ナノカに名前を覚えてもらえていたことが、ユズナはすごく嬉しかった。
「ユズナでいいよ」
彼女の隣に座ると、ユズナは言った。
「わたしも、ナノカでいいよ。お話ししたことなんてなかったのに、ユズナちゃん、わたしの名前覚えてくれてたんだね」
彼女は少し嬉しそうに言った。
それはわたしの台詞だとユズナは思った。
「どうしたの? 学校、行かないの?」
「うん……頑張ってここまで来たけど、この格好、やっぱりすごく恥ずかしくて……」
どうやら体調が悪いわけではないらしかった。
ユズナはホッと胸を撫で下ろした。
それに、同じように考えている子がいることが嬉しかった。
今日のユズナは夏服を着てきてしまっていたけれど、そんな格好、恥ずかしくて当たり前だった。
ナノカは、とてもかわいらしかったけど。
ユズナもナノカも、これからプールの授業があるわけでもなければ、市民プールや海水浴場に来ているわけでもなかった。学校へ登校する途中なのだから。
学校のプールの授業なら仕方がないけれど、もう市民プールや海水浴場でスクール水着を着るような年でもなかった。
いくら学校から連絡があったからと言っても、こんな格好で平気で電車に乗れる人たちの方がどう考えてもおかしかった。
「これ使って。ちゃんと洗ってあるからきれいだよ」
ユズナは体育の授業で使う予定だったジャージをカバンから取り出すと、ナノカに渡そうとした。
ありがとうと彼女は言ったが、
「でも、ごめんね。たぶん、ジャージを着たらダメだと思うんだ」
彼女はそのジャージを受け取りはしなかった。
洗ってあるとはいえ他人のジャージを着るのが嫌なのかもしれない。
そんなことを思っていると、パーカーやシャツを羽織るのもきっとダメだと彼女は言った。
「恥ずかしいけど、スクール水着とニーハイがパナギアの感染予防になるのは本当だと思うの」
その格好をしてるときだけ感染や発症を予防でき、それ以外のものを上に着たり羽織ったりすると、予防効果は薄れるのだと。
どう考えても、そんなことはあり得るはずがないと思った。
彼女まで谷塚リオ(やつか りお)やあの電車に乗っていた生徒たちやその親たちのように、フェイクニュースに騙されてしまっているのだ。
「馬鹿なこと言ってるって思った?」
ナノカはそう言って笑った。
ユズナの落胆が顔に出てしまっていたのかもしれなかった。
「ユズナちゃんは『ギフト』って知ってる?」
ナノカは唐突に、そんなことを訊ねてきた。
「瞬間記憶能力とか絶対音感とか、共感覚? とか? 生まれつき持ってる才能のこと?」
ギフトには確か「神様からの贈り物」という意味があり、ギフトを持つ人のことを「ギフテッド」と呼ぶと聞いたことがあった。
「ううん、わたしが言ってるのは、そういう才能みたいなものじゃなくて、超能力のようなもののこと。この世界には、いろんなギフトを持つ人がたくさんいるの。そのうちのひとりのギフトで、この格好は今、本当にパナギアの感染や発症を防ぐものになってるんだと思うんだ」
ナノカが言っている言葉の意味が、ユズナにはよくわからなかった。
「それが、昨日対策法を発表した城南大学医学部の村角 龍(むらずみ りゅう)教授のギフトなのか、弟の村角陽貴(はるき)教授のギフトなのかはわからないし、ふたりは偶然対策法を見つけただけで、他の誰かのギフトかもしかないんだけど……」
彼女はそう前置きすると、
「ふたりのうちのどちらかか、全く関係ない他の誰かが、ギフトを使ってスクール水着とニーハイをそういうものにしちゃったんじゃないかって思うんだよね」
ますます訳がわからないことを言った。
「例えば、スーパーやコンビニのレジ袋を使って人を殺そうと思ったら、口や鼻を塞いで窒息死させるしかないでしょ? 首を締めることもできるのかな? でも、レジ袋では人を刺したりは出来ないよね? 冷凍庫に入れても凍ったりしないし、レジ袋はあくまで柔らかいものでしかないから。でも、『レジ袋で人を刺せます、殺せます』って言ったら、その瞬間から人を刺して殺すものに出来ちゃうギフトを持ってる人が、きっといるんだよ。その人がスクール水着やニーハイをパナギアの感染や発症を防ぐものにしたんだと思うの」
なんとなく、ナノカが言わんとしていることがユズナにもわかってきた。
「それって、ミニカーやラジコンの車じゃ人を轢くことなんて出来ないけど、そのギフトっていうのを使えば見た目や重さはそのままでも、人を轢き殺すことができるようになるってこと?」
ナノカはコクリと頷いた。
「レールの上を走ることしか出来ない電車を空を飛ぶようにできたり、トンネルをわざわざ作らなくても海の中を人を乗せたまま潜って走ることが出来るようになるってこと?」
ユズナの想像力ではそんなことしか思いつかなかったが、そのギフトというものは「対象となる物に、本来はない機能を追加することができる超能力」ということなのだろう。
「そうだよ。だから、『スクール水着にはパナギアを予防する力がある』とか、『ニーハイを履くともっと効果的』だとか、『スク水を濡らすと予防効果が高まる』とか、昨日発表されたことは全部本当のことなんだと思う。そういうものになっちゃったから、わたしたちはこれから毎日スク水を着ないと、パナギアに感染したり発症して、赤ちゃんが産めない体になっちゃうんだ」
「夏服のセーラー服にその機能を追加してくれたらよかったのにね。夏服だけじゃなくて、冬服のセーラー服とか、制服全般に」
ユズナがそう言うと、
「本当にそうだね。きっと、そのギフトを持ってる人は、濡れたスクール水着とニーハイの組み合わせが大好きな変態さんなんだろうね」
ナノカはそう言って笑った。
悪役令嬢、リオと違って、見ている人を幸せにする笑顔だった。
ユズナたちは、『対象となる物に、本来はない機能を追加するギフト』を『アッド(追加する)』と呼ぶことにした。
「それにきっと、パナギアも自然発生したウィルスじゃないと思うんだ」
ナノカはそんなことも言った。
駅のベンチの上で、子どものように足をプラプラさせながら。
「『アッド』で、風邪とかインフルエンザとか、どこにでもいるウィルスに、女の子の体を赤ちゃんが産めなくするようにする機能を追加したのが、たぶんパナギアなんだよ」
スク水とニーハイに機能を追加したみたいに、ということだろう。
だけど、それは少しおかしい気がした。
パナギアウィルスを生み出した人物と、その感染・発症対策をスク水やニーハイにした人物が同一人物ということになってしまう。
同じギフトを持つ人物がふたりいるだけなのかもしれなかったけれど。
コンピュータウィルス対策ソフトを作って売っている会社が、ソフトを売るために新しいコンピュータウィルスを作っている、そういう都市伝説を聞いたこともあったから、ひとりの犠巫徒の仕業だとしてもおかしくないかもしれない。
「ナノカちゃんはどうしてそんなにそのギフトっていうのに詳しいの?」
ユズナが訊ねると、彼女は「ん~~」と少し考えた後で、
「ユズナちゃんなら話してもいいかな」
誰にも言わないでね、内緒だよと言って、
「わたしもギフトを持ってるからだよ」
ユズナにそのギフトを見せてくれた。
そのギフトは『アッド』とは、全く異なるものだった。
ナノカのギフトは「クラインの壺」というそうだった。
彼女はそばに置いていた学校指定のカバンをユズナに見せた。
その中は、ユズナが持つカバンと同じものには見えなかった。
別の空間にでも繋がっているかのように広く深く、まるで四次元ポケットか何かのようで、どんな大きなものでもいくらでも入れることができていた。入っていた。
それなのに、カバンはユズナのものよりも軽く、カバン自体の重さしかないようだった。
「ユズナちゃんもギフトを持ってるんだよね?」
「気づいてたんだ?」
ナノカの言う通り、ユズナも幼い頃から超能力のような不思議な力を持っていた。
それが「ギフト」と呼ばれるものだということや、超能力のようなギフトを持つ者のことを「ギフテッド」ではなく、「犠巫徒(ぎふと)」と呼ぶことは、今日はじめて知ったけれど。
「うん。だって、ギフトを持ってない人たちは、スクール水着やニーハイで満員電車に乗って通学するのを普通に受け入れちゃうみたいだから」
「受け入れるっていうよりは、洗脳に近いんじゃないかな……おかしいって疑問に思うことすらないみたいだったし」
知らなかったとはいえ、ユズナは説明を受けても全く受け入れられなかった。
教えてくれたのがリオだったから、余計にだった。
ナノカもまた、恥ずかしい格好でなんとか電車には乗ったものの、耐えきれずに下車していたから、自分が犠巫徒だから受け入れられないのかもと気づいたのかもしれなかった。
スクール水着やニーハイにパナギアウィルスへの対策効果を追加した『アッド』のギフトの持ち主がいて、それを信じ込ませる『コンヴィンス』のギフトの持ち主がいるというのが、ナノカの見立てだった。
一番怪しいのは、やはり城南大学医学部の村角 龍(むらずみ りゅう)・村角陽貴(はるき)両教授ということになるのだろう。
ユズナは、ナノカに自分のギフトについて話すことにした。ナノカだけに話させるのはフェアじゃなかったから。