「みんな、このマリーちゃんもどきの体や服や下着、持ち物を徹底的に調べて。チップとか、ヤマイダレに繋がる何かが絶対に出てくるはずだから」
ナノカは、ユズナの兄が作ったであろうロボットたちに指示を出した。
「ヤマイダレって、ただパナギアウィルスのワクチンを世界中に売りさばきたいわけじゃないんだよね? 人間の体の中に流れてる微弱な電流を使って動くナノマシンがワクチンに入ってるんだよね? ワクチンもナノマシンもギフトで作ったものなんだろうけど。
それを使って、この国や世界を自分たちの都合のいいように動かせるように、反逆者が出てこないようにしたり、民衆の思想を統制したり、生産性のない人間は人格や体を作り変えたりして、徹底的に管理したいんだよね。
でもさ、環境保護団体ってあるでしょ?
ああいうところで活動している人たちは、本当に環境の保護を考えるなら自分たちがまず旧石器時代の生活を送らなきゃダメだと思わない?
車や電車や飛行機には乗るし、スマホとかパソコンとかエアコンとか、文明の力はちゃんと利用して環境破壊の片棒をしっかり担いでるくせに、美術館で絵画に落書きしたり生卵投げつけたりしてるでしょ。
旧石器時代の生活に戻る覚悟がないなら、今すぐ自分で命を断たなきゃだめだと思うんだよね。街に下りてきた熊を『殺すな』『かわいそう』っていうなら、自分が餌になる覚悟を見せるとか。
だって、それが一番環境保護のためになるんだもん。たかだか人ひとり分でも、今は人生100年って時代だし、その人が環境保護活動にどれだけ熱心でも、移動に車を使ってるだけで結果的に環境破壊の方が多くなるだろうし。
それと同じでね、何かを変えたいならまずは自分がお手本にならなきゃいけないと思うんだ。熊の餌になって見せるくらいのことをしなきゃいけないんだよ。
思想を統制したり、人格や体を作り変えたりまでして、民衆を徹底的に管理したいなら、まずはあんたらの思想を統制して人格や体の作りを変えなきゃだめだよ。それが嫌なら死ぬしかないんだよ」
ナノカは長々とそんなことを話していたけれど、彼女が矢動丸マリエに銃を向けた次の瞬間には、すでに彼女の姿はそこにはなかった。
マリエ本人ではなく、マリエになりすましてる誰かであり、一体誰だったのかさえユズナたちにはわからなかったけれど。
「あれ? マリーちゃんもどきはどこ?」
「いないよ、とっくに」
だからその女には、ナノカの言葉は何も聞こえてはいなかった。
マリエもどきが消えたのは、ナノカに殺人をさせたくなかったユズナが、その女の年を30歳ほど巻き戻したからだった。
20代半ばか後半くらいだった彼女は、受精卵になる前の、卵子と精子にまでその体は巻き戻ることになり、そのふたつが両親の卵巣や精巣で作られる以前にまで戻り、その存在は完全に消滅していた。
白衣やスクール水着やニーハイ、スリッパだけがその場には残されていた。
ロボットたちがチップのようなものを見つけていた。ヤマイダレに関する何かの手がかりになるかもしれなかった。
ユズナは、その全身を汚していたエミリの血を、申し訳なく思いながらもマイナスと捉え、それをゼロにすることにより綺麗に洗い流した。厳密には洗い流したわけではなかったが、それ以外の表現は見つからなかった。
「帰ろっか、ユズナちゃん。今日、ユズナちゃんち、泊まっていい?」
「いいよ。今日はもう疲れちゃったから、しなきゃいけないこと、全部後回しにする」
パナギアウィルスはもうこの世界のどこにも存在しない。
ユズナが世界中から消してしまったから、ワクチンを作るために必要となるウィルスさえも消えてしまった。
もちろん、世界各国のウィルス研究施設に保管されたりもしていない。
そのことは公表されることはなく、3ヶ月後の9月には、存在しないウィルスの感染予防のための何の効き目もないワクチンの接種が世界中で始まった。
感染しても発症はしないとされていた30歳以上の女性や男性も接種対象となっていた。
ワクチンとしての効き目など最初から皆無であり、民衆を管理するためのナノマシンが入っているだけのものだった。
だが、その効果は3ヶ月~半年で薄れるとされており、何度も接種することが推奨された。
接種すればするほど、体内にナノマシンが増え、接種した者たちはまるでロボットのように働き、子を産み、育て、死んでいくだけの存在へと脳や体が変えられていった。
秋になりワクチンの接種が始まっても、二度目の接種が始まる冬になっても、三度目が始まる春になっても、ユズナとナノカが通う私立温水女学園は、ふたりが高等部の卒業式を迎える2025年の3月1日まで制服はスクール水着のままだった。
それから数年が経った今でも、それは変わっていない。
ユズナとナノカが高校を卒業する頃にはもう、医学会や病院、製薬会社などの上位組織であったヤマイダレは、反ヤマイダレ組織『イエロー・リボン』によって壊滅していた。
ヤマイダレやイエロー・リボンの存在がこの国の歴史に綴られることはないが、
『ヤマイダレはイエロー・リボンに所属するたったふたりの少女によって壊滅させられた。』
公安の極秘資料にそう記されされていた。
その少女たちはギフトという特別な力を持っていたという。
ユズナとナノカは同じ大学の同じ学部、同じ学科に進学することになったが、大学でもスクール水着を着続けた。
それはふたりと同じ進学先を選んだリオやミユウ、ユウリ、カナ、それにエミリも同じだった。
イエロー・リボンには、本人そっくりのイミテーションを生み出すギフトを持つ者や、人格や記憶のバックアップを作ることが可能なギフトを持つ者がいた。
神名 詩(かみな うた)と夏目メイという、ユズナの兄やナノカの姉と同世代の女性だった。
あの日、ユズナが殺してしまったエミリにはイミテーションの体が与えられていた。彼女がマリエもどきに操られる前の状態の人格や記憶、ギフトまでが完全に再現された体だった。
エミリによって体の形を変えられてしまった少女たちには、
・本物の手足と変わらないように動く義手や義足をつけて生活するか、
・人格や記憶、ギフトを持たないように作られたイミテーションの体に脳のバックアップを移すか
という選択肢が与えられ、ほぼ全員がイミテーションにバックアップを移していた。
神に背く行為だからと、宗教上の理由から義手や義足を選ぶ者も若干名いた。
ユズナの兄・ユイトが、神名 詩にヒメナのイミテーションを作らせなかったのは、勝手に尊厳死を選ぼうとした両親だけでなく、恋人の自分までが彼女の人生を勝手に決めてはいけないと考えていたからだったらしい。
ヒメナがつけていた義手や義足は、実は兄が「本物の手足と変わらないように」と願いを込めて作ったものだったそうだった。それをネット販売することで、イエロー・リボンは資金を集めていたという。
義手義足を選んだ数人の少女たちのために、兄はひとつひとつ一生懸命それを作っているのを見て、ナノカの言う通り本当にすごい人だったんだなとユズナは考えを改めることになった。だから、多少のセクハラがあっても飛び蹴りをしたりタコ殴りにしたりすることはやめることにした。
もともと大好きだった兄のことがもっと好きになった。
かつて、中高生時代は制服、大学や専門学校は私服、就職活動はリクルートスーツ、職場ではスーツや制服、作業着などが着られていたが、そんな常識は今ではもう通じない。
女性の正装は、20代後半もしくは30代前半まではスクール水着が相応しいとされる時代と世の中になっていた。
同性婚が認められた年、まだ20代であったユズナとナノカは、ふたりの地元の市役所に婚姻届を提出し、受理された。
ふたりは結婚式は行わず、ふたりだけでフォトウェディングを行うことにした。
ウェディングドレス風スクール水着を着用し撮影されたウェディングフォトは、ふたりの兄や姉に子どもが生まれるまでの間、何年間もスマホの壁紙になっていた。
ふたりもまた、一足早く結婚していた兄と義姉、義兄と姉のウェディングフォトを生涯の壁紙にした。
この国では、かつて2度のベビーブームがあった。
第1次ベビーブームは1947~1949年にかけて起き、その3年間で805万7,000人の子どもが生まれた。
第2次ベビーブームは、第1次ベビーブームで生まれた世代が大人になった1971~1974年に起き、年間200~210万人もの出生数があった。
しかし、その後の出生数は減少傾向にあり、この国の人口は2008年の1億2,808万人をピークに減少していた。
第3次ベビーブームは、第2次から55年後の2029年に始まり、年々年間出生数が上がっていった。
かつては数年で終わっていたベビーブームだったが、第3次は2040年になっても、2050年になっても終わらず、半永久的に出生数は増加し続けるとされた。
パナギアウィルスやその他のワクチンという名目で接種され続けたナノマシンの影響だった。
2060年、この国の人口は2億5000万人を超え、政府はかつての大国のように「ひとりっこ政策」を実施した。
しかし、人口増加を止めることはできず、2080年には人口が3億人を超えることになる。
その頃には、地球の総人口は200億人を超えており、NASAや国連は慌てて軌道エレベーターやスペースコロニーの建造、月や火星のテラフォーミングを始めた。
しかし、世界各国で深刻な食糧危機やエネルギー不足が起きており、ナノマシンに脳を完全に支配された人々は、生への執着と子孫を遺すことしか頭になかったため、それどころではなかった。
2086年、とある国でひとりの子どもが誘拐され、数時間に渡って性的暴行を受けた後に殺害され、その肉を食われるという事件が起きた。
亡くなった子どもやその遺族には申し訳ない話だが、それは世界規模で見ればよくある、ちっぽけな事件だった。
山の中に埋められたその子どもの死体から、自己増殖機能を備えた最新のナノマシンが噴き出し、地上から1万メートル上空まで舞い上がることがなければ。
暴走したナノマシンが自己増殖を始めると、瞬く間に世界中の空を覆ってしまった。
それは、「グレイ・グー」と呼ばれる、自己増殖性を有するナノマシンが全てのバイオマスを使って無限に増殖することにより、地球上を覆う世界の終焉の始まりだった。
グレイ・グーは、1986年にアメリカ合衆国の工学者であるK・エリック・ドレクスラーが、その著作「創造する機械 ナノテクノロジー」にて想定した架空の事象であり、彼は後に「グレイ・グーという言葉が、一度として使われない事を祈る」と述べていた。
グレイ・グーが始まった2086年は、奇しくもそれから100年後のことであった。
地上には太陽の光が降り注ぐことはなくなり、氷河期が訪れた。
人類をはじめ、地上や海中のありとあらゆる生命が滅亡しても、数十億年が過ぎて星が寿命を迎えても、太陽が寿命を迎えても、空を覆うナノマシンが晴れることはなかった。
ジャイアントインパクトに匹敵する超弩級巨大隕石が地球に落下するまで。
巨大隕石の落下により、とある銀河の果てにある、とある恒星系のとある星に飛ばされたナノマシンたちは、自分たちを産み出した創造主に似た姿を形作るようになり、自分たちの種をヒト、その群れをニンゲンやジンルイ、そしてその星をチキュウと名付けた。
彼らの文明はすべて創造主の真似事であり、神話を作り、今はもういない創造主を崇めるようになった。
彼らが最も恐れたのは、その神話に登場する二柱の悪しき女神の存在であった。
その女神の名はユズナとナノカという。