借り物の身体で過ごす入院生活は、身体的な不自由さとの戦いであると同時に、絶え間ない精神的な綱渡りでもあった。
身体的な困難には、少しずつではあるが、慣れていくしかなかった。食事が以前のように摂れないことも、リハビリで思うように身体が動かないことも、夜中に悪夢で飛び起きることも――それらは全て、この『遠野沙羅』の身体で生きていく上での、いわば初期設定のようなものなのだと、半ば無理やり自分に言い聞かせる。大丈夫、なんとかなる。そう心の中で唱えながら。
しかし、精神的な負担は、慣れるどころか日増しに重くなっていくようだった。特に、周囲の人々との関わりの中で、『記憶喪失の沙羅』を演じ続けることは、思った以上に神経をすり減らす作業だった。
特に、罪悪感が最も強く胸を刺すのは遠野夫妻――沙羅の両親とされる、あの二人と面会している時だった。
彼らは、仕事の合間を縫ってか、ほとんど毎日、病室を訪れた。その手には、いつも沙羅が好きだったという本や、栄養のありそうな手作りの差し入れ、あるいは、病室を少しでも明るくしようという意図なのか、小さな花などが携えられていた。
「沙羅、今日はどう? 少しは食べられるようになったかい?」
「見て、沙羅。あなたの好きだった作家さんの新しい本が出たのよ。退院したら、また一緒に本屋さんに行きましょうね」
彼らは、僕が記憶を失っていることを受け入れながらも、懸命に『以前の沙羅』との繋がりを取り戻そうとしているようだった。
そのひたむきな愛情は、疑いようもなく本物だ。だからこそ、僕は苦しかった。彼らの優しさに触れるたびに、自分が偽物であるという事実が、重くのしかかってくる。
それでも僕は、彼らの前ではできる限り『沙羅』であろうと努めた。決めたのだ、この人たちに「親孝行」をすると。
だから、食欲がなくても、出された差し入れは「美味しいです」と笑顔で食べようと努力した。
彼らが話す、僕の知らない沙羅の子どもの頃の思い出話にも、興味があるフリをして耳を傾け、「そうだったんですね」と相槌を打った。
(……これで、いいんだろうか……。僕のやっていることは、本当に『親孝行』なんだろうか……。それとも、ただ彼らを騙し、傷つけているだけなんじゃ……)
会話が弾めば弾むほど、彼らが笑顔を見せてくれればくれるほど、僕の心の中の罪悪感は雪だるま式に膨らんでいった。本当のことを話せたら、どれだけ楽だろうか。だが、それはできない。真実を告げることは、おそらく、彼らを今以上に深く傷つけ、絶望させるだけだろうから。僕にできるのは、この嘘を、できる限り完璧に演じ続けることだけだった。
面会時間が終わり、1人になると、病室には再び静寂が訪れる。そして、その静寂の中で、僕はしばしば、どうしようもない孤独感に襲われた。
この身体のことも、記憶のことも、僕が本当は夏目涼であるということも――誰にも話せない。理解してくれる人は、この世界のどこにもいない。元の世界にいた友人や同僚たちは、僕がこんな奇妙な運命を辿っていることなど、知る由もないだろう。彼らは今頃、いつも通りの日常を送っているはずだ。
(……みんな、どうしてるかな……。山下くんは、ちゃんと仕事してるだろうか……。部長には、また面倒なこと押し付けられてないかな……)
ふと、元の世界のことを思い出す。会社のデスク、行きつけの居酒屋、自分の部屋のベッド――それらが、今はもう、手の届かない遠い場所にある。
スマホがあれば、ニュースを見たり、SNSを覗いたりして、少しは元の世界との繋がりを感じられるのかもしれないが、僕の手元には何もない。仮にあったとしても、それは遠野沙羅のものだ。
僕が夏目涼として使っていたアカウントにアクセスすることなどできない。僕は、社会から、そして過去の自分から、完全に切り離されてしまったのだ。
(……これから、どうなるんだろうな……。本当に、元の身体には戻れないんだろうか……)
未来への不安も、常に心のどこかに暗い影を落としていた。この少女の身体で、僕はこれからどうやって生きていくのだろう? 学校? 勉強は……まあ、なんとかなるかもしれないが、あの人間関係は? 卒業したら? 就職は? 結婚は……? 考えれば考えるほど、目の前が真っ暗になるような気がした。
そんな不安と孤独に苛まれる日々が続いていたある日、主治医から退院の話が具体的に持ち上がった。リハビリも進み、体力も日常生活を送るには問題ないレベルまで回復した、とのことだった。
その知らせを聞いた遠野夫妻は、手放しで喜んだ。母親は涙を流し、父親も安堵の表情を浮かべて、僕の手を固く握りしめた。
「よかった、沙羅……! やっとお家に帰れるわね!」
僕も、ようやくこの閉鎖的な病院生活から解放されることへの、わずかな安堵を感じてはいた。だが、それ以上に大きかったのは、外の世界へ――特に、学校という場所へ戻ることへの、強い不安と恐怖だった。
病院という、ある意味で守られた環境。記憶喪失の少女として、ある程度は許容され、見守られてきた場所。そこから一歩外へ出れば、僕は否応なく、遠野沙羅としての日常に直面しなければならないのだ。
(……退院、か……。いよいよ、始まるんだな……遠野沙羅としての、本当の生活が……)
窓の外に広がる、どこまでも続く青い空。それは、自由の象徴であると同時に、僕にとっては、これから立ち向かわなければならない、広大で、先の見えない現実そのもののようにも見えた。
僕は、両親の喜ぶ顔を見ながら、複雑な思いを胸に、ただ静かに頷いた。覚悟を、決めなければならない時が、すぐそこまで迫っているのを感じながら。