家のドアを静かに閉め、1人になる。ふぅ、と深く息をつくと、9月の少しだけ涼しさを含んだ朝の空気が肺を満たした。
目の前には、見慣れない住宅街の風景が広がっている。ここから、学校まで歩いていかなければならない。
(……よし、行くか)
それは、決意というよりは、諦めに近い感情かもしれない。それでも、僕は、重いスクールバッグを肩にかけ直し、学校へと続く道を、一歩、踏み出した。
歩き始めてすぐに、様々な違和感が僕を襲う。
まず、視界が低い。周囲の家々の塀や生垣が、やけに高く感じられる。すれ違う自転車が、なんだか巨大な乗り物のように見える。
そして、このスカートだ。歩くたびに裾がひらひらと揺れ、太ももに纏わりつく。風が吹けば、めくれ上がりそうで落ち着かない。
(歩きにくい……。それに、なんか、無防備すぎるでしょ、この格好……)
自然と歩幅は小さくなり、動きもぎこちなくなる。周囲に他の生徒たちの姿が増えてくると、さらに自意識が鎌首をもたげた。
(僕の歩き方、変じゃないだろうか……? がに股になってないか……? 制服の着こなしは? リボン、曲がってないか? 髪、やっぱりボサボサだよな……)
頭の中で、チェックリストが延々と繰り返される。他の生徒たちは、僕のことなど気にも留めていないのかもしれない。だが、僕には、全ての視線が自分に注がれているような気がしてならず、できるだけ俯き加減に、速足で歩いた。
ようやく、目的の中学校の校門が見えてきた。レンガ造りの、立派な門構え。その向こうには、僕の知らない世界が広がっている。校門をくぐり、昇降口へ。ざわざわとした生徒たちの喧騒。
上履きに履き替えながら、周囲の様子を窺う。僕のことをヒソヒソと話しているような気がするが、確証はない。
(考えすぎ……さすがにちょっと自意識過剰すぎる……)
とにかく、まずは職員室だ。担任の先生に挨拶をしなければならない。事前に場所は聞いていた。重い足取りで廊下を進み、職員室のドアの前に立つ。
軽くノックをして、「失礼します。2年B組の遠野です」と、まだ慣れない、自分のものとは思えない声で告げた。
中から「どうぞ」という声が聞こえ、ドアを開ける。いくつかのデスクが並ぶ、ごく普通の職員室。僕の声に気づいた、人の良さそうな、少し疲れた表情の中年男性教師が立ち上がった。彼が担任の佐藤先生らしい。
「おお、遠野か。よく来たな。体調はどうだ?」
「……はい、大丈夫、です」
「そうか。まあ、無理はするなよ。お母さんからも話は聞いているから。記憶のこととか、色々大変だろうけど、焦らなくていいからな」
先生は、心配そうに僕の顔を覗き込む。その視線には、同情の色が濃く浮かんでいた。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
僕は、ぎこちなく頭を下げた。
「よし、じゃあ、教室へ行こうか。HRの時間も近いしな。クラスのみんなには、先生から少し説明しておくから、あまり気負わなくていいぞ」
「……はい」
担任に連れられて、職員室を出る。教室へと向かう廊下。先ほどよりも緊張感が高まってくるのが分かる。心臓が、ドクドクと早鐘を打っている。
やがて、2年B組の教室のドアの前に到着した。中からは、まだ生徒たちのざわめきが聞こえる。
「ここで少し待ってて」
先生はそう言うと、先に1人で教室の中へ入っていった。ドアが閉められ、僕は1人、廊下で待つ。中の様子はうかがえないが、先生が何か話し始めると、ざわめきが少し静かになったような気がした。何を話しているのだろうか。
数分が永遠のように感じられた後、再びドアが開き、先生が顔を出した。
「遠野、入って」
僕は、1度だけ深く息を吸い込み、意を決して教室の中へと足を踏み入れた。
瞬間、教室内の空気が凍りついた。全ての視線が、僕に集中する。好奇、戸惑い、憐憫、値踏みするような冷たさ、無関心――そして、その中に、明らかに敵意のようなものも混じっている気がした。
僕は努めて冷静に、しかし固い表情で教壇の横へと進んだ。担任が、僕の隣に立ち、クラス全体に向かって話し始めた。
「……というわけで、遠野は事故の影響で、以前の記憶をほとんど失っている。だから、みんなも、そのことを理解して、温かく見守って、困っていたら支えてあげてほしい。いいかな?」
その言葉に、教室がざわついた。
「え、マジで?」「記憶喪失ってこと?」そんな囁き声があちこちから聞こえてくる。僕に向けられる視線の質が、また少し変わった気がした。戸惑いや同情の色が濃くなった一方で、どこか面倒なものを見るような、距離を置こうとするような空気も感じられる。
「じゃあ、遠野、一言挨拶を」
先生に促され、僕はクラスメイトたちの顔をゆっくりと見渡した。何十もの瞳が、僕を見つめている。まるで、動物園の珍しい動物でも見るかのように。僕は、喉の渇きを感じながら、用意していた言葉を口にした。
「えっと……遠野沙羅です。今日から、復帰します。……記憶が、なくて、みんなのこととか、学校のこととか、何も覚えていません。たくさん迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします……」
言い終わると同時に、深く頭を下げる。顔を上げると、クラスの反応は様々だった。数人の生徒が小さく頷いたり、心配そうな顔をしたりしている。だが、大多数は、やはり微妙な表情を浮かべていた。特に、多くの生徒が、どこか目を逸らすというか、関わり合いになりたくないという雰囲気を醸し出している。
(なぜだろう? 記憶喪失の生徒が、そんなに厄介なのだろうか? いや、厄介だろうけど――それとも……何か、僕の知らない理由があるのかな?)
その中で、いくつかの視線が、妙に印象に残った。
教室の前方、窓際の席に座る、リーダー格らしき、少し気の強そうな顔立ちの少女。彼女は、腕を組んで、全く面白くなさそうな、冷めた表情でこちらをじっと見ている。僕の挨拶にも、何の反応も示さない。
そこから少し離れた席にいる、すらりとした、整った顔立ちの女子生徒。彼女は、僕の挨拶を聞きながら、驚きと心配が入り混じったような、複雑な表情でこちらを見つめていた。目が合うと、少し戸惑ったように視線を揺らし、そして、ゆっくりと逸らした。
そして、教室の後方に座っている男子生徒。彼は、僕が挨拶をしている間も、窓の外に視線を向けたままで、こちらを一瞥だにしなかった。まるで、僕の存在など、最初からなかったかのように。
(……なるほど……。色々な人がいるってことか……。まあ、当然か……)
「じゃあ、遠野の席はあそこだ。窓際の後ろから2番目。空いてるだろ」
担任が席を指し示す。前方のグループとは離れた、比較的目立たない場所だ。少しだけ、ほっとする。
僕は、再びクラス中の視線を感じながら、その席へと向かった。椅子を引き、静かに腰を下ろす。ようやく、この奇妙なショーが終わったような気分だった。
それから間もなくして、最初の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。教室のざわめきが少し収まり、教師が入ってくるのを待つ、独特の静けさが訪れる。
記憶喪失の転校生。クラスに漂う、よそよそしく、どこか不穏な空気。そして、僕に向けられる様々な種類の視線。復学初日から、前途多難であることは間違いなさそうだ。
(面倒なことになりそうだな……。でも、まあ……やるしかないか)
僕は、内心でそう呟き、これから始まる最初の授業に向けて、気を引き締めるように、背筋をわずかに伸ばした。