9月の朝だというのに、やけに重く湿った空気が部屋に満ちている気がした。窓の外からは、遠慮がちに陽光が差し込んでいるが、僕の気分は鉛色の空模様そのものだった。
目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めてしまったのは、おそらく、今日という日が来てしまったことへの無意識の抵抗なのだろう。学校へ行かなければならない。記憶喪失の少女、遠野沙羅として。
(……ついに、この日が来てしまったか……。本当に、行くしかないんだな……)
ベッドの上でしばらく天井を見つめ、動けずにいた。身体が、まるで起き上がることを拒否しているかのように重い。
だが、時間は待ってくれない。階下からは、遠野夫妻が朝食の準備を始めているらしい物音が微かに聞こえてくる。彼らを心配させるわけにはいかない。僕は、深く、長い溜息をひとつついて、ゆっくりと身体を起こした。
そして、向かうのはクローゼット。その扉を開けることすら、今はひどく億劫に感じられた。扉の向こうには、僕が今日、身に纏わなければならない
ハンガーに掛けられた、真新しいようにも見える制服。
9月なので合服期間なのだろう、白い長袖のブラウスに、紺地に緑のチェック柄が入ったプリーツスカート。そして、同色のブレザーと、エンジ色のリボン。それが、この学校の女子生徒の標準装備らしい。
(……これが、僕の……いや、沙羅の制服か……)
改めてそれを眺めると、言いようのない違和感がこみ上げてくる。
男として生きてきた僕にとって、それはあまりにも異質で、場違いな代物だった。
(…これを、僕が着るのか……。本気で……?)
それでも、着ないという選択肢はない。僕は、覚悟を決めて、まずブラウスを手に取った。さらりとした、少し硬めの生地。袖を通すと、肩のあたりが妙に窮屈に感じる。華奢な少女の身体に合わせて作られているのだろう、僕の記憶にあるシャツの感覚とは全く違う。
小さな白いボタンを、上から順に留めていく。指先が不器用で、思うようにいかない。たかがボタンを留めるだけの行為に、これほど手間取るとは思わなかった。
(……めんどくさいな、これ……)
ようやく全てのボタンを留め終え、次に手に取ったのは、スカートだった。これが、最大の難関だ。手に取ると、想像していたよりも生地は厚く、しっかりとしている。
だが、問題はその形状と丈だ。ウエスト部分のホックを留め、ファスナーを上げる。腰から下が、ひらりとした布で覆われる。その感覚は、僕が生きてきた中で一度も経験したことのない、あまりにも奇妙で、落ち着かないものだった。
(……スースーする……。ちょっと頼りなさすぎるかも……)
裾は、膝が見えるか見えないかくらいの、中途半端な丈。少し身体を動かすだけで、プリーツが揺れ、太もものあたりに布地がまとわりつく。
歩いたり、座ったりする際に、いちいち気を遣わなければならないのだろう。想像しただけで少し気が滅入る。
次に、エンジ色のリボン。これもまた、どうやって結ぶのが正解なのか分からない。とりあえず、見よう見まねで首元で形を作ってみるが、なんだか歪んでいる気がする。
鏡で確認する気にもなれない。首元に感じる、リボンのわずかな圧迫感も気になって仕方がない。
最後に、紺色のブレザーを羽織る。これもまた、肩幅が狭く、腕周りが細い。全体的に窮屈で、動きにくい。ポケットに手を入れる癖があったが、このブレザーのポケットは浅く、小さい。
(……これが、女子中学生の制服……。機能性とか、快適さとか、そういうものは二の次なのかな……?)
ようやく一通り着替え終え、僕は、部屋に置かれた姿見の前に立った。そこに映っていたのは、やはり、僕ではない誰かだった。
白いブラウスに、チェックのスカート。紺色のブレザー。首元には不格好なリボン。そして、肩まで伸びた艶のない黒髪と、血色の悪い白い肌を持つ、華奢な少女。それが、僕――遠野沙羅の姿だった。
似合っているのか、いないのか――ただ、この姿が自分自身であるとは、到底思えなかった。鏡の中の少女は、まるで借り物の衣装を着せられた、表情の乏しい人形のように見えた。
(……これが僕――本当に女子中学生なんてやれるのか……。まぁ、やれるやれないじゃなくて、やるしかないのか……)
僕は、鏡の中の少女から目を逸らし、深く息を吐いた。これから始まる長い一日の、最初の、そして最大の関門を、なんとか乗り越えた。だが、本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。