本部ビルの中央棟6階、薄暗い部屋の中で、エリカは床に座り込み、虚ろな瞳で天井を見つめていた。サヤカたちを待つ彼女の姿は、どこかいつもと異なり、静かな孤独に包まれているようだった。
「退屈ですわね……つまらないのは嫌いですわ……」
エリカの呟きが静寂を切り裂いた瞬間、彼女の脳裏に過去の記憶が鮮やかに蘇った。あの日――初めてこの戦いに身を投じた、運命の日のことが。
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エリカはかつて、誰もが羨むような生活を送る女子高生だった。裕福な家庭に生まれ、欲しいものは全て手に入り、勉強も常に満点を叩き出すほど簡単だった。しかし、彼女の心は満たされていなかった。どんな成功も、どんな贅沢も、彼女には色褪せて見えた。
「退屈ね……」
教室の窓辺で、エリカはため息をつき、遠くの空を見上げた。心の奥では、何か刺激的なもの、熱中できる何かがないかと渇望していた。だが、そんなものはそう簡単に見つからない。現実はあまりにも味気なく、彼女の心を苛んだ。
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ある日、河川敷に座り込み、いつものようにため息をついていたエリカ。今日もまた、彼女の心を満たすものは何一つなかった。
「これからどうすれば……ん?」
ふと顔を上げた瞬間、彼女の視界に異様な光景が飛び込んできた。目の前に現れたのは、フードを被り、全身をローブで包んだ謎の男。そしてその周囲には、ゴブリンたちが獰猛な唸り声を上げ、戦闘態勢で彼を取り囲んでいた。
(ゴブリン……噂には聞いていたけど、まさか本当にこの世界に存在するなんて……)
エリカは驚きながらも、目の前の光景に目を奪われた。異世界のモンスターなど、ただの作り話だと思っていた。だが、零夜率いるブレイブエイトの活躍によって、その存在が現実だと証明されていたのだ。
ゴブリンたちが一斉に男に襲い掛かる。だが、男は動じず、地面に手をかざすと、血のような赤いオーラを纏ったナイフを召喚した。その危険な輝きに、エリカの心臓が激しく鼓動を打つ。
「ブラッドナイフ!」
男の鋭い掛け声とともに、ナイフが目にも止まらぬ速さで放たれ、ゴブリンたちを次々と貫いた。モンスターたちは光の粒となって消滅し、地面には金貨だけが残された。
「す、凄い……こんな技、初めて見た……」
エリカは思わず声を漏らし、驚愕のあまり口元を押さえた。この非現実的な光景に、彼女の心は強く揺さぶられた。すると、男は彼女の存在に気づき、ゆっくりと近づいてくる。片膝をつき、丁寧に一礼した。
「初めまして。俺はアルグス。通りすがりの旅人だ」
「小笠原エリカです。何故この場所にゴブリンが?」
エリカは自己紹介しながら、好奇心と疑念を込めて尋ねる。この場所にゴブリンが現れた理由が知りたかったのだ。
「ああ。奴らは俺を追っていた。しつこく追いかけてきたが、まさかここまで来るとは思わなかった……」
アルグスは苦笑いを浮かべながら答えた。その言葉に、エリカの胸は高鳴った。退屈な日常に突如差し込んだ一筋の光――アルグスの存在が、彼女の心を強く引きつけた。彼は穏やかな口調で続けた。
「この世界には、君が知らない力が溢れている。ゴブリンのようなモンスターは、ハルヴァスという異世界と繋がる門から現れる。俺はその門を渡り、モンスターを狩る旅人だ。エリカ、君には何か特別なものが見える気がする。一緒に来ないか?」
その言葉に、エリカの瞳がキラリと輝いた。退屈を嫌う彼女にとって、これはまさに待ち望んだ「面白いこと」だった。
「一緒に……旅をする? 私にそんな力があるのでしょうか?」
「試してみなければわからないだろう?」
アルグスは柔らかく微笑み、彼女に手を差し伸べた。エリカはその手を取り、決意を固めた。こうして、彼女の新たな物語が幕を開けたのだった。
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しかし、現実はそう簡単ではなかった。エリカには学業という足枷があった。成績優秀で両親の期待を背負う彼女にとって、学校は退屈の象徴だったが、それを放棄するわけにはいかなかった。アルグスは彼女の葛藤を理解し、こう提案した。
「ハルヴァスへの旅は、学業が終わった後でいい。門はいつでも開いている。俺が導くよ」
こうして、エリカは昼間は普通の女子高生として過ごし、夜や週末にはアルグスと共にハルヴァスへ旅立つ二重生活を始めた。ハルヴァスは、色鮮やかな森、輝く湖、荘厳な城塞が広がる異世界だった。モンスターとの戦いは命懸けだったが、エリカの心は初めて「生きている」と感じていた。
アルグスはエリカに戦い方を教え、彼女は驚くべき速さでブラッドナイフの召喚をマスターした。血のオーラを纏ったナイフを操るエリカは、ゴブリンやオークを次々と倒し、仲間として認められていった。
「エリカ、君は本当にすごいよ。まるでこの世界のために生まれたみたいだ」
アルグスの言葉に、エリカは照れながらも笑顔を見せた。彼はただの旅の仲間ではなく、彼女が初めて心から信頼できる存在だった。
※
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。ハルヴァスの深い森で、エリカとアルグスは巨大なドラゴンのような凶悪なモンスターに遭遇した。その力は、アルグスのブラッドナイフすら通用しないほど圧倒的だった。
「エリカ、逃げろ! これは俺一人でなんとかする!」
アルグスはエリカを庇い、モンスターに立ち向かった。しかし、モンスターの鋭い爪が彼の胸を貫き、鮮血が地面を染めた。アルグスは力なく倒れ込んだ。
「アルグス! いや、嫌ですわ! 置いていかないで!」
エリカは涙を流しながら彼の側に駆け寄った。だが、アルグスは弱々しく微笑み、こう呟いた。
「エリカ……君なら……この世界を……変えられる……」
その言葉を最後に、アルグスは動かなくなった。エリカの心は凍りつき、悲しみと怒りが彼女を飲み込んだ。背中から溢れる邪悪なオーラが、彼女を危険な存在へと変貌させた。
「どうして……どうしてこんなことに! 思い通りにならないなんて、許せない!」
エリカは涙を流しながら叫び、ブラッドナイフを召喚した。そのナイフは、かつてないほど濃い血のオーラを纏い、彼女の怒りを具現化したかのようだった。エリカはモンスターに突進し、驚異的な速さでその巨体を切り裂く。モンスターは咆哮を上げ、光の粒となって消滅した。
だが、勝利はエリカの心を満たさなかった。アルグスを失った悲しみと、思い通りにならない現実への憎しみが、彼女の心を冷たく変えた。かつての明るい女子高生は消え、思い通りにならないものを全て排除しようとする冷徹な戦士へと変わってしまったのだ。
※
そして現在――本部ビルの6階で、エリカは天井を見上げ、過去の記憶を振り払うように首を振った。
「アルグス……あなたが教えてくれたこの力、今でも使っていますわ。でも、こんな世界、つまらないですわ……」
彼女の手には、血のオーラを纏ったブラッドナイフが握られている。サヤカたちを待つエリカの瞳には、かつての純粋さはなく、冷たい決意だけが宿っていた。