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刑事 魔人 一般人 中

 マリグナント・イェラ・スエーガー……九龍の掃除屋の助手にして、九龍地下第四階層の魔人達を支配していた『吸血鬼』。


 人間の生き血を啜ることに至上の喜びを見出し、その血が持つ記憶と経験を我が物として振るう姿は『鮮血姫』。血に濡れ、血に酔い、血に震える……鮮血の城にて舞い踊り、嬌笑を絶やさぬ支配者の様は『紅女王』。新宿を我が物顔で闊歩する九龍の魔人でさえ、彼女の翡翠色の瞳に魅入られた瞬間、血に飲まれる。


 彼女の危険性を知っているからだろうか、それとも生物としての本能が生存を優先するからだろうか、新宿区全体を見回しても彼女に反抗する輩は存在しない。当然だ、九龍の落下物を身に宿す魔人であろうとも命は一つ。我が身が愛しい故にマリグナントが歩を進めれば頭を垂れ、嵐が過ぎ去る瞬間をただ只管に待つのだ。死にたくないが故に。


 何故犬神宗一郎の助手となり、彼の手足として動くのかは彼女だけが知っている。自分だけが持つ理由を誰かに話す必要は無い。問われたならば話すだろうが、問われなければ話さない。何故なら、それは自分だけの記憶と経験なのだから。


 九龍の生臭い通路を歩き、新宿区歌舞伎町に出たマリグナントは、顔を伏せる飯野を一瞥すると馬鹿らしいと鼻で笑う。魔人に身内を殺された人間が自分だけだと思っている少女へ侮蔑の視線を浴びせ、どうせ最後には後悔するとばかりに。


 「……マリグナントさんは」


 やっと口を開いた少女の声は今にも消え入りそうだった。街の喧騒に踏み潰され、ぐちゃぐちゃに掻き回される小さな声。


 「なぁに? キティちゃん。今更怖くなったの? 馬鹿ね、怖いなら最初っから何も感じなきゃいいのに」


 「……」


 「子守は趣味じゃないの。犬神の指示じゃなきゃ新宿の外まで送らないのに、面倒よね。あぁ失礼、貴女の場合一応『保護』の名目だったかしら? どう? ケージにでも入る?」


 「復讐は……駄目だと思いますか?」


 「どうでもいいの一言に尽きるわね。だって私事じゃないもの」


 「……」


 「けど出来るならそれに越した事はないんじゃない? スッキリした方がいいでしょう? 綺麗さっぱり殺して、気に入らない奴も纏めて殺す。その後のことなんて全部本人の心次第ね。そう思わない? キティちゃん」


 殺すなら、殺されても仕方ない。ただそれがどんな手を使ったかによるだけ。


 マリグナントは殺しをどうとも思わない。死んだら此方が弱かったという理由だけで片付き、それはそれで納得できる。飯野が問いたいのは復讐という名目で人の命を奪い、残された遺族やその顛末に関することだろうが、そんなことなどマリグナントの知るところではない。 


 「なに? まだ迷ってるの? 馬鹿ねぇ、後悔しない選択なんて一つも無いのよ? 今を生きるか、棺桶を引きずってまで生きるかの違いでしょう? 殺せばいいじゃない、殺したほうが気が楽よ? そんなに迷うなら」


 「どうして……私の家族が殺されたんでしょうか」


 「さぁ?」


 「本当に普通だったんです。いつも通り朝起きて、学校に行って、帰ってきて、それから……ッ!」


 フラッシュバックする血の記憶。家族を殺した魔人の狂笑。千切れ落ちる父母の四肢。そして凌辱される首無しの姉。口を押さえ、その場に空っぽの胃液を吐き出した飯野は、己を見下ろす翡翠色の瞳を見つめる。


 「もし……私が魔人を殺したら、その家族が貴女方に依頼をする。その可能性は」


 「あるけれど、今回は無いわね」


 「どうしてそう言い切れるんですか?」


 「魔人の正体も、どんな落下物を使って殺したのかも、何故その凶行に至ったのかも、全部知ってるもの」


 「教えて―――」


 「だーめ。犬神に口止めされてるのよねー。さっさと話したほうが楽なのに、警察だった頃の感覚が抜けきらないのよ、あの男は」 


 「……どうして、警察官だった人が魔人に?」


 「昔の話よ、一種の執着……いえ、執念と呼ぶべきかしら」


 「執念?」


 「えぇ、今の犬神は随分と丸くなったわ。昔……それこそ五年前は酷かったものよ? 本当に怖かったの。目を合わせれば即座に殺されるような、絶対に逃げられないような……血の臭いを辿ってやって来る狐狼。それが犬神宗一郎、九龍最強最悪の魔人。多分百人は殺されたんじゃないの? 彼一人に」


 「―――」


 絶句する。あの飄々として軽口を叩く青年の過去の切れ端を聞いた少女は、背筋に悪寒を覚え、生温い風さえも冷風のように感じた。


 「あとね、羨ましいわ」


 「な、何がですか」


 「パンピーを気に掛けるのは警察イヌだった頃と変わらないけど、命を守る風にするのはキティが初めてね。ペットを貸すなんて聞いたことが無いもの」


 「ペット……黒狼ですか?」


 「そ、黒狼。アレに四層の魔人の六割が殺されたわ。私は強いから抵抗できるけど、犬神本人と戦えば五分で死ぬわね。アレを制御して、主と認識させるための呪印……それが貴女の右目に刻まれている。気軽に使いなさいよ? その為に貸したんだから」


 その言葉と共に耳元で獣の唸り声が聞こえた。


 「……」


 濃厚な血の香りと臓物の臭い。ギョロギョロと蠢く六つの目玉がマリグナントを睨みつけ、飯野に視線を向ける。


 剣のように鋭利な尻尾が空を裂き、ビルの外壁を穿つ。内に潜んでいた男の首を断ち、頭蓋諸共脳を食んだ黒狼は獣とは思えない醜悪な笑みを浮かべ、飯野の右目にズルリと身を潜ませる。恐怖による幻覚か、マリグナントの持つ圧倒的な威圧感からの錯覚か、首の無い死体に足を竦ませた少女は声を失う。


 「ま、アレが懐くのは予想外だったけどね。新宿にはどうやって来たの? 区間電車? それともタクシー? まさか歩きなんて言わないでよね。あぁ、そういえば浅草に用事があったわ。どう? どうせ学校は休んでることだろうし……デートでもしない?」


 「……家に」


 「帰らない方がいいと思うけど」


 「どうして、ですか?」


 「学生でサボれるなんて貴重な体験よ? いいじゃない一日くらい。浅草焼きでも食べて暮れまで遊べばいいわ。お姉さんが奢ってあげる。嬉しいでしょう?」


 「けど」


 「堅物ねぇ、私も結構真面目だったけど。色々と教えてあげるわ、貴女の子宮に刻まれた呪印のことも」

 「あの、子宮の呪印って……何なんですか?」


 「それは私とデートしてくれたら教える。簡単な取引よ、選びなさい。キティちゃん」


 「……ご一緒します」


 「決まりね、楽しみましょう? キティちゃん」


 艷やかな笑みを浮かべたマリグナントが飯野の手を引き、新宿の路を歩く。強者と共に行動すれば危険は少ない街……そう思ったのも束の間、九龍の呪物を手にしたホームレスが二人へ舐るような視線を向ける。


 マリグナント・イェラ・スエーガー……九龍の『紅女王』。魔人共が手を出さないのなんて噂に過ぎない。きっと奴らは根も葉もない怪談を信じているだけ。梵字の巾着を開き、呪いを発動させようとしたホームレスの手に血の一滴が垂れ落ち、


 「あぁそう言えば」


 「はい」


 「今度はちゃーんと私に連絡しなさい」


 「……」


 「メールアドレスはコレね。暇なら付き合ってあげる」 


 皮膚の細胞に染み渡った血は瞬く間に体中を駆け巡り、ホームレスの血液を別の型に組み換え拒絶反応を誘発させる。


 「どうして」


 「新宿区は危ないもの。女の子一人で歩かせるワケにはいかないでしょう? ねぇ、


 翡翠色の瞳がのたうち回るホームレスを射抜き、薄い唇が笑みを形作る。少女に知られる前に敵意を持つ存在を抹殺したマリグナントは、指を鳴らして己が存在を知らしめる。


 この娘に手を出した者は皆殺しだ、と。


 そう言葉無く示したのだ。


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