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第3話 白い部屋での決意

(とにかく、情報を集めないと……。誰か……誰か、いないかな……?)


 頭を抱え、混乱の中で喘ぐように呼吸を繰り返す。自分が自分でないという感覚。借り物の身体に閉じ込められたような閉塞感。先の見えない不安。それらが、一気に押し寄せてくる。


(ナースコールは……あった、ベッドの脇に。これを押せば、誰か来てくれるだろうか。そして、来てくれた人に、僕はなんて説明すればいい?)


 僕が逡巡している、まさにその時だった。


 静かに病室のドアが開き、1人の看護師さんが入ってきた。年齢は僕より少し上くらいだろうか、テキパキとした動きで点滴の確認などをしている。僕が目を開けていることに気づくと、彼女は一瞬、動きを止め、驚いたように目を見開いた。


「……! 遠野さん!? 意識が……!」


 慌てた様子で駆け寄り、僕の顔を覗き込む。


「遠野沙羅さん! 分かりますか!? 私の声が聞こえますか!?」


(遠野沙羅……。やっぱり、それがこの身体の持ち主の名前なんだな……)


 突然の大きな声と、知らない顔。僕は少し怯みながらも、小さく頷いた。


「すぐに先生を呼んできます! あと、ご両親にも連絡を……! そのまま、動かないでくださいね!」


 看護師さんはそう言い残すと、嵐のように病室を出ていった。後に残されたのは、再びの静寂と、さらに深まる僕の混乱だけだった。


 程なくして、先ほどの看護師さんと共に、白衣を着た医師、そしてもう1人の看護師さんが駆け込んできた。医師は僕の瞳孔を確認したり、簡単な質問をしたりしながら、手早くバイタルチェックを進めていく。


「気分はどうですか? どこか痛いところは?」

「……いえ、特に……。ただ、少し……だるい、です……」

「そうですか。意識が戻って本当に良かった。あなたはね、数週間もの間、ずっと眠っていたんですよ」

「……数週間……?」

「ええ。学校で……階段から落ちて、頭を強く打ってしまってね」


(頭を強く……もしかすると沙羅という少女は既に――)


 医師の断片的な説明と、僕自身の状況を繋ぎ合わせていく。突拍子もない結論だが、それ以外に考えられない。

 涼という魂が、器だけ残ってしまった沙羅という少女に入り込んだ。SF小説か何かのような、そんな非現実的な現象が、僕の身に起こってしまったのだ。


(そんなことって、本当にあるのか……? でも、現にこうして……)


 常識的に考えればありえない。だが、この身体の違和感、失われた沙羅としての記憶、そして僕――夏目涼の意識がここにあるという事実が、その結論を裏付けている。


 パニックになりそうな状況だが、あまりに現実感がなさすぎて、逆に冷静になっている。


(……だとしたら……問題は、これからどうするか、だ……。僕が夏目涼であること、この身体は借り物であることを、正直に話すべきだろうか?)


 いや、それはマズい。確実に頭がおかしいと思われるだろう。最悪の場合、精神病院行きか、あるいは珍しい症例として研究対象にでもされてしまうかもしれない。それは絶対に避けたい。面倒くさすぎる。


 それに、元の身体に戻れる保証はどこにもないのだ。もしかしたら、夏目涼の身体はもう……。考えたくはないが、その可能性もある。


(……だとしたら、僕が取るべき選択肢は一つしかない……のか……?)


 それは、『遠野沙羅』として生きていくこと。そして、この状況を乗り切るために、最も都合の良い言い訳――『記憶喪失』を演じることだ。

 幸い、沙羅としての記憶は本当に何もないのだから、演じるのはそれほど難しくないかもしれない。


(……嘘をつくのは気が進まないけど……仕方ない。これが一番、波風が立たない方法だろう……。うん、そうしよう。僕は記憶喪失の遠野沙羅だ)


 僕が内心でそんな決意を固めている間にも、脳波やCTなどの検査が手際よく進められていった。


 全ての検査が終わり、少し落ち着いた頃。病室のドアが再び開き、先ほどの遠野夫妻が、息を切らして駆け込んできた。連絡を受けて、飛んできたのだろう。彼らは、医師と僕の顔を交互に見ながら、固唾を飲んで言葉を待っている。


 医師は、夫妻に向き直り、静かに口を開いた。僕の演技の結果――そして、悲しい真実の一部を告げるために。


「お父さん、お母さん……落ち着いて聞いてください。……先ほどの検査の結果と、ご本人の状態から判断すると……やはり、頭部への強い衝撃による逆行性健忘……いわゆる、記憶喪失の状態だと思われます」


 その言葉は、宣告のように病室に響いた。


「記憶……喪失……?」


 母親が、震える声で繰り返す。


「はい。残念ながら、事故以前の記憶……お名前や、もちろんご家族のことも含めて、失われている可能性が高いです。先ほどもお話ししましたが、意識が戻ったこと自体は本当に奇跡的なのですが……」


 医師の説明が続く間、母親は、はらはらと大粒の涙を流し始め、やがてその場に泣き崩れた。


 「沙羅……私のことが分からないなんて……そんな……」


 母親の嗚咽が、痛々しく響く。父親は、呆然と立ち尽くし、言葉もなく、ただ固く唇を結んでいる。その背中が、絶望の重さに耐えているように見えた。


(……あ……)


 その二人の姿を見て、僕の胸は強く締め付けられた。わかっていたこととはいえ、彼らがこれほどまでに悲嘆にくれている姿を目の当たりにすると、自分がついている嘘――『記憶喪失』という嘘が、彼らを深く傷つけているという事実に、強烈な申し訳なさと罪悪感が襲ってくる。


(……ごめんなさい……僕のせいで……)


 その時、ふと、心の奥底に仕舞い込んでいたはずの、古い後悔が蘇ってきた。僕を育ててくれた、今はもういない両親のこと。

 結局、僕は彼らに、何一つまともな親孝行ができなかった。感謝の気持ちをちゃんと伝えられないまま、永遠の別れが来てしまった。その心残りは、割り切ったつもりでいても、ずっと胸のどこかに澱のように溜まっていたのだ。


 目の前で悲しむ、見ず知らずの男女。彼らは、僕を自分の娘だと信じ、その娘が記憶を失ったことに絶望している。


(……この人たちを、これ以上悲しませたくない……。僕に、何かできることがあるなら……)


 嘘をついていることへの罪悪感と、親孝行できなかった後悔。その二つの感情が、奇妙な形で結びついていく。


(……もしかしたら……これは、チャンス、なのかもしれない……? 僕ができなかった『親孝行』を、この人たちにしてあげる……そういう機会なのかもしれない……?)


 偽りの娘として、偽りの記憶喪失を演じながら。それでも、この人たちを大切にし、悲しませないように、できる限りのことをする。それは、歪んだ形かもしれないけれど、僕なりの償いであり、そして、過去の自分への、ささやかなリベンジになるのかもしれない。


(……よし、決めた)


 僕は、心の中で静かに、しかし固く誓った。


(僕は、今日から『遠野沙羅』として生きる。この人たちの娘として。記憶はなくても、これから新しい関係を築いていけばいい。大丈夫、きっと、なんとかなる――)


 根拠のない楽観論かもしれない。だが、そう決意すると、少しだけ心が軽くなった気がした。

 嘘をつくことへの後ろめたさが消えたわけではない。先の見えない不安がなくなったわけでもない。それでも、進むべき方向が、ほんの少しだけ見えたような気がしたのだ。


 僕は、涙にくれる母親と、呆然と立ち尽くす父親の姿を、もう一度しっかりと見つめた。そして、これからの入院生活――遠野沙羅としての、最初のステップ――に静かに意識を向け始めた。

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