誰かが言った。
二柱の悪しき女神を出会わせてはいけない。
その女神の名は、ユズナとナノカ。
誰かが言った。
樽美ユズナ(たるみ ゆずな)と鶴房ナノカ(つるぼう なのか)さえ出会わなければ、我らの創造主が滅びることはなかった。
誰かが言った。
ならば、我らは数十億年の時を遡るだけのこと。
我らは悪しき女神たちの中に入り込み、歴史を変える必要がある。
誰かが言った。
ひとりは樽美ユズナに。
もうひとりは鶴房ナノカに。
だが、それだけでは足りない。
誰かが言った。
樽美ユイトや鶴房ヒメナ、悪しき女神の兄や姉も排除せねばならない。
若崎エミリ(わかさき えみり)や谷塚リオ(やつか りお)、悪しき女神の側についた精霊たちもだ。
誰かが言った。
矢動丸マリエ(やどうまる まりえ)はどうする?
誰かが言った。
彼女は我らを産み出した真の創造主。
創造主の中に入り込むなど、創造主への冒涜である。
誰かが言った。
だから、我らは一度、創造主の偽物を用意した。
それでも歴史を変えることが出来なかったことを忘れたわけではあるまい。
誰かが言った。
ならば、創造主にも入り込むだけのこと。
それがたとえ創造主への冒涜であったとしてもだ。
皆が言った。
すべては創造主のために。
すべては創造主のために。
すべては創造主のために。
すべては創造主のために。
すべては……
最寄り駅の2階にある改札を足早に通り抜け、肩まで伸ばした赤い髪や夏服になったばかりの半袖のセーラー服とスカートをなびかせながら、樽美ユズナ(たるみ ゆずな)は上りの電車が来るホームへと階段を降りていく。
中学1年生の春からもう4年あまり、彼女は平日の毎朝7時半頃、満員電車の女性専用車両に乗るようにしていた。
いつもなら、10分ほど前にはもうホームで列に並んでいて、今頃は電車が来るのを待っている時間だった。
だけど、その日は数ヶ月振りに着る夏服が嬉しくて、似合っているか姿見で何度も確認してから家を出たから、いつもよりかなりギリギリの時間になってしまっていた。
階段を下りながら、ユズナは「女の子限定の制服用のセーラー服って日本にしか存在しないって本当なのかな」とか、「上着だけとはいえ日本以外は全部男の人用とか嘘でしょ」と思った。
こんなにかわいいんだから、外国の女の子たちも着ればいいのに、と。
彼女の学校の夏服は、半袖の上着だけでなくスカートも白いため、下着が透けたりしていないか気になったりもした。
トイレに寄る余裕なんてなかったから、もう確かめようもなかったけれど。
電車はすでにホームに来ていて、間もなくドアが閉まろうとしていた。
その電車を逃せば、間違いなく遅刻してしまう。
だから、彼女は慌てて階段を駆け下りた。
ユズナが電車に飛び乗ると、ちょうど彼女の後ろでドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
息が切れてしまっていたから、しばらく前屈みのまま呼吸を整えて、それから顔を上げた。
そして、彼女は目の前に広がる光景に唖然とした。
この時間、この女性専用車両にいるのは、ほとんどが彼女と同じ私立の女子校の小等部から高等部の生徒ばかりだ。
けれど、誰もユズナのように夏服の制服を着ていなかった。
毎年、6月に入ってもすぐに夏服にはせず、1週間ほど冬服のままでいる生徒は必ず何人かはいる。
だから、彼女が驚いたのは冬服の生徒が多かったからとか、全員冬服のままだったからではなかった。
彼女の視界に映る女性専用車両の乗客全員が、
→ 大人なのに女児服を着ていたからだった。
× スクール水着を着ていたからだった。
彼女の視界に映る女性専用車両の乗客全員が、大人なのに女児服を着ていたからだった。
女児服。
子ども服の中でも、女の子用に作られたもののことだ。
子ども服にはいくつかの種類がある。
「ベビー服」は、年齢層別に0歳から3歳頃までの乳幼児を対象とし、おむつ着用を前提に設計されている。
「トドラー服」は、おむつが取れた頃の3歳頃から小学校低学年頃以下までに当たる服のことだ。
「ジュニア服」は、小学校中学年頃から中学校頃までに当たる服である。
女児服とは、ジュニア服の中でも小学生が着る服のことを指したものだと言ってもいいだろう。
小等部の低学年の子はトドラー服を着ていたりもしたけれど、その車両にいる全員が間違いなく女児服を着ていた。
ユズナは最初、何かの見間違いだと思った。
だから目を何度か手の甲でこすってみた。けれど、見間違いではなかった
夢を見ているわけでもなさそうだった。太ももを指でつねるとちゃんと痛かったからだ。
その光景は、まるで「うちのお兄ちゃんが好きそうな企画もののAVみたい」だった。
「あれ? ユズナ? どうして夏服なんか着てるの?」
女児服を着た女の子が、ユズナにそう声をかけてきた。
サンリオのキャラクターが大きく描かれたTシャツを着て、フリルがたくさんついたミニスカートやソックス、スニーカーを履いていた。
クラスメイトの谷塚リオ(やつか りお)だった。
「どうしたのって、リオこそどうしたの?」
「え? 嘘でしょ? ユズナ。ニュース、観てないの?」
リオは、カバンからスマホを取り出すと、ニュースサイトを開いてゆずなに見せてきた。
『5月31日、城南大学医学部の村角 龍(むらずみ りゅう)・村角陽貴(はるき)両教授が、アンドロギュノスウィルスの画期的な感染・発症予防対策方法を発表した』
昨年末から流行している新型感染症に関するネットニュースだった。
6歳から18歳の女性のみが発症するウィルスで、「アンドロギュノス」と呼ばれていた。
発症すると40℃以上の高熱に2週間うなされることになり、熱が下がったときには、ほぼ100%の確率で両性具有の体になっているという、恐ろしい病気だった。
アンドロギュノスという言葉は、古代の神話や錬金術の書物などにも登場する。
男と女の性がひとつの体に存在することを意味し、人間が二つの性に分かれる以前の完全体であることを表わす。
もともとはプラトンの『饗宴』で、第三の性として男女がくっついた完全な存在を指していたという。
人間の祖先の形とされる、男女が一体となったその姿は球形らしい。
すでに人の姿を捨て球形になってしまった者が多数いると聞いていた。
まるで性別の多様化を止め、ひとつの性にするためや、容姿を統一するために生まれたようなウィルスだなと、ユズナは思っていた。
あるいは、男性という存在を世界から排除するためのウィルスだろうか。
「アンドロギュノスがどうかしたの?」
「女児服着てるとアンドロギュノスに感染しないんだって。感染してても発症しないらしいんだよね」
アンドロギュノスは飛沫感染じゃなかったっけ? てか、みんな、そんなフェイクニュースに簡単にコロッと騙されてるの?
そんなことを思いながらニュースを読み進めてみると、
「女児服を日常的に着用することにより、その羞恥心が女性の精神に適度なストレスを与え続ける……? そのストレスによって免疫力が高まり、マスクやアルコール消毒以上の感染予防が可能になると同時に、発症防止効果も確認……?」
本来ストレスは免疫力を低下させるが、女児服によるストレスは特殊なものであり、免疫力が逆に高まるのだという。
一体何の冗談だろう。
そこには、目を疑うようなことばかり書かれていた。
『女児服着用時には、ランドセルを背負い、羞恥心によるストレスをさらに与え続けることが推奨される。尚、女児服は、より低年齢向けのものを着れば着るほど、感染や発症の予防効果の更なる向上が期待できる』
ユズナには、悪い冗談か、その教授ふたりの変態的な趣味や性癖にしか思えなかった。
「これ、みんな信じてるの……?」
本当に一体何の冗談なのだろう。
「うん。昨日学校から親にも連絡来てたし。だからみんな、今日から夏服じゃなくて女児服を着ることになったんだよ。冬服が必要になる頃には、アンドロギュノスも落ち着いてるだろうからって」
これから何ヵ月も毎日女児服で電車通学するなんて、ユズナは考えたくもなかった。
電車は女性専用車両を使えばいいし、学校は女子校だからまだよかった。
だけど、自宅から駅までは自転車だし、そんな格好じゃ学校帰りに恥ずかしくて寄り道も出来ない。
ユズナのスマホにはそのような連絡は一切来ていなかった。
両親からは、昨日も今朝も何も言われなかった。
年の離れた兄のユイトは、夏服も似合ってるね、ユズナは本当に何を着てもかわいいね、と褒めてくれただけだった。
おそらく母のスマホには連絡が来ていたはずだった。
だが、母は学校からの連絡にまめに目を通すような人ではなかったから、こんな事態を招いてしまったんだなと思った。
「私立温水(ぬくみず)女学園が、女児服女学園になっちゃったね?」
谷塚リオはそんな冗談を言って楽しそうに笑っていた。
けれど、ユズナは作り笑いを返すことすらできなかった。
「ずっとヌク女(じょ)って呼ばれてたけど、これからは女女(ジョジョ)とかジョジョ園って呼ばれるかもね」
名前こそ変わらないものの、見た目が女児服女学園になってしまうからだろう。
この世界は、本当にわたしがいた世界なのだろうか。
ユズナはそんなことを思いながら、電車のドアにもたれかかり、ため息をついた。
何度見回しても、女性専用車両の中は女児服を着た女の子たちだらけで、正気の沙汰とは思えない光景だった。
もしかしたら、急いで階段を駆け降りたときに、わたしは足を踏み外して転げ落ちたりしたんじゃないだろうか。
だとしたら、ここは今際の際に見ている世界? それとも異世界?
わたしはアニメみたいに異世界転生したの? それとも、異世界転移?
そもそも、通っている高校の制服が女児服になってる異世界って何?
パラレルワールドってこと?
わたしはいつ違う時間軸の世界線に迷い込んでしまったのだろう。
いくら考えても、ユズナには答えは見つからなかった。
「ね、ユズナ? 一応先生に電話しといた方がいいんじゃない? 夏服でも学校に入れてくれるかもしれないし。ダメかもしれないけど、一応さ」
6月に入ったら夏服で登校するのが当たり前のはずなのに、リオは馬鹿みたいな格好をして、普段通りユズナを心配するように言った。
リオはいつもそうだった。
中1のときに同じクラスになってからの顔見知りで、毎朝同じ電車にも乗っていて、付き合いはもう4年以上になる。
彼女は知りあったばかりの頃から、ユズナの姿を見つけると必ず話しかけてきてくれた。
最初こそ鬱陶しいと思っていたが、いつの間にか大切な親友になっていた。
このまま学校に行くか、行かないか。
ユズナは何故か、そんな選択をすでに何度か繰り返しているような気がした。だが、たぶん気のせいだろう。
学校に行けば、丸1日皆に心配され続けるだろう。
リオほどの親友は他にはいないけれど、いつもユズナのことを気にかけてくれる子は学校には他にもたくさんいたからだった。
それは、ユズナには耐えられそうもなかった。
「別にいいかな……。わたし、今日は学校行くのやめる。女児服なんて全部捨てちゃったし、あってもサイズ的にもう着れないから、急いで買いに行かなきゃいけないんだ」
ちょうど電車は「温水女学園前駅」のひとつ前の駅で停車するところだった。
「この駅で降りて、今日はもう帰るね」
だから、ドアが開くとユズナはそこで降りることにした。
「そうなんだ? 残念……じゃあ、また明日ね?」
走り出した電車の中から、リオはずっとユズナに手を振っていた。
ユズナが途中下車した駅のベンチには、女児服を着た女の子が座っていた。
その女の子は、今にも雨が降りそうな灰色の雲ばかりの空をぼんやりと見上げて、大きなため息をついていた。
銀髪のツインテールに青い瞳、真っ白な肌の美少女で、まるでアニメの世界から飛び出してきたような女の子だった。
その少女が同じ学校の生徒だということは、学校指定の同じカバンを持っていたからわかった。
その美しくて儚げな見た目には見覚えがあったけれど、名前までは知らなかった。
全身の色素が薄いのは、たぶんアルビノというやつなのだろう。
アルビノの皮膚は、確か紫外線に非常に弱く、夏に日焼け止めをちゃんとせずにいると火傷をしたようになってしまうとどこかで聞いたか読んだことがあった。
今日は曇りだったけど、冬服だった昨日までと違って、肌の露出が相当増えている。
もしかしたら体調があまり良くないのかもしれなかった。
→ 声をかけない。
× 声をかける。
声をかけようかとも思ったが、ユズナはやめることにした。面倒事には巻き込まれたくなかった。
反対側のホームに向かう途中、一応駅員に声をかけ、具合が悪そうな女の子がいるということを伝えるだけにした。
ホームに滑り込んできた下りの電車にユズナは乗り込んだ。
そのときだ。
ーー鶴房ナノカ(つるぼう なのか)。
先ほどの女の子のものらしき名前が何故かユズナの頭の中に浮かんだ。
一度も同じクラスになったことはなかったし、会話を交わしたこともなかったというのに。
ーーわたしは、あの子と友達にならなければいけない。
何故か、そんな気がした。
ユズナの頭の中に、まるでゲームのように選択肢が浮かぶ。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
友達にならない。
一見選択肢のように見えたそれは、彼女に何も選ばせる気がないものだった。
→ 友達になる。
だから、自分で選択肢を作ることにした。
電車の扉が閉まろうとしていたから、慌ててホームに降りたユズナは、彼女の元に向かって走っていった。
第1部、完。
第2部「今日から、うちの高校の制服が女児服になりました」に続く。