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境界線上のサラ
境界線上のサラ
いろは杏
現実世界青春学園
2025年04月14日
公開日
6.2万字
連載中
「もう一度、学生時代に戻れたら……」 誰もが一度は夢見る願望。だが、アラサーサラリーマンの涼が手に入れたのは、望んだ過去ではなく、全く見知らぬ女子中学生・遠野沙羅の「今」だった。 失われた自分の人生への郷愁。慣れない身体と、容赦なく襲い来る思春期のリアル。 「自分とは何なのか?」――アイデンティティの境界線上で揺れ動きながらも、涼は不器用な優しさを持つ友人たちとの出会いを通し、少しずつ前を向いていく。 これは、性別も年齢も超えて「自分らしく生きる」ことの意味を問いかける、青春グラフィティ。

第1話 灰色の日々の終わりに

 8月下旬とはいえ、まだ残暑が厳しい平日の夜。オフィス街のビル群から吐き出される人波に逆らうように、僕は会社の通用口をくぐった。

 時刻は午後9時を少し回ったところ。今日もまた、頼まれた仕事を片付けていたら、すっかりこんな時間になってしまった。


「お疲れ様です、涼さん!」

「お疲れ様。山下くんも、あまり無理しないでね」


 後輩の山下くんが、まだデスクで奮闘しているのに声をかける。彼は少し不器用だけれど、とても一生懸命な青年だ。

 さっきも、今日中に仕上げなければならないという企画書のデータ整理を「すみません、どうしても……!」とほとんど泣きそうな顔で頼み込まれ、結局僕が手伝うことになったのだ。


(……まあ、頼まれてしまうと断れないしなぁ、僕は……。それに、彼が本当に困っているのを見ると、放っておけない性分でもある。大丈夫、なんとかなるさ、と思って引き受けたけれど、意外と時間がかかってしまったな……)


 我ながらお人好しが過ぎるかもしれないが、持ち前の集中力と、まあ、多少の能力の高さで、なんとか期日には間に合わせた。彼が心底安堵したような顔を見ると、悪い気はしないのだから、結局のところこれで良いのだろう。


 駅までの道を歩きながら、夜風に火照った顔を冷やす。昼間の喧騒が嘘のように、オフィス街は静けさを取り戻しつつある。見上げれば、ビルとビルの隙間に、窮屈そうな月が見えた。


 僕――夏目涼は、特に波乱万丈というわけではない人生を歩んできた、と思う。幼い頃に両親を事故で亡くし、心優しい叔父夫婦に引き取られて育った。グレることもなく、勉強もそこそこ、地元の高校を出て、少し頑張って都内の大学に入り、今はこうして、そこそこの企業で働いている。

 大きな不満があるわけではない。頼りになる先輩や、慕ってくれる後輩もいる。仕事だって、まあ、大変な時もあるけれどやりがいはある。


 ただ、時々、ふと思うのだ。もし、あの事故がなくて、父さんや母さんが生きていたら、僕はどんな人生を送っていたのだろうか――と。

 一緒に食卓を囲んだり、旅行に行ったり、くだらないことで笑い合ったり……。そういう、ごく当たり前のというものを、僕もしてみたかった。

 叔父夫婦には感謝してもしきれないが、それとこれとは、やはり別の話なのだ。まあ、今更どうしようもないことだし、僕自身、その過去は割り切れているつもりではいるのだけれど。


 そんな感傷的な気分になったのは、駅へ向かう途中、楽しそうに歩いている制服姿の学生さんたちを見かけたからかもしれない。

 仲間たちと笑い合い、部活に打ち込み、あるいは、これから始まる未来に胸を躍らせている。


(……いいなぁ、学生たちは……。自由で、可能性に満ちていて……。僕にも、あんな時代があったはずなのに、なんだかもう、遠い昔のことのようだ……。もし父さんや母さんが生きていたら、僕の学生時代も、もう少し違う色をしていたのかもしれないな……。いや、感傷的になるのはやめよう。僕は僕で、自分の人生を歩むしかないんだから)


 駅のホームに着くと、ちょうど電車が滑り込んできた。それほど混んではいない。空いている席を見つけて腰を下ろし、深く息をつく。今日も疲れた。早く帰ってシャワーを浴びて、ビールでも飲んでゆっくり眠ろう。明日も仕事だ。大丈夫、なんとかなる。いつものように、そう自分に言い聞かせる。


 電車の規則的な揺れが、心地よい眠気を誘う。うとうとと微睡み始めた、その時だった。


 キーン、という鋭い金属音が、突然、頭の中に響き渡った。それは耳から聞こえる音ではなく、もっと内側から、脳を直接震わせるような、不快な音だった。


「……っ?」


 同時に、視界がぐにゃりと歪む。目の前の景色が、まるで水中にいるかのように揺らぎ、焦点が合わない。


 (なんだろう? 急にどうしたんだろう……? 貧血かな? いや、それにしては……)


 身体から、急速に力が抜けていく感覚。手足が痺れ、重くなっていく。座っているはずなのに、身体がぐらぐらと揺れる。まずい、と思った。これは、ただの目眩や貧血ではない。何か、もっと根本的な、異常な事態が起きている。


 周囲の乗客の声や、電車の走行音が、急速に遠のいていく。まるで分厚い壁に隔てられたように。耳鳴りがひどくなる。視界の端から、急速に闇が迫ってくる。


(……意識が……遠のいていく……。まずい……だめだ……)


 抵抗しようにも、身体が全く言うことを聞かない。瞼が、鉛のように重く落ちてくる。最後に感じたのは、自分の身体がシートの上でぐったりと弛緩していく感覚と、遠くに聞こえる誰かの「大丈夫ですか!?」という声だったような気がする。


 そして、僕の意識は、ぷつりと、糸が切れるように途絶えた。深い、深い、何も存在しない暗闇の中へと、ただ、沈んでいった。

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