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第12話 悪意の正体

 リーダー格の少女とその取り巻きたちに促されるまま、僕は黙って歩き出した。内心では、これから起こるであろう面倒事への警戒心と、できることなら関わりたくないという気持ちが渦巻いていた。

 だが、ここで反抗的な態度を取ったところで、状況が好転するとは思えない。今は、相手の出方を見るしかなかった。


 彼女たちに連れて行かれたのは、校舎の裏手にある、普段はほとんど人が立ち入らないような場所だった。昼間だというのに薄暗く、じめっとした空気が漂っている。壁には薄緑色の苔が生え、隅には古びた掃除用具や、使われなくなった机などが無造作に置かれていた。人の気配はなく、まるで学校という日常から切り離されたような、閉鎖的な空間だった。取り巻きの女子生徒たちが、僕の背後を固めるように立ち、逃げ道を塞いでいるのが分かった。


(……なるほど。いかにも、って感じの場所を選ぶんだな……)


 リーダー格の少女は、壁に背をもたせかけると、腕を組んで、改めて僕を値踏みするように見下ろした。その唇には、人を小馬鹿にしたような、あるいは、これから始まる遊びを楽しんでいるかのような、嫌な笑みが浮かんでいる。


「記憶喪失なんだって? ふーん、ウケる。ドラマみたーい。それってホントなの? それとも、なんか都合が悪くて、忘れちゃったフリしてるとか?」


 ねっとりとした、挑発的な口調。僕は、表情を変えずに、ただ静かに相手の目を見返した。


「……それで、わたしに何の用ですか?」


 僕の反応が予想と違ったのか、あるいは単に気に食わなかったのか、彼女は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに意地の悪い笑みを深めた。


「別にぃ? 大した用じゃないんだけどぉ。ただ、記憶がないとかわいそうだからさ、前のこと、ちゃーんと教えてあげようと思って」


 彼女は、一歩僕に近づき、囁くように続けた。その声は、妙に甘ったるく、しかし、その奥には刃物のような冷たさが潜んでいた。


「あんたさ、自分がアタシに何したか、覚えてないかもしれないけどぉ、アタシたちはぜーんぶ、ちゃーんと覚えてるからね?」


(僕が……いや、沙羅が、何かした……? それが原因、ということか……?)


「まあ、頭では忘れちゃってもさ」


 彼女は、楽しそうに続ける。


「体は、私たちが『教えてあげた』こと、よぉーく覚えてるんじゃない? あの感じとか、あの痛みとか……ねぇ?」


 粘つくような視線が、僕の身体を上から下まで舐るように動く。その言葉と視線に、生理的な嫌悪感が込み上げてくる。過去に、この身体がどんな目に遭わされてきたのか……想像したくもない。


「だから、安心してよ。記憶がなくっても、心配いらないから。前みたいに、ずーっと、ずーっと、私たちが、あんたのこと、『かわいがって』あげる。友達なんだから、当然でしょ?」


 その言葉は、紛れもない脅迫であり、悪意に満ちた宣戦布告だった。取り巻きたちも、それを肯定するように、下卑た笑い声を漏らしている。


 そしえ、僕が何か言い返すよりも早く、彼女は、ふと視線を上げ、校舎の2階の窓を見上げた。そして、小さく頷くような仕草を見せた。


(……?)


 僕が訝しんだ、次の瞬間だった。


 バシャッ!!


 頭上から、突然、冷たい水の塊が降り注いだ。一瞬、何が起こったのか理解できない。驚きで目を見開いた僕の視界を、水滴が覆う。髪も、着ていたばかりの制服も、それこそ下着まであっという間にぐっしょりと濡れ、冷たい水が肌に張り付く。


 見上げると、2階の窓から、誰かがバケツのようなものを引っ込めるのが見えた。おそらく、別の取り巻きなのだろう。


「あはははは! 見て、びしょ濡れ! ウケるー!」

「マジ、ウケるんだけどー!」


 彼女と、その場にいた取り巻きたちが、腹を抱えて下品に笑い転げている。僕の惨めな姿を、心底楽しんでいるようだった。


 僕は、濡れた前髪を払い、ただ黙って彼女たちを見つめた。怒りよりも、今はただ、呆然としていたのかもしれない。

 ひとしきり笑い終えると、彼女は、満足そうに鼻を鳴らした。


「ま、今日のところはこれくらいにしといてあげる。記憶、早く戻るといいね? 楽しみにしてるからさ」


 そして、最後に侮蔑を込めた視線を投げかける。


「じゃあね、沙羅ちゃん」


 そう言い残し、取り巻きたちを引き連れて、悠々とその場を去っていった。


 校舎裏に、ずぶ濡れのまま、僕一人が取り残された。冷たい水滴が、髪の先から、制服の裾から、ぽたぽたと地面に落ちていく。身体が、冷えと、そしておそらくは屈辱で、小さく震えている。


(……これは……いじめだね……)


 ようやく、状況が飲み込めてきた。これが、おそらく遠野沙羅が受けていたいじめの現実なのだ。

 そして、この事実は、僕の頭の中で、別の疑念と結びついた。


(……もしかして、沙羅が頭を強く打った原因も……こういうことの、延長線上にあったんじゃ……? 事故なんかじゃ、なくて……)


 確証はない。だが、可能性は高いだろう。そう考えると、この身体の持ち主が置かれていた状況の過酷さに、改めて戦慄する。


 しかし、不思議なことに、僕の心の中で最も強く感じられたのは、怒りや恐怖よりも、むしろ呆れに近い感情だった。


(……子どもか……。やってることが、あまりにも幼稚で、くだらない……)


 たしかに、水をかけられたのは不快だし、屈辱的だ。だが、社会には陰湿で巧妙な悪意がいくらでもあるのだ。


 だが、呆れていても、このまま濡れ鼠でいるわけにはいかない。制服はびしょ濡れだし、身体も冷え切っている。何より、こんなことが今後も続くのだとしたら、それは単純に迷惑だ。非常に、迷惑だ。


 そして、何よりも――。


(……このまま黙ってやられていたら、この身体の持ち主……沙羅が、あまりにも浮かばれないじゃないか……)


 静かに、しかし強い意志が、冷えた身体の芯で、小さな炎のように灯るのを感じた。


(面倒だけど……やるしかないか。こんな奴らに、好き勝手させるわけにはいかない)


 いじめに、立ち向かう――そう決意した。


 遠くで、次の授業の開始を告げる予鈴が鳴っているのが聞こえた。僕は、濡れた制服の重さを感じながら、空を見上げた。空は、相変わらず高く、青い。その青さが、今はやけに目に染みた。

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