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第11話 不穏な視線

 最初の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響き、教室を満たしていたざわめきが少しずつ収まっていく。やがて、担当らしき教師――少し疲れた表情の、白髪混じりの男性教師――が、教科書と出席簿を抱えて入ってきた。どうやら最初の授業は数学のようだ。


(数学……。懐かしい響きだなぁ……)


 教師が黒板に今日の課題を書き出す。それは、連立方程式の応用問題だった。

 方程式の問題を解くなどいつ以来だろうか。少なくとも社会人になってからは全く触れてこなかったため授業についていけるかどうかを危惧していた。

 しかし、幸いなことにしっかりと頭が覚えてくれており応用問題であってもスラスラ解くことができた。


(……そういえば、この身体の持ち主――沙羅はどうだったんだろう……?)


 そんなことを考えていると、教師が僕を指名した。これまた久しぶりにチョークを手に持ち、黒板に答えを書く。もちろん、間違えるはずもない。


 席に戻ると、周囲からいくつかの視線を感じた。記憶喪失なのに普通に答えられたことへの驚きだろうか。あるいは、単なる好奇心か。僕は、その視線には気づかないフリをして、ノートを開いた。


 しかし、問題はそこではなかった。この、学校特有の硬い椅子に座っているとお尻や腰が痛くなってきた。

 男女の骨格差が関係しているのか、涼だった時よりもより痛みを感じる気がする。


(……オフィスにあったゲーミングチェアが恋しくなる日が来るとは……)


 結局、最初の数学の授業は、退屈さと身体的な不自由さとの戦いのうちに、長く、そしてあっけなく終わった。


 授業終了のチャイムが鳴ると同時に、教室は再び解放的な空気に包まれた。生徒たちは、待ってましたとばかりに席を立ち、友人同士のグループで集まっておしゃべりを始めたり、次の授業の準備をしたり、あるいは廊下に出ていったりする。


 僕の周りには、誰も来なかった。


 まあ、当然だろう。記憶喪失で、しかも数週間も休んでいた得体の知れない生徒に、わざわざ話しかけてくる物好きはいない。それに僕自身、積極的に誰かと関わろうという気力も、まだ湧いてこなかった。まだ自身が女子中学生らしく振る舞える自信がないのだ。


 僕は、ただ1人、自分の席で窓の外を眺めるフリをして、時間を持て余した。強い疎外感。まるで、自分だけが違う言語を話す国に迷い込んでしまったような、そんな居場所のなさ。


(……これからずっと、こんな感じなのかな……。それは、ちょっと……いや、かなりキツいかもしれないな……)


 手持ち無沙汰に、教室の様子を観察してみる。どのグループがクラスの中心で、誰が影響力を持っているのか。クラス全体の雰囲気はどうなのか。


 やはり、気になるのは教室の前方、窓際の席でひときわ大きな声で笑い合っている女子グループだ。派手なアクセサリーをこぞって身につけこそつけ、華やかなオーラを放っている。中心にいるのは、あの、朝の挨拶の時に僕を冷めた目で見ていた、気の強そうな顔立ちの少女だ。


(……いかにも、って感じのグループだな。ああいうのが、クラスのカースト上位ってやつなんだろうな、きっと……)


 彼女たちのグループは、他の生徒たちとは明確な壁を作っているように見えた。楽しそうにしているが、その輪の中には、どこか排他的な空気が漂っている。

 僕のような存在は、おそらく、彼女たちのテリトリーには入れてもらえないだろう。まあ、別に入りたいとも思わないけれど。


 次の休み時間も、そんな風に人間観察をしていた。そして、2時間目と3時間目の間の――少し長い休み時間に差し掛かった。

 また手持ち無沙汰になるだろうけど、とりあえず次の授業の準備をしようと、鞄に手を伸ばした、まさにその時だった。

 不意に、僕の目の前に、複数の影が差した。

 顔を上げると、そこには、先ほど観察していた女子グループが立っていた。中心には、やはりあのリーダー格の少女。彼女は、僕の顔をじろりと見据え、唇の端に、わずかな侮蔑の色を浮かべて言った。


「ねぇ、沙羅ちゃん? ちょっと、話あるんだけど。一緒に来てくんない?」


 その声は、猫なで声のように甘ったるいのに、有無を言わせない、妙な圧力を伴っていた。取り巻きらしき他の女子生徒たちも、ニヤニヤしながら僕を取り囲むように立っている。


 周囲の生徒たちが、一瞬、こちらに注目したのが分かった。だが、次の瞬間には、まるで何も見なかったかのように、サッと目を逸らし、自分たちの会話に戻っていく。明らかに、関わり合いになりたくない、という空気が教室を満たしていた。


(……えぇ……何これ? 沙羅――君はこんなスクールカースト上位の人と関わりがあったの?)


 面倒なことになった――それは確かだ。だが、ここで嫌ですと言えるメンタルは持ち合わせていなかった。僕は、内心で深くため息をつきながら、静かに頷いた。

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