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第7話 選んだ道と現実

 予期せぬ涙の後、リビングには少しだけ、気まずいような、それでいて温かいような、不思議な沈黙が流れた。

 僕の嗚咽がようやく収まるのを、遠野夫妻は静かに待っていてくれた。その沈黙が、かえって彼らの深い愛情と受容の気持ちを表しているようで、僕はまた少し、胸が熱くなるのを感じていた。

 嘘をついていることへの罪悪感は消えない。けれど、この温かさは、本物だと思いたかった。


 しばらくして、父親が、少し咳払いをしてから、改まった口調で切り出した。おそらく、僕が落ち着くのを待ってくれていたのだろう。


「それでな、沙羅。……今後のことなんだが……特に、学校のことだ」


(学校……)


 その言葉に、先ほどまでの感傷的な気分は急速に冷却され、現実に引き戻される。そうだ、考えなければならない。僕が「遠野沙羅」として生きていく上で、避けては通れない場所。


「もちろん、焦る必要は全くないんだ。記憶がない状態で、いきなり学校に戻るのは大きな負担だろう。沙羅さえよければ、しばらく家でゆっくり静養するというのでも構わないし……環境を変えて、転校するという選択肢もある。お父さんもお母さんも、沙羅の気持ちを一番に尊重したいと思っているんだ」


 転校――その言葉は、正直、魅力的に響いた。

 誰も僕のことを知らない場所で、新しいスタートを切る。それは、記憶喪失を演じる上で、あるいは、これから起こるかもしれない面倒事を避ける上で、最も合理的な選択肢かもしれない。


 だが、僕は、目の前で心配そうにこちらを見つめる2人を見た。僕の涙を受け止め、『新しい沙羅』として生きてほしいと言ってくれた、この人たち。彼らを安心させたい。僕ができなかった『親孝行』をしたい。その気持ちは、嘘偽りない本心だった。


 ここで僕が逃げたら、彼らはきっと、もっと心配するだろう。


(……行ってみるか。どんな場所か知らないけれど……)


 記憶がないというのは、ある意味でゼロからのスタートだ。失ったものは大きいが、しがらみがないとも言える。


(僕自身の知識も経験も活かせるところもあるだろうし……。いや、楽観的すぎるか? でも、やってみなければ分からない)


 僕は、まだ残る不安を心の奥に押し込めて、2人に向かって、精一杯の、しかし今度ははっきりとした意志を込めて言った。


「……ううん、大丈夫。……前の学校のこと、何も覚えてないけど……せっかくだから、今の学校に、行ってみる。どんなところか、知りたいし……。それに、お父さんや、お母さんに、心配かけたくないから」


 自らの意志で、そう告げた。逃げるのではなく、向き合うことを選んだのだ。


 その言葉を聞いた瞬間、両親の顔がぱあっと明るくなった。


「本当!? 沙羅……! 無理はしなくていいのよ!?」


 母親が、喜びと心配が入り混じった声で言う。


「そうか、そうか……! 分かった。でも、本当に無理だけはするなよ。何かあったら、いつでも言うんだぞ」


 父親も、心から安堵した様子で、力強く頷いた。その純粋な喜びように、僕の胸はまた少し痛んだが、同時に、これで良かったのだという小さな満足感もあった。


 こうして、僕の学校復帰は決まった。復帰日は、来週からということになった。それまでの数日間、僕はこの家で、本格的な日常生活を送ることになる。

 そしてそれは、僕にとって、未知の身体との本格的な格闘の始まりでもあった。



 まず、入浴。

 病院とは違い、ここは普通の家庭の風呂場だ。湯船には、家族が入った後のお湯が張られていることもある。そのことに、妙な気まずさを覚えた。

 湯加減も、涼だった頃の好みより少しぬるい気がする。湯船に浸かると、身体が軽いためか、妙にふわふわと浮くような感覚がある。落ち着かない。


 そして、やはり最大の難関はケアだ。洗面台には、病院よりもさらに多くの種類のボトルが並んでいる。化粧水、乳液、美容液、クリーム……。


(……女の人ってこんなに色々塗るのか!? 何が何だかさっぱりだ……)


 なんとなく母親に聞くのも気が引ける。

 結局、またスマホでこっそり検索する羽目になった。「中学生 スキンケア 順番」――出てくる情報の多さに眩暈がする。とりあえず、推奨されているらしい最低限のステップ――化粧水と乳液だけを、見よう見まねで肌につける。

 この身体の肌は、きめは細かいが、妙に乾燥しやすい気がする。これも男女差なのだろうか。


 髪の毛は、もはや戦いだ。病院のドライヤーよりはマシなものを使っても、この長く量の多い黒髪を完全に乾かすには、途方もない時間と労力がかかる。

 腕は疲れ、ドライヤーの熱で汗ばむ。シャンプーやコンディショナーに加え、トリートメントなるものまである。どれを使えば、このゴワゴワしたように感じる髪がマシになるのか。


(……もう、いっそ切ってしまいたい……。いや、でもそもそも女の人の髪型の種類とかもよくわからないし……はぁ……)


 服装も問題だった。クローゼットを開けると、そこには僕の趣味とはかけ離れた服ばかりが並んでいる。淡いパステルカラー、フリルやレースのついたブラウス、チェック柄のミニスカート。


(……これを着て、外に出ろと……? 無理だ……罰ゲームか何かにしか見えない……)


 Tシャツとジーンズのような、もっと普通の服はないのかと探してみるが、見当たらない。これが、この年代の女の子の普通なのだろうか。

 それとも、沙羅自身の好み、あるいは母親の好みなのか。明日、何を着て過ごせばいいのか、本気で頭を悩ませた。


 下着もそうだ。沙羅のこの身体は小柄で成長が遅いため、クローゼットにあったブラトップで済ませているが、もし成長したら――かつて付き合っていたガールフレンドのような華美な下着を身につけなければならないのか。そんな未来のことがいちいち気になる。


 他にも、生理用品のパッケージを見つけた時は、見てはいけないものを見てしまったような気まずさと、いずれ自分もこれを使うことになるのかもしれないという漠然とした恐怖を感じた。


 それから爪が少し伸びているのに気づく。切らなければ。ムダ毛は……まだ気にするほどではないか。

 部屋でくつろごうにも、床に直接座るとお尻が痛いし、小さな椅子は落ち着かない。


 日常の、本当に些細なこと1つ1つに、男女の身体の違い、生活習慣の違いが立ちはだかる。その度に、戸惑い、苛立ち、そして、自分が置かれた状況の異常さを再認識させられる。


(……慣れる日が来るんだろうか、こんな生活に……)


 それでも、僕は遠野沙羅として生きていくと決めたのだ。両親を安心させるために。親孝行をするために。

 そして、もしかしたら、この奇妙な2度目の人生で、何かを見つけられるかもしれないという、ほんのわずかな期待のために。


 窓の外は、すっかり夜の帳が下りている。僕は、手入れの仕方がよく分からない長い髪を弄びながら、来週から始まる学校生活のことを考え、深く、静かに息をついた。不安と、少しばかりの覚悟を胸に抱いて。

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