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第2話 鏡の中の見知らぬ私

 どれくらいの時間、意識という名の深い海の底に沈んでいたのだろうか。あらゆる感覚が遮断された、静かで、ただただ暗い場所。

 そこに不意に差し込んできたのは、微かな匂いだった。鼻腔をくすぐる、清潔ではあるが、どこか無機質で、生命の温もりを遠ざけるような、独特の薬品の香り。その匂いが、沈んでいた僕の意識を、ゆっくりと、しかし確実に現実へと引き揚げていく。


(……ん……ここは……?)


 重い瞼を、まるで水底から水面を目指すように、ゆっくりと押し開ける。最初に飛び込んできたのは、視界いっぱいに広がる、模様ひとつない真っ白な天井だった。継ぎ目のない、無限に続くかのような白。そこは、僕の記憶にあるどんな場所とも似ていなかった。


(……どこだろう……ここ……?)


 思考が、まだ濃い霧の中を彷徨っている。身体を起こそうとして、すぐに奇妙な感覚に襲われた。全身を覆う、経験したことのないような。それは疲労からくる重さとは違う、もっと根源的な、まるで粘土で作られた人形に無理やり魂を吹き込まれたかのような、ぎこちない倦怠感だ。


 だが同時に、奇妙なも感じた。まるで自分の体重が半分にでもなってしまったかのような、地に足のつかない浮遊感。記憶にある、それなりに鍛えていたはずの自分の身体とは似ても似つかない、頼りない軽やかさだ。


(あれ……? なんだか身体が……おかしいぞ……? 風邪でもひいたかな……いや、それにしては……なんか変だ……)


 混乱しながらも、ゆっくりと、本当にゆっくりと上半身を起こす。途端に、視界の高さが変わったことに気づき、息を呑んだ。

 低い。異常なほどに低い。まるで子供の視点から世界を見ているようだ。


(あれ……? こんなに低かったかな、僕の目線って……)


 自分の身体を見下ろす。薄い、淡いピンク色の、病院で着るような寝巻きを着ている。そして、その袖口から覗く手足は――驚くほどに細く、小さかった。

 まるで磨かれた象牙のように白い肌。力を込めようとしても、筋肉の感触がほとんどない、華奢な腕。指も、記憶の中にある自分のそれよりずっと細く、長い。関節も小さく、まるで作り物のように繊細だ。


(……違う……これは、僕の手じゃない……。足も……小さい……細い……)


 心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始める。ドクン、ドクン、と、まるで警鐘のように。


(ここはどこだ? 僕の身体はどうなった? 昨夜――いや、いつのことかはもう定かではないが――電車で倒れたはずだ。なら、ここは病院なのだろうか? だとしても、この身体はなんだ? 事故? 何か、取り返しのつかないことが起こったのか?)


 思考が空回りする中、必死に周囲を見渡す。白い壁、点滴スタンド、心電図モニターのような機械、そしてベッド脇のサイドテーブル。やはり病院の一室のようだ。サイドテーブルの上には、水の入ったコップと、小さな、銀色の縁取りの手鏡が置かれていた。


(鏡……)


 まるで何かに導かれるように、その手鏡へと手が伸びる。震える指先で、ひんやりとした金属の感触を確かめる。これから映し出されるであろうものへの、漠然とした恐怖を感じながらも、確かめずにはいられなかった。ゆっくりと、鏡を自分の顔へと向ける。


 そこに映っていたのは、僕ではなかった。


 全く、微塵も、見覚えのない少女の顔が、そこにあった。


 歳は、10代前半くらい――いや、もっと幼いかもしれない。

 色素の薄い、病的なほど白い肌。大きな二重の瞳は、今は驚愕に見開かれているが、本来はどこか憂いを帯びていそうな、少し翳りのある黒色をしている。通ってはいるが、主張しすぎない控えめな鼻筋。血の気がなく、少し乾いて見える薄い唇。輪郭は、まだ幼さを色濃く残す、柔らかな曲線を描いている。

 そして、肩を大きく越え、おそらく背中の半ばまで届くであろう、長く、艶のない黒髪。寝ていたせいで乱れ、数本が白い頬にかかっている。


(……え……?)


 声にならない声が漏れる。鏡の中の少女が、僕と同じように、呆然と口を半開きにしている。


(信じられない――これは何かの悪い冗談か? それとも、まだ僕は夢を見ているのか?)


 混乱と恐怖で僅かばかりの間、頭の中が真っ白になる。

 もう一度、鏡を見る。何度見ても、そこに映るのは僕ではない、見知らぬ少女の顔。その少女が、僕の意志通りに、眉をひそめ、唇を震わせている。その事実が、悪夢のリアリティを増幅させる。


 何か、声を出さなければ。確かめなければ。


「……あ……」


 掠れた、小さな声が、喉から絞り出された。だが、その声は――。


(……高い……!)


 自分のものとは思えないほど高く、か細い――完全に少女の声だった。


(この声が僕の声? ありえない……いったい、何が起きたんだ、僕の身体に!?)


 愕然として、手から力が抜け、鏡を取り落としそうになる。ガシャン、と小さな音がして、鏡はベッドの上に転がった。もう、それを見る勇気はなかった。この現実は、あまりにもグロテスクで、悪夢的すぎた。


(落ち着け……落ち着け、僕……。まずは、状況を把握しないと……。ここは病院で、僕は……僕は、この女の子の身体の中にいる……? そんな馬鹿な話があるか? でも、現に……)


 パニックになりそうな思考を、必死で抑え込もうとする。持ち前のマイペースさ、あるいは「なんとかなるさ」精神が、こんな極限状況でも無意識に働いているのかもしれない。

 いや、単に現実感がなさすぎて、まだ本当の意味で恐怖を感じられていないだけなのかもしれないが。


 (とにかく、情報を集めないと……。誰か……誰か、いないかな……?)


 頭を抱え、混乱の中で喘ぐように呼吸を繰り返す。自分が自分でないという感覚。借り物の身体に閉じ込められたような閉塞感。先の見えない不安。それらが、一気に押し寄せてくる。


 これからどうなるのか、全く分からない。ただ、とんでもなく異様な事態に巻き込まれてしまったことだけは、確かなようだった。

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