナは何処かやるせない表情で見つめ。それから徐に、いつの間にかライザーの手元から離れていた、根元だけを残して剣身が砕けた彼の
その一連の流れを目で追っていたライザーが、一体何のつもりかと訊ねる────
ザグ──よりも速く。一切の躊躇いも、迷いもなく。ラグナがその砕けた刃先を、自らの右頬に突き立て。そして一思いに、斬り裂いたのだった。
「……一体、何を……」
ライザーは目を離せないでいた。柔らかな頬に大きく深く引かれてしまった、その一本の真っ赤な線から。誰の目からどう見ても、一生残ることが容易にわかるだろうその
衝撃を受けながら、呆然とした声音でようやっと訊ねることができたライザーに対して、ラグナは赤く濡れた彼の
「忘れない。世界の皆が忘れても、世界から忘れられても。俺
真剣過ぎる程に真剣な表情と眼差しで以て、そうライザーに告げ。対する彼は少し驚いたように目を丸くさせ、しかしすぐさま、半ば呆れたような笑いを、力なく浮かべ。
「なんだ。あなた
と、言葉を溢した瞬間────突如として、ライザーの右手が
「どうやら俺の魔力も尽きたみたいですね」
と、まるで他人事のように呟くライザーは、もう既にその半身以上が崩れ去り、砂のような彼の残滓は風に吹かれて巻かれて、宙へと飛ばされ。そうして、霧散していく。
「言い残すことはあんのか」
「特に何も」
崩れて壊れて、消えて失せていくライザーを眺めながら。ラグナはそう訊ね、彼はあまりにも短く、簡素なその言葉で返す────が、しかし。
「……西の方。今は空き家ですが、昔そこで薬屋を営んでいた女性がいました。シャーロット=ウィーチェという名前の、白金色の髪と瞳をした女性です」
と、何処か惜しむような、悔やんでいるような、そんな表情を浮かべ。今や胸の辺りまで崩壊が進み、けれど焦燥に駆られることなく冷静に。寂寥が仄かに滲む声音で、ライザーが続ける。
「もし、シャロに……彼女に会うことがあれば。会えたのなら、伝えてください────
「……先輩」
今や、そこに一人で立ち尽くし、空を見上げているその小さな背中越しに。多少、気を憚られながらも僕は呼びかける。
すると少し遅れて、こちらの方へと振り向くラグナ先輩────右頬に走る、痛々しいその傷が。僕の目には、妙に眩しく映った。
「……その。先輩が気に病む必要、は……」
「そんなことない」
と、即座に返したラグナ先輩は、空となった右手を見つめる。その時、ほんの僅かに、未だ微かに残っていた
その一部始終を見届けた後、唐突にラグナ先輩が口を開く。
「帰ろうぜ、クラハ」
「……ええ、帰りましょう」
と、言葉を交わし。そうして僕とラグナ先輩は並んで、朝焼けの空を一緒に見上げるのだった。