「腰が……しんどいっ!」
ようやく放課後。今日一日座りっぱなしだった僕は、腰を押さえて伸びをする。まさか午前も午後も、全ての授業が座学とは思わなかった。
「お疲れ様。今日は実戦がない日だったから、ラノ君には物足りなかったでしょ?」
アヤメさんが僕の肩を軽く叩く。確かに授業の内容は、冒険者の歴史やよくあるダンジョンの構造など、最低限の常識がほとんどだった。千年間、狂気と正気を行ったり来たりしながら読書に明け暮れた僕にとって、真新しい知識は無いに等しい。ただ、歴史の授業については国の都合の良いように脚色されている部分がほとんどで、聞いてる分には面白かった。ばあちゃん……レンさんは、こういうの嫌がりそうだけど。
「いえ……その、楽しかったですよ。そういえば……今日は担任のレンさん、レン先生の授業はなかったですけど、担当はどの教科なんですか?」
「レン先生の担当? 保健体育よ」
「えっ」
保健体育。ばあちゃん、マジかよ。実のばあちゃんから保健の授業なんて受けたくないし、実のばあちゃんが保健の授業をしてるところも見たくないんだけど……。いや、そもそもレンさんの正体が、行方不明になった僕のばあちゃん、サイカ・ワ系初代魔導師、シーカー・ワ・ラノと決まったわけではない。
「あんたもアヤの彼氏になったんだから、ちゃんと勉強しときなさいよ」
前の席のルリさんが振り返り、僕の足を蹴る。彼氏として、保健の勉強って……。
「……同居の件もそうですが、ルリさんは心配ではないんですか? 僕だって男なんですから、もっと警戒したほうが良いと思いますけど」
僕は厳つい仮面をつけ直して威嚇する。
「私はアヤの邪魔をしたくないだけ。それにあんたの家、部屋ならたくさん余ってるんでしょ?」
「え?」
「アリスが言ってたわよ。昨日の夜、私を手伝ってくれた子。あんたの知り合いなんでしょ?」
「ああ……」
黒金の獅子団を壊滅させるため、協力してもらった二人の知り合い。確かアヤメさんの見張りに行かせたほうは、名前の長いお酒を注文して店員に絡み酒していたらしい。その店員が、今朝会ったアトリさんだったんだっけ。そしてルリさんの見張りに行かせたほうは、どうやらルリさんにいらない入れ知恵をしていたようだ。
「私も、彼にきちんとお礼が言いたいし」
アヤメさんが席を立つ。別にアヤメさんがあいつに礼を言う必要はないが、絡んだ店員、アトリさんにはいつかあいつと謝りに行こうと思う。僕も腰を押さえながら立ち上がろうとしたその時、勢いよく教室の扉が開き、二人の女子生徒が入ってきた。
「アヤメっちー! ランニング行くよー! ……あ!」
そのうちの一人、動きやすそうな運動着を着た彼女は、僕に飛びつくと僕の仮面を杖で弾いた。こいつ、このなりで魔法使いか。
「アヤメっちの彼ぴっちいるんだけど! ガチでヤバい! お面の下が鬼かわちいって噂、マジだったし! ウケる!」
かわちい……かっこいいではなく……ぐぬぬ……。…………かわ、ちい?
「でしょー? 仮面で隠すのもったいなくない?」
だから何でアヤメさんがドヤ顔してるんだ。
「アヤメっち、この子うちらと共有させてよ! うちがガチで面食いって、知ってるっしょー?」
「え、きょ、共有……?」
アヤメさんが面食らっている。確かに面食らう提案だが、これも今朝、アヤメさんが消しゴムで僕の仮面を弾いて、僕の素顔をクラスメイトに晒したせいだ。自業自得だ!
「そ、そうよね……独り占めは、良くないことよね……」
アヤメさんの声が、だんだん小さくなっていく。なんで納得してるんだ。
「やりー! アヤメっちの彼ぴっち、ゲットだぜ!」
「……すみませんが、僕が了承してないんですが」
僕は彼女に肩を組まれたまま、なんとか仮面を取り返した。
「それに僕は勇者様のものなので、共有なんてお断りです」
「わーお。一途ー!」
「アヤを落としただけあるじゃーん」
後ろでもう一人の女子生徒とルリさんが、やいやい言っている。
「それから勇者様も、こういうときはビシッと、こいつは私のって言っとかないと」
「……そ、そう! そうよね。そういうわけだから、タピ、ヴァレッタ。ラノ君は、私のだから!」
「ひゅー!」
茶番が終わる頃、女子生徒がもう一人、遅れて教室に入ってきた。彼女も運動着に着替えている。
「トゥーラ! もう身体は大丈夫なの?」
「ああ。せっかくアヤメ君がフォーボスを倒してくれたんだ。今日から私もがんばらないと」
トゥーラと呼ばれた彼女は、重そうな大剣を背負って肩を回す。彼女の役職は勇者か戦士だろう。その雰囲気は騎士っぽいが。
「だからって、呪いが解けたばっかりなのに……」
「問題ない。頑丈なのが私の取り柄だ。フォーボスの件は、一生の不覚だ……」
どうやら彼女も、フォーボスに呪いで魔力を吸われていたようだ。昨日はアヤメさんとルリさんの協力もありなんとか倒せたが、放っておいたら、彼は本当に手がつけられない怪物になっていたかもしれない。
「でも、元気になって良かったじゃん」
タピと呼ばれた彼女がようやく僕から離れ、トゥーラさんに抱きつく。
「そうだな。アヤメ君も、私たちのクラスで着替えてくると良い」
「うちらのクラスは男子の転校生いなかったからねー」
どうやらこの三人は隣のクラスの生徒らしい。道理で、放課後になって今更襲撃されたわけだ。
「ありがと。じゃあラノ君、私たちちょっと校庭走ってくるけど、ラノ君も一緒にする?」
「いえ。魔法使いに筋肉は不要ですから」
「えー、でも殴ったほうが早くない?」
タピさんが杖でフルスイングの素振りをしている。よく見ると杖の先がボロボロだ。どちらかというと、鈍器として扱われてきたらしい。あの杖もかわいそうに……。
「じゃあラノ君は見学ね。ルリとヴァレッタは……」
「私もパース」
「同じくー」
ルリさんは立ち上がる素振りも見せず、ヴァレッタと呼ばれた彼女はいつの間にか、僕の席に座って僕の机の上にお菓子を広げていた。格好からして僧侶同士、気が合うのだろうか。
「てなわけで彼ぴっち、アヤメっち借りてくねー」
アヤメさんとタピさん、トゥーラさんが連れ立って教室を出て行く。
「……彼ぴ氏、マンモスショコラ、いる?」
ヴァレッタさんが僕に、小さなガトーショコラを差し出す。
「どうも……」
「あ、ごめん。それマンドラショコラだった」
「酢っっっっっっ!!!」
そのガトーショコラは、顔が潰れるほどすっぱかった。
「……ヴァレッタ、わざとでしょ」
「ヴァレタか」
ヴァレッタさんは僕に目もくれず、ガトーショコラを仕分けている。
「サイカ・ワも、一回食べてるんだから用心しとかないと。マンドラショコラは緑色よ」
ルリさんが、机の上に広げられたお菓子の袋の上から、白いガトーショコラをつまんで口に放り込む。白いほうがマンモスショコラで、緑色がマンドラショコラらしい。
「……おうち帰る」
僕は緑に染まった舌を隠すため、そそくさと仮面をつけ直した。