数週間ぶりに吸う外の空気は、肺に少しだけ沁みるような、それでいて確かな解放感をもたらした。
病院という白い、清潔だがどこか無機質な檻からようやく出られた安堵感。しかし、それと同時に、これから始まるであろう未知の生活への、漠然とした不安感も胸の内で静かに広がっていた。その2つが、まるでメトロノームのように、僕の心の中で交互に振幅を繰り返している。
遠野夫妻は、終始僕の手を引くように、あるいは支えるようにして、病院の出口へと導いてくれた。その、少し過剰とも思える優しさが、今はただひたすらに申し訳なく、そして少しだけ、重たかった。僕が彼らの本当の娘ではないと知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
駐車場に停められていたミニクーパーに乗り込む。後部座席に促され、シートに身体を沈めた。父親が運転席に、母親が助手席に座る。車内には、芳香剤の甘い匂いと、彼ら自身の生活の匂いが微かに混じり合っていた。走り出した車内では、両親は昔の話にはほとんど触れず、当たり障りのない天気の話や、これからの食事のことなどを静かに話していた。その気遣いが、かえって少しぎこちない空気を作り出しているように感じられた。
(……気、遣わせてしまっているな……)
申し訳ない気持ちで、窓の外に視線を向ける。どこにでもあるような住宅街、商店街、公園――そのどれもが、僕にとっては初めて見る景色だ。
やがて車は、閑静な住宅街の一角にある、比較的新しい、小ぎれいな2階建ての一軒家の前に停まった。庭には、色とりどりの花が植えられた小さな花壇がある。ここが、遠野沙羅の家――そして、今日から僕が住むことになる場所らしい。
車を降り、玄関へと向かう。表札には、確かに『遠野』と書かれていた。父親が鍵を開け、ドアを開ける。
「さあ、沙羅、お帰りなさい」
母親が、優しい笑顔で僕を招き入れる。その言葉に、僕は一瞬、反応に困った。ここは僕の家ではない。「お邪魔します」と言いそうになるのをぐっと堪える。
「……た、ただいま……?」
疑問形のような挨拶をするのが精一杯だった。それでも、母親は嬉しそうに目を細め、「ええ、お帰りなさい」と繰り返した。
家の中は、外観と同じように、綺麗に整頓されていた。明るいリビング、機能的なキッチン。そこかしこに、家族の写真や、子供の成長を記録したようなものが飾られている。温かく、穏やかな家庭の匂い。
僕が経験することのなかった、普通の家族の風景がそこにはあった。その温かさが、偽物である僕にとっては、かえって居心地の悪さを感じさせた。
「あなたの部屋、2階よ。荷物は後でお父さんが運んでくれるから、先に上がって少し休んだら?」
母親に促され、僕は見慣れない階段を上った。軋む音はしない、手入れの行き届いた階段だ。2階の廊下の突き当たり。白木のドアに、可愛らしい字体で『SARA』と書かれたプレートがかかっている。
(……ここが、沙羅の部屋、か……)
深呼吸をして、ドアノブに手をかける。カチャリ、と軽い音を立ててドアを開いた。途端に、ふわりと甘いような、女の子特有の匂いが鼻腔をくすぐる。そして、目に飛び込んできたのは――やはり、ピンクと白を基調とした、ファンシーな空間だった。
壁紙は淡い花柄、窓には白いレースのカーテン。ベッドカバーも枕も、フリルのついた可愛らしいデザイン。机の上には、キラキラした文房具やキャラクターグッズ。壁には、小さなぬいぐるみや小物がいくつか飾られている。その徹底された「女の子らしさ」に、僕は内心でため息をついた。
(うわ……やっぱり、すごい部屋だな……。僕の好みとは真逆だ……。これは、落ち着かない……)
部屋の中へ足を踏み入れる。ベッドに腰を下ろすが、柔らかすぎるスプリングが身体に合わない。机も椅子も、何もかもが僕には少し小さく感じられる。この空間が、これから僕の日常になる。その事実に、軽い眩暈を覚えた。
部屋の中を見渡す。クローゼット、勉強机――そして、部屋の隅に置かれた、白い小さな本棚。そこに立てかけられた、1冊のスケッチブック。
その一角だけが、部屋全体のファンシーな雰囲気から、少しだけ浮いているように見えた。
(……あれは……?)
僕は、吸い寄せられるようにその本棚へと近づいた。並んでいる本の背表紙を見て、少し驚く。そこにあったのは、僕も読んだことのある海外文学の翻訳本や、現代詩の詩集、そして分厚い美術の画集などだった。
(……こんな本を読んでいたのか、この子は……。部屋の雰囲気と、全然違うじゃないか……)
隣に立てかけられていたスケッチブックを手に取る。シンプルな表紙を開くと、そこには、息を呑むような世界が広がっていた。鉛筆だけで描かれた、緻密で、繊細な線。寂しげな街角の風景、枯れ木に止まる一羽の鳥、あるいは、この世のものとは思えないような、幻想的で、どこか物悲しい雰囲気を纏った生き物の姿。
どの絵も、驚くほど高い画力で描かれており、そして何より、描いた人間の内面が、痛いほど伝わってくるような、強い表現力を持っていた。
(すごいな……。才能があったんだな……)
この絵を描いたのは、間違いなく、この身体の本来の持ち主、遠野沙羅なのだろう。
ファンシーな部屋は、もしかしたら周りに合わせて作られた仮の姿で、本当の彼女は、もっとずっと繊細で、複雑で、そして、深い孤独を抱えた少女だったのかもしれない。
(この子は、本当はどんな子だったんだろう……。周りに合わせていたのかもしれないな……。本当は、もっと繊細で、複雑な心を持っていたんじゃ……)
スケッチブックを閉じ、そっと本棚に戻す。この部屋の、そしてこの身体の持ち主への見方が、少しだけ変わった気がした。
部屋で1人、そんなことを考えていると、階下から母親の声がした。
「沙羅ー、少し降りてこられる? お父さんと、少し話が……」
改まったような響きに、僕は少し緊張しながら、リビングへと向かった。
リビングのソファには、父親と母親が並んで座っていた。僕が向かいの椅子に腰掛けると、2人は少し神妙な面持ちで、ゆっくりと口を開いた。
「沙羅……。退院、本当におめでとう。……それでね、お父さんとお母さん、沙羅が入院している間、ずっと考えていたの」
母親が、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「お医者様から、記憶のこと……聞いたきね――正直、最初は……すごくショックだった。どうして沙羅が、って……。でもね、二人で話して、決めたの」
父親が、母親の言葉を引き継ぐように、静かに続けた。
「沙羅。……記憶がなくても、沙羅は沙羅だ。私たちの、たった一人の大切な娘であることには、変わりない。だから……無理に昔のことを思い出そうとしなくていいんだよ。焦らなくていい。これから、新しい沙羅として……お前が、お前らしく生きてくれれば、私たちはそれで十分幸せなんだ」
その、言葉。嘘偽りのない、温かい響き。僕に向けられているわけではない、本当の娘に向けられた愛情だと分かっていながらも、その優しさが、僕の心の、固く閉ざしていたはずの部分に、じわりと染み込んできた。
記憶がない僕を、それでも受け入れてくれるというのか。この、中身が全くの別人である僕を、「新しい沙羅」として、認めてくれるというのか。
入院中の孤独感、嘘をついている罪悪感、先の見えない不安……そして、心の奥底にあった、亡き両親への満たされなかった想い。それらが一気に込み上げてきて、僕の視界は急速に滲んでいった。
「……っ……」
自分でも予期せぬ涙が、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。堪えようとしても、堪えきれない。ぽろぽろと、涙が頬を伝い落ちた。
「あら……沙羅……?」
母親が驚いたように僕の顔を覗き込む。僕は、しゃくり上げそうになるのを必死で堪えながら、ただ涙を流し続けた。それは、悲しみの涙なのか、安堵の涙なのか、あるいは罪悪感の涙なのか、自分でもよく分からなかった。ただ、温かい何かが、凍てついていた心をゆっくりと溶かしていくような感覚があった。
「……辛かったわね……。もう大丈夫よ、沙羅。お母さんもお父さんも、ずっとそばにいるから……」
母親は、そう言って、僕の背中を優しくさすってくれた。父親も、何も言わずに、ただ静かにそばにいてくれた。彼らの温もりが、偽物である僕の心にも、確かに伝わってくる気がした。