最寄り駅の2階にある改札を足早に通り抜け、肩まで伸ばした赤い髪や夏服になったばかりの半袖のセーラー服とスカートをなびかせながら、樽美ユズナ(たるみ ゆずな)は上りの電車が来るホームへと階段を降りていく。
中学1年生の春から、もう4年あまり、彼女は平日の毎朝7時半頃、満員電車の女性専用車両に乗るようにしていた。
いつもなら、10分ほど前にはもうホームで列に並んでいて、今頃は電車が来るのを待っている時間だった。
だけど、その日は数ヶ月振りに着る夏服が嬉しくて、似合っているか姿見で何度も確認してから家を出たから、いつもよりかなりギリギリの時間になってしまっていた。
階段を下りながら、ユズナは「女の子限定の制服用のセーラー服って日本にしか存在しないって本当なのかな」とか、「上着だけとはいえ日本以外は全部男の人用とか嘘でしょ」と思った。
こんなにかわいいんだから、外国の女の子たちも着ればいいのに、と。
彼女の学校の夏服は、半袖の上着だけでなくスカートも白いため、下着が透けたりしていないか気になったりもした。
トイレに寄る余裕なんてなかったから、もう確かめようもなかったけれど。
電車はすでにホームに来ていて、間もなくドアが閉まろうとしていた。
その電車を逃せば、間違いなく遅刻してしまう。
だから、彼女は慌てて階段を駆け下りた。
ユズナが電車に飛び乗ると、ちょうど彼女の後ろでドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
息が切れてしまっていたから、しばらく前屈みのまま呼吸を整えて、それから顔を上げた。
そして、彼女は目の前に広がる光景に唖然とした。
この時間、この女性専用車両にいるのは、ほとんどが彼女と同じ私立の女子校の小等部から高等部の生徒ばかりだ。
けれど、誰もユズナのように夏服の制服を着ていなかった。
毎年、6月に入ってもすぐに夏服にはせず、1週間ほど冬服のままでいる生徒は必ず何人かはいる。
だから、彼女が驚いたのは冬服の生徒が多かったからとか、全員冬服のままだったからではなかった。
彼女の視界に映る女性専用車両の乗客全員が、スクール水着を着ていたからだった。
パーカーやシャツを羽織ったり、Tシャツを重ね着したり、ニーハイやフリルソックスを履いている生徒もいれば、素足のままローファーを履いている生徒もいたし、小学生はランドセルを背負っていたりもしたけれど、その車両にいる全員が間違いなくスクール水着を着ていた。
最初は何かの見間違いだと思った。
だから目を何度か手の甲でこすってみたけれど、見間違いではなかった
夢を見ているわけでもなさそうだった。太ももを指でつねるとちゃんと痛かった。
その光景は、まるで「うちのお兄ちゃんが好きそうな企画もののAVみたい」だった。
「あれ? ユズナじゃん。なんで、夏服なんか着てるの?」
スクール水着を着た女の子が、ユズナにそう声をかけてきた。
生足を惜しげもなく見せて、素足にローファーを履いていた。
クラスメイトの谷塚リオ(やつか りお)だった。
「どうしたのって、リオこそどうしたの?」
「え? 嘘でしょ? ユズナ。ニュース、観てないの?」
リオは、カバンからスマホを取り出すと、ニュースサイトを開いてゆずなに見せてきた。
『5月31日、城南大学医学部の村角 龍(むらずみ りゅう)・村角陽貴(はるき)両教授が、パナギアウィルスの画期的な感染・発症予防対策方法を発表した』
昨年末から流行している新型感染症に関するネットニュースだった。
6歳から18歳の女性のみが発症するウィルスで、「パナギア」と呼ばれていた。
発症すると40℃以上の高熱に2週間うなされることになり、熱が下がったときには、ほぼ100%の確率で子どもが産めない体になっているという、恐ろしい病気だった。
まるで人類をじわじわと滅ぼすために生まれたようなウィルスだなと思っていた。
「パナギアがどうかしたの?」
「スク水着てるとパナギアに感染しないんだって。感染してても発症しないらしいんだよね」
パナギアは飛沫感染じゃなかったっけ? てか、みんな、そんなフェイクニュースに簡単にコロッと騙されてるの?
そんなことを思いながらニュースを読み進めてみると、
「スクール水着を日常的に着用することにより、女性の身体に適度な締め付けが加えられ続ける……? そのストレスによって免疫力が高まり、マスクやアルコール消毒以上の感染予防が可能になると同時に、発症防止効果も確認……?」
本来ストレスは免疫力を低下させるが、スクール水着の締め付けによるストレスは特殊なものであり、免疫力が逆に高まるのだという。
一体何の冗談だろう。
そこには、目を疑うようなことばかり書かれていた。
『スクール水着着用時には、ニーハイソックスなどを履き、脚部にも適度な締め付けを加え続けることが推奨される。尚、スクール水着は水やローションなどで濡れていると、感染や発症の予防効果の更なる向上が期待できる』
ユズナには、悪い冗談か、その教授ふたりの変態的な趣味や性癖にしか思えなかった。
「これ、みんな信じてるの……?」
本当に一体何の冗談なのだろう。
「うん。昨日学校から親にも連絡来てたし。だからみんな、今日から夏服じゃなくてスクール水着を着ることになったんだよ。冬服が必要になる頃には、パナギアも落ち着いてるだろうからって」
これから何ヵ月も毎日スクール水着で電車通学するなんて、ユズナは考えたくもなかった。
電車は女性専用車両を使えばいいし、学校は女子校だからまだよかった。
だけど、自宅から駅までは自転車だし、そんな格好じゃ学校帰りに恥ずかしくて寄り道も出来ない。
ユズナのスマホにはそのような連絡は一切来ていなかった。
両親からは、昨日も今朝も何も言われなかった。
年の離れた兄は今朝、夏服も似合ってるね、ユズナは本当に何を着てもかわいいね、と褒めてくれただけだった。
おそらく母のスマホに連絡が来ていたはずだった。
だが、母は学校からの連絡にまめに目を通すような人ではなかったから、こんな事態を招いてしまったんだなと思った。
「私立温水(ぬくみず)女学園が、スク水女学園になっちゃったね?」
谷塚リオはそんな冗談を言って楽しそうに笑っていた。
けれど、ユズナは作り笑いを返すことすらできなかった。
「ずっとヌク女(じょ)って呼ばれてたけど、これからはスク女(じょ)だね」
この世界は、本当にわたしがいた世界なのだろうか。
ユズナはそんなことを思いながら、電車のドアにもたれかかった。
何度見回しても、女性専用車両の中はスクール水着を着た女の子たちだらけで、正気の沙汰とは思えない光景だった。
もしかしたら、急いで階段を駆け降りたときに、わたしは足を踏み外して転げ落ちたりしたんじゃないだろうか。
だとしたら、ここは今際の際に見ている世界? それとも異世界?
わたしはアニメみたいに異世界転生したの? それとも、異世界転移?
そもそも、通っている高校の制服がスクール水着になってる異世界って何?
パラレルワールドってこと?
わたしはいつ違う時間軸の世界線に迷い込んでしまったのだろう。
いくら考えても、ユズナには答えは見つからなかった。
「ね~、ユズナ~、一応先生に電話しとけば~? 夏服でも学校に入れてくれるかもしれないし。ダメって言われるだけだろーけど」
6月に入ったら夏服で登校するのが当たり前のはずなのに、リオは馬鹿みたいな格好をして、ユズナを馬鹿にするように笑った。
リオはいつもそうだった。
中1のときに同じクラスになってからの顔見知りで、毎朝同じ電車にも乗っていて、付き合い自体はもう4年以上も経っていた。
けれど、だからと言って仲が良いわけでもなかった。
スマホの番号も知らないし、無料通話アプリやSNSで繋がっていたりもしなかった。
話しかけてくれなくてもいいのに、ユズナの姿を見つけると必ず話しかけてくる。
そして、必ず馬鹿にしてくる。
ユズナは、中小企業の社長令嬢らしい彼女のことを、ひそかに「悪役令嬢」と呼んでいた。
このまま学校に行けば、丸1日馬鹿にされ続けるだけだろう。
リオのような子は学校には他にもたくさんいるから厄介だった。
だけどそれよりも、今目の前にいる彼女を相手にしなければいけないことが、ユズナにはもう耐えられそうもなかった。
「別にいいよ。わたし、今日は学校行かないから」
ちょうど電車は「温水女学園前駅」のひとつ前の駅で停車するところだった。
「この駅で降りて帰る」
だから、ドアが開くとユズナはそこで降りることにした。
「あっ、そうなんだ? じゃ~ね~」
走り出した電車の中から、リオはずっと笑いながらユズナに手を振っていた。
ユズナが途中下車した駅のベンチには、スクール水着姿の女の子が座っていた。
上にパーカーやシャツを羽織ったり、Tシャツを着たりはしていなかった。
ニーハイとローファーはちゃんと履いていた。
その女の子は、今にも雨が降りそうな灰色の雲ばかりの空をぼんやりと見上げて、大きなため息をついていた。
銀髪のツインテールに青い瞳、真っ白な肌の美少女で、まるでアニメの世界から飛び出してきたような女の子だった。
その少女の名前もユズナは知っていた。
鶴房ナノカ(つるぼう なのか)。
一度も同じクラスになったことはなかったし、会話を交わしたこともなかったけれど、彼女はその美しくて儚げな見た目からとても有名な子だったから。
全身の色素が薄いのは、たぶんアルビノというやつなのだろう。
訊いてはいけない気がしたから、訊くつもりはなかったけれど。
アルビノの皮膚は、確か紫外線に非常に弱く、夏に日焼け止めをちゃんとせずにいると火傷をしたようになってしまうとどこかで聞いたか読んだことがあった。
今日は曇りだったけど、冬服だった昨日までと違って、肌の露出が相当増えている。
もしかしたら体調があまり良くないのかもしれなかった。
「おはよう、鶴房さん」
ユズナが声をかけると、ナノカは小さな体をビクッとさせて驚いていた。
その驚き方はまるで小動物か何かのようで、とても可愛かった。
「あ……樽美ユズナ(たるみ ゆずな)さん……だよね? おはよう……」
今にも消えてしまいそうなか細い声で、ナノカは作り笑いをした。
彼女に名前を覚えてもらえていたことが、ユズナはすごく嬉しかった。