校舎裏に、僕一人が取り残された。冷たい水滴が、結び損ねた長い黒髪の先から、ぐっしょりと濡れたブレザーの裾から、ぽたぽたと地面に染みを作っていく。9月とはいえ、濡れた身体に風が当たると、さすがに肌寒い。身体が冷えてきて、小さく震えているのが分かった。
(……さて、どうしたものか……)
決意はした。いじめに立ち向かう――と。だが、その前に、まずこのずぶ濡れの状況を何とかしなければならない。このまま教室に戻るわけにもいかないだろう。
(着替え……今日は体育の授業もなかったから体操着も持ってきてない。……どうするべきか……)
途方に暮れて、その場に立ち尽くす。じっとりとした校舎裏の空気が、気分を滅入らせる。
その時だった。
校舎の角から、1人の男子生徒が姿を現した。肩には、黒いスクールバッグ。少し気だるそうな足取りで、こちらへ向かってくる。
その顔には見覚えがあった。
(彼は……たしか……)
教室で見た――あの、窓の外ばかり眺めていた、無関心そうな少年だ。
名前は知らない。だが、教室での印象は残っている。少し厳つい雰囲気もあるが、それ以上に、周囲に馴染もうとしない、一匹狼のような空気を纏っていた。
(……授業、サボって帰るつもりかな?)
彼は、僕の存在に気づきながらも、特に足を止めるでもなく、そのまま通り過ぎようとした。
その瞬間、僕の頭にある考えが閃いた。いや、閃いたというより、ほとんど反射的に声が出ていた。今の僕には、藁にもすがる思い、というやつだったのかもしれない。
「あの、すみません、ちょっといいですか?」
彼は面倒くさそうに足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。その目には、『なんだよ』と、ありありと書かれている。普通の女子生徒なら、彼のその態度や見た目に少し怯んでしまうのかもしれない。
だが、生憎と僕の中身はアラサーの男だ。会社にはとてもカタギとは思えない人相の人もいたし、彼程度の強面に臆することはない。
「タオルか……もしくは着替えとか――何か持っていませんか? 見ての通り、ちょっと困ってて」
僕はできるだけ平静に、しかし切実さを込めて尋ねた。僕のその、物怖じしない態度が意外だったのか、蓮は少し面食らったような顔をした。
「はあ? なんで俺がそんなもん持ってなきゃなんねえんだよ」
ぶっきらぼうな口調。だが、完全な拒絶ではない気がした。
「藁にもすがる思いで聞いてみただけです。あ、わたしは遠野沙羅です。多分同じクラスだと思います――少し前に事故に遭って、記憶がないのであなたのことは……あまりわからないんですが」
正直に、そして少しだけ自分の状況を付け加えてみる。同情を買おうという意図はなかったが、結果的にそうなったのかもしれない。
彼は、僕の言葉を聞いて、さらに怪訝そうな顔になったが、やがて諦めたように短く息をついた。
「……相葉蓮だ。……で、何があったんだよ、その格好は。プールにでも落ちたのか?」
「いえ、人に、上から水をかけられまして。ちょっとした悪戯みたいですけど」
僕は、事実を淡々と告げた。その瞬間、彼の表情がわずかに険しくなったのを、僕は見逃さなかった。
「……チッ。またあいつらか。姫野のやつらだろ、どうせ」
「あの、クラスのリーダー的な女の人です――姫野っていう名前なんですか?」
僕はせっかくなので彼に問いかける。
彼が、こうもあっさりと名前を口にしたということは、彼女の行いがクラスではある程度知られている、ということなのだろうか。
「ああ、そいつだ。姫野――姫野莉子だ」
(なるほどな……。要注意人物、確定だ)
僕は、その名前をしっかりと頭に刻み込んだ。
そして、目の前の彼に次の頼み事をすることにした。彼は面倒くさそうにしているが、話が通じない相手ではなさそうだ。そして何より、今の僕には協力者が必要だった。
「蓮くん……でしたっけ。改めて、何か手伝ってもらえませんか? このままじゃ、授業にも出られないし、風邪もひきそうなので……」
「はあ? なんで俺がお前の面倒見なきゃなんねえんだよ。俺は帰るんだよ」
予想通りの返答。だが、僕は食い下がった。
「そこを何とか。この通り、本当に困ってるんです。それに、さっきの姫野さん? あの人たちのことも、何か知ってるんですよね? 少し、話を聞かせてもらえませんか?」
蓮くんは、じっと僕の顔を見つめた。その表情の奥で、何を考えているのかは分からない。面倒くさいという気持ちと、この奇妙な状況へのわずかな好奇心。それらがせめぎ合っているのかもしれない。
やや長い沈黙の後、彼は、再びチッと舌打ちをした。
「……あー、クソ……分かったよ! 仕方ねえな、今回だけだぞ!」
ぶっきらぼうな言葉。だが、その声には、確かな承諾の響きがあった。
(……よし!)
思わず、心の中でガッツポーズをする。これで、とりあえずこの危機は乗り越えられそうだ。
「ありがとうございます!!」
蓮くんに向かって深々と頭を下げる。
真っ直ぐな感謝をぶつけられたことがこそばゆかったのか、彼はそっぽを向きつつもある種満更でもない表情を浮かべるのだった。