「彼女は危険だねぇ……」
モニターがひしめく薄暗い室内でよれよれの白衣を羽織りながらアンデルセンは呟く。画面に映るスノードロップに触れる。
「でも、もう終わりだ」
そう呟いてにこりと微笑んだ。
***
司令部に集められた
隣にいるみうは交互に見遣っては困った顔で楓に視線を送っていた。幽璃たち以外に楓と真理奈、伊藤司令官もいるのだが三人とも真司の心情を理解しているようだ。
「イフェイオンの交渉を任されたとか、おれは聞いてねぇぞ!」
「すまない。心配をかけたくなかったんだ」
この場に集められたのは荒禍の幹部であろうイフェイオンとフェルメールに関することだ。
二人は会話が通じることから交渉ができるのではないかと楓は考え、志願した幽璃とみうにその役目を任せることにした。
みうは自分から話してのことなので真司も知っていた。けれど、幽璃はイフェイオンの交渉役というのを二人に伝えていなかったのだ。
幽璃が言い出せなかったのは心配をかけたくなかったのもあるが、イフェイオンに対して二人の考え方が違うというのもあった。
真司はイフェイオンに対して敵視しているのは感じ取れたし、みうも恐怖を抱いている。だから、なかなか伝えられなかったと、説明するも真司はまだ怒った顔だ。
「あいつが危険なのは幽璃も分かっているだろ」
「分かっている。でも、イフェイオンの様子がおかしいのは事実なんだ」
「確証なんてないじゃねぇか!」
真司はイフェイオンの指揮した戦いで死人が出ていなくとも、危ない存在だと主張する。けれど、「異常があるのは確認済みだ」と、楓は何かあるのは確実だろうと結論が出ていることを教えた。
新たに現れたアンデルセンという男がイフェイオンを回収したこと、フェルメールが彼のことも様付で呼んでいたことを考えるに重要な人物であるのは想像ができる。
「あの苦しみ方は異常だった。私は目の前で見ているから感じたの、苦痛を」
「数年前に同じ症状の
「あぁ、五年前のことだ。丁度、荒禍らしき組織が現れだした頃に保護されたアリスだったと記憶しているな。脳機能に障害が出たと」
「命は助かったが精神的ショックを受けて記憶が消えてしまっていた。詳しく話を聞くことも今はできないが、報告書には洗脳行為についての考察が記されていたんだ」
洗脳ができるか。結論からいうとそういった行為はできる。
実験結果があるということは、実際にやってみたということだ。人体実験を天津光ヶ丘学園はやったのか。黙る幽璃たちに楓は「これは必要な実験だったんだ」と話す。
モノノケだけでなく、人間の洗脳ができるとなれば、それを悪用する存在が現れかねない。実際に可能性があるかどうかを知り、結果を元に行動できるようにしておかねばならないのだと。
「実験といっても酷いものではない。保護されたアリスのように脳障害を与えるほどことはしていないし、安全を確保した状態で行っている」
「その結果、可能性があることがわかったと」
「全ての
結果としては操ることに成功しているが、完璧に洗脳できるわけではないということで、可能ではあるという表現になっているらしい。
楓はアリスが洗脳行為を行っているのではないかと考えているようだ。幽璃から話を聞いて捕縛した荒禍のメンバーたちを再度、調べてみたらしい。
その結果、何人か記憶を失っていたと報告が出ていることを教えてくれた。
「え、じゃあ全員が自分の意志で戦っているわけじゃないかもしれないってこと?」
「そうなる。自分が何故、戦っていたのか分からないと話す人間もいたと報告が来ている。そうだな、真理奈」
「はい、お兄様。みうさんの質問の通りで、自分の意志で戦っていない人もいましたわ」
何が起こっているのか分からずに精神が壊れてしまった人間もいると真理奈は話す。
幽璃は学園側の実験では可能ではあると結果が出ているが、完全な洗脳は難しいとも言われているのにと疑問を抱く。
荒禍側はそれを可能にしたということなのか。幽璃が考えていれば、伊藤司令官が「アンデルセンという男についてだが」と質問をしてきた。
「紫のメッシュに糸目で痩せ型の男だった。間違いないか?」
「はい。あとはよれよれの白衣を着ていたぐらいです。若くないような、でも年老いてはいないといった感じで……」
「一人、思い当たる人物がいる」
伊藤司令官の言葉に楓が「本当ですか」と問い返せば、彼は頷いた。組んでいた腕を解き、執務机の引き出しから一枚のファイルを取り出す。
「今から十年前だ。いくつかの資料と共に消えた研究員がいた。彼は
楓からの報告に伊藤司令官は彼の事を思い出して捜査資料を探してくれていたようだ。彼は実験結果の他にもモノノケに関する調査資料などを持ち出して姿をくらませていた。
見せられたファイルにはその人物の履歴書が入っており、写真が貼られている。あっと幽璃は思わず声が出た。
写真の人物はあの時、アンデルセンと呼ばれた男と似ていたのだ。幽璃の反応に「彼ならばやれなくはないかもしれない」と伊藤司令官は言う。
「彼、
伊藤司令官の言葉には世辞などは含まれていない。彼はそうなっても納得してしまうと心から思っているのだ。
それほどにアンデルセンという男は優秀な研究員だった。
「この人物は裏で指名手配されている人物ですね。彼がアンデルセンと名乗っているということになるのか……目的はいったい……」
「彼と一緒に研究をしていた同僚に話を聞くことができたのだが……。彼の印象は〝理解できない〟だったと」
榊左近は優秀な研究員ではあったが、言動におかしなことが多々あった。
一度、気になれば確認せずにはいられず、研究対象を物としか扱っていなかったと、彼のことを知る人は口をそろえて話す。
危険な実験行為もやりそうになって何度も止めたらしく、資料を持って消えたと聞いたときはいつかやると思っていた。
聞く人、皆がそう言うのだから、彼の言動におかしなところがあったのは事実なのだろう。
「確証はないがもしかしたら、何かしらの実験を行っている可能性がある」
「実験でこんなことすんじゃねぇよ!」
「それはアンデルセン本人に言ってくれ、真司」
何が目的なのかはアンデルセンにしか分からない。ただ、一つ言えることは彼ならば洗脳行為が行えるという点だ。
幽璃は「可能性がある限り、念頭に置くべきだ」と言えば、真司は眉を下げながら「そうだけどよ」と口を尖らせる。
納得はできるけれど、交渉といった行為が危険であるのは変わらない。真司はそれが言いたいようだ。それにみうが「あたしの時は許してくれたじゃん」と言った。
「あたしがフェルメールを説得するって言った時は許してくれたのに、幽璃は駄目っていうのは無理があると思うよ?」
「それは……あいつより、イフェイオンのほうが危険だしよぉ……」
「真司。私の事を心配してくれているのは伝わっている、ありがとう。でも、私は彼を放っておけないんだ」
もし、洗脳行為がされているのであれば、彼も被害者だ。アンデルセンという男の実験の被検体として。
苦しむ相手を救えるかもしれないのに、放っておくことはできない。幽璃は「私に任せてほしい」と胸に手を当てる。
一歩も引くどころか、真っ直ぐに見つめてくる幽璃に、真司は言い返そうとする言葉を飲み込んだふうに息を吐き出した。
「なんで、女子は一度、言い出したら聞かなんだよ……全く」
「それは女性特有の強さなのかもしれませんわね」
「真理奈さんの言う通りよ! 女は度胸ってね!」
「それが男には分かんねぇんだよ、みう。あー、幽璃がやりたいっていうならもう止めねぇけど、無茶だけはしないでくれ。みうにも言ったけど、二人が危険な目に遭うのは見たくねぇんだよ」
おれたちがサポートするから勝手な行動も取らないこと、それが真司なりの妥協点だ。幽璃は「約束する」と頷いた。