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第4話 借り物の身体

 記憶喪失の少女、『遠野沙羅』。それが、僕がこの世界で与えられた、新しい名前と役割らしかった。


 昨日、あの衝撃的な診断を下されてから一夜が明けた。眠れたような、眠れなかったような、曖昧な意識のまま朝を迎える。窓の外からは、まだ強い日差しが差し込み、病室の白い壁を照らしている。変わらない病院の風景。しかし、その風景を見ている僕自身は、昨日までとは決定的に変わってしまっていた。


(……遠野沙羅、か……。僕は、今日からこの子として生きていく……。そう、決めたんだ……。大丈夫、きっと、なんとかなる……はずだ……)


 自分に言い聞かせるように、心の中で反芻する。決意はした。したけれど、この身体に宿る強烈な違和感と、先の見えない未来への不安が、完全に消え去ったわけではない。むしろ、現実を認識したことで、その輪郭はよりはっきりとしたものになっていた。


 やがて、朝の回診の時間になり、看護師さんがやってきた。


「おはようございます、沙羅さん。気分はどうですか?」


 昨日とは違う、別の看護師さんだ。彼女はにこやかに話しかけてくるが、その目の奥には、やはりどこか『記憶喪失の子』を見るような、慎重な色が見て取れた。


「……おはようございます。えっと……大丈夫、です」


 できるだけ自然に返事をする。自分の声の高さには、まだどうしても慣れない。


「そう、よかった。熱も平熱ね。朝ごはん、食べられそう?」

「……はい、多分……」


 演技は、始まったばかりだ。ぎこちない笑顔を作りながら、僕は内心で静かに息をついた。


 運ばれてきた朝食は、お粥と、焼き魚のほぐしたもの、ほうれん草のおひたし、そして味噌汁だった。いかにも病院食、といった風情だ。トレーを受け取り、ベッドの上で身体を起こす。


(……さて、と)


 まずは一口、お粥をスプーンで掬って口に運ぶ。……味が、薄い。いや、単に薄いというだけではない。何か、以前感じていた味覚と、根本的に違うような気がするのだ。

 全体的に、味がぼんやりとしているというか、妙に塩味だけが際立って感じられるというか……。


(……味覚まで変わってしまったのかな……? それとも、単にこの病院食がこういう味なだけ……?)


 焼き魚も、ほうれん草も、味噌汁も、どこかピントのずれた味に感じられる。そして何より、量が少ないように見えるのに、食べ始めてみると、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。胃が小さくなったのだろうか?


 (…前の僕なら、これくらいは軽く食べられたはずだけど……。ああ、昨日の夜に夢想したラーメンとか、しばらくお預けかな……)


 以前は好きだったはずの、こってりしたラーメンや、仕事終わりのビール。そういうものを思い出しても、今は不思議と、あまり強い欲求を感じない。むしろ、トレーの隅に添えられたデザートの小さなゼリーの方が、妙に美味しそうに見えるのはどういうわけだろう。


(…なんだか、嗜好まで変わっている気がする……。困ったものだな……)


 箸を持つ手も、まだおぼつかない。この細く小さな指では、上手く力が入らないのだ。結局、半分も食べられないまま、僕は食事を終えるしかなかった。


 食事の後、点滴スタンドを押しながら、トイレへ向かう。病室からトイレまでの短い距離ですら、この身体には負担が大きい。歩幅は小さく、すぐに息が切れる。数週間寝たきりだったのだから当然かもしれないが、それにしても、この体力のなさは想像以上だ。


 トイレの個室に入り、便座に腰を下ろす。その瞬間にも、違和感。骨盤の形が違うせいだろうか、便座に座った時の体重のかかり具合が以前と全く違う。なんだか心許ないというか、安定しない感じがする。

 そして、用を足す、という行為そのものに伴う身体の感覚――尿意の感じ方や、実際に排泄される時の身体の内部の動きのようなものが、以前とは微妙に異なっている気がする。言葉で説明するのは難しいけれど、とにかく『自分の身体ではない』という違和感がつきまとう。

 排泄後の処理なども含め、以前よりずっと気を使う必要があるように感じて、それもまた違和感を伴う。


(……はぁ……こういうことの繰り返しなのかな……。慣れるまで大変そうだ……)


 夜、眠りにつくのも一苦労だった。ベッドが硬いとか、そういう問題ではない。むしろ、この身体が軽すぎるのだ。寝返りを打つたびに、まるで羽根布団にでもなったかのように、ふわふわと身体が浮つくような感覚。それが妙に落ち着かず、なかなか寝付けない。


 それに、やけに寒がりになった気がする。特に手足の先が、シーツの中でいつまでも冷たいままだ。看護師さんにブランケットをもらって、ようやく少し眠気が訪れてきたが、今度は悪夢にうなされた。元の自分の姿で、あの満員電車の中にいる夢。そして、意識が遠のいていく、あの瞬間の感覚。


 そんな風に、入院生活は、些細な違和感と困難の連続だった。


 匂いにも、以前より敏感になった気がする。消毒液の匂いはもちろん、他の患者さんの食事の匂いや、見舞客の香水の匂いが、やけに強く感じられて、時々少し気分が悪くなった。

 自分の肌に触れた時の感触も、以前とは違う。きめは細かいけれど、どこか頼りなく薄い皮膚。少し乾燥しやすいのかもしれない。


 そして、リハビリが始まった。担当になったのは、僕――いや、涼より少し年下くらいの、快活な女性の理学療法士PTさんだった。


「遠野さん、今日から少しずつ身体を動かしていきましょうね。焦らなくて大丈夫ですから」


 彼女は笑顔で言うが、僕にとっては、そのリハビリこそが、この身体の現実を突きつけられる時間だった。


 まずは、ベッドの上での簡単な手足の曲げ伸ばしから。これくらいなら、と思ったが、数回繰り返しただけですぐに腕や足がだるくなる。


「はい、じゃあ次は、ゆっくり歩いてみましょうか」


 点滴スタンドに掴まりながら、PTさんに支えられて、病室の廊下を歩く。ほんの10メートルほどの距離。だが、それがとてつもなく遠く感じられた。足がもつれそうになり、息はすぐに上がる。視界が低いせいで、廊下の壁や他の患者さんたちが、やけに大きく迫ってくるように見えて少し怖い。


「……はぁ……はぁ……もう、少し、休憩しても……?」

「あらあら、もう疲れちゃいましたか? でも、数週間寝てたんですから、仕方ないですよ。少しずつ、ね」


 PTさんは優しく励ましてくれるが、僕の内心はそれどころではなかった。


 (前の身体なら、これくらいの距離、何ともなかったのに……。ずいぶん非力なんだな、この身体は……)


 数日後、少し体力がついてきたところで、軽い筋力トレーニングもメニューに加わった。壁を使った腕立て伏せと腹筋だ。

 だが、腕はプルプルと震え、1回もまともにできない。腹筋も、頭を持ち上げるのがやっとだ。


「遠野さん、筋力もだいぶ落ちちゃってますねー。でも、続ければ必ず戻りますから!」


(戻る、と言われても……元々、この身体にどれだけの筋力があったんだろう……。あまり期待はできないかもしれないな……)


 一方で、準備運動の時に気づいたように、柔軟性だけは驚くほど高かった。ストレッチをすると、男だった頃には考えられないような角度まで、いとも簡単に身体が曲がる。


「わー、沙羅さん、身体柔らかいですね! これはすごい!」


 PTさんに褒められても、あまり嬉しくはない。むしろ、そのグニャグニャとした頼りない感覚が、自分の身体ではないという事実を、改めて突きつけてくるようで、少し落ち着かない気分だった。


 リハビリの時間は、僕にとって、この借り物の身体の不自由さと、失われた元の身体への途方もない喪失感を、繰り返し確認させられるだけの、複雑な時間だった。記憶喪失のフリをしている手前、以前の自分と比較して嘆くこともできない。

 ただ、PTさんの励ましに、曖昧な笑顔で頷きながら、内心でため息をつき、そして、どうしようもない現実を静かに受け止めるだけだった。


(……本当に、これからこの身体でやっていけるのかな……)


 窓の外では、晩夏の空が広がっている。あそこには、僕の知らない日常が流れている。僕は、いつになったら、あの中に戻れるのだろうか。そして、戻ったとして、この身体で、一体何ができるというのだろうか。


 そんな漠然とした不安を抱え続けるのだった。

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