法の番人である警察官であろうとも、九龍人から見れば金に汚い木っ端役人でしかない。
裏取引を見逃して貰う為に賄賂を送り、呪物の使用を認めて貰う為に袖を通す。
だが、腐ったイヌの群れにも狼の誇りを忘れぬ者も居る。悪を憎み、罪に怒り、九龍が支配する新宿に異を唱える一本筋が通った刑事……咲洲吾郎。どれだけ傷つこうとも、騙されようとも、九龍人が犯した罪を裁く為に都市を奔走する男は魔人案件の討滅状を手に腕を組む。
「ワンちゃんワンちゃん、御用の書状は持ってきた? 良い仕事が出来たら可愛がってあげる。嬉しいでしょう?」
「マリグナント・イェラ・スエーガー、その輸血パックは何処から入手したものだ? 言ってみろよ、吸血鬼」
「赤十字のお友達から貰ったのよ、貴男が考えてるような方法を使っちゃいないわよ? なに? 昔みたいに色々やったと思ってるワケ? 残念、アテが外れたわね、ワンちゃん」
「あのさぁ……言い争いは後でやってくれよな? 飯野ちゃんが置いてけぼりじゃん」
「犬神、お前もだぞ? この毒婦の手綱をしっかり握ってるんだろうな?」
「大丈夫だって、マリーが食ってるのは劉の指共か九龍人、四層の魔人連中だろうからさ。多分……」
「多分? 多分だと? 多分なんて曖昧な物言いは止めろ。昔から言っているだろうが」
「わーった、わーったよ! 咲洲さんは変わんねぇな、ホント」
「皮肉のつもりか?」
「眩しいって言いたんだよ、今の俺には」
煙草の火種を揉み消した犬神が苦笑し、咲洲の鋭い目つきから逃れるように目を伏せる。九龍最強の魔人が言い淀む姿に目を白黒とさせた飯野は、マリグナントへ視線を寄せると、
「上司と部下だったのよ、あの二人。可笑しいと思わない?」
驚いたように目を見開く。
「マリグナント、余計な物言いは止めろ。豚箱にぶち込まれたいのか?」
「あー怖い、嫌ねぇ権力を振りかざす大人って」
「マリー頼むからこれ以上余計なことを言わないでくれ……。あ、ほら、咲洲さん、マリーから聞いてると思うけど、この子が」
「分かっている」
咲洲のダークブラウンの瞳が飯野の瞳を覗き込み、拳を握る少女の手をゴツゴツとした大きな手が壊れ物を扱うかのようにそっと包み込む。
「君が飯野神楽さんだね? 例の件はマリグナントから聞いている」
「……」
「先に言わせて欲しいことがある。君はもう安全圏……犬神の庇護下に入ったと思っていい。もし九龍中の魔人が君に襲いかかろうと、彼は必ず君の命を守り通す」
「刑事さんは……何をするんですか?」
「……」
「家族が殺された時、港区の警察は魔人のせいだって……それで諦めたんですよ? 貴男みたいな普通の人が」
「普通だから、君と同じ目線に立つことが出来る。魔人案件を解決する人間は同じ魔人だけじゃない。俺のような刑事も命を賭けて捜査に協力するんだ。だから……俺は君の誇りを守ろう。警察官として、刑事として、必ず」
ただ静かに、咲州の目をジッと見つめた飯野は頷くワケでもなく、彼の言葉を飲み込むワケでもなかった。
閉じた蠣のような少女だと咲州は飯野を鑑みる。家族を失った悲しみと、魔人への怒り。九龍という病巣への憎しみ。様々な感情が少女の内で膨張と収縮を繰り返し、失望というソースを煮詰めているのだろう。
故に、咲州はこれ以上の言葉を少女へ吐かない。言葉よりも行動で示すべきであると考えているから。凍り付いてしまった心を溶かすのは、何時だって熱く滾る血であるべきなのだから……彼女の血が再び熱を取り戻す瞬間まで、人間の刑事はどんな手を使ってでも犯人を追い詰める。
「で、これからどうするの? 殺す? 捕まえる? それとも無かった事にでもする? キティちゃんは別にどうでもいいとして、私としては手っ取り早い方法を選びたいのよね」
「……マリグナント、犯人が魔人であろうとも、一般人を殺したのならば法の報いを受けさせるべきだ。それが」
「人道とでも言いたいの? いいわね正論を吐いてれば正義を名乗れる人間は。なぁに? この子の依頼は既に犬神の手に渡っていて、ワンちゃんの手に負えないから討滅令状を持ってきたんでしょ? どうせ捕まえても犬小屋の駄犬が逃がすだけ。殺した方が世の為よ」
「まぁまぁ二人とも少し落ち着けって……件の魔人をどうするかは俺達が決めることじゃないだろ? 殺すか否か、それは飯野ちゃんが決めることだ。けどまぁ……個人的にはマリーの意見に賛成だな、俺も」
「犬神、お前は」
「咲州さん、もうマリーから情報は聞いてるだろうけど、被害者のこれからを考えるなら殺すべきだ。正直救いようもないだろ、奴はさ。大丈夫だって、俺が殺す。咲州さんと飯野ちゃんに迷惑をかけない方法で確実に殺す。だから」
「俺に何もするなと言いたいのか? 馬鹿を言うなよ犬神……俺は刑事だ。もしもの場合、それこそ飯野さんが殺す選択を取らなかった時、俺が手錠を嵌める。一つの選択肢だけが全てじゃない。何度も言うが、お前は悪い意味で真っ直ぐ過ぎる。悪癖だぞ、犬神」
「……敵わないな、咲州さんには」
肘掛椅子の上でクルクルと回り、苦い笑みを浮かべた犬神は「で、どうする?」と飯野を見つめ、指輪を弄る。
「……」
「相手を殺すか生かすか、それとも見逃すか。君が決めるべきだね、この問題は。まだ俺は金を貰っていないし、討滅令状も貰っちゃいない。咲州さんの言葉に耳を貸すか、そのまま復讐を進めるか……飯野ちゃんが決めな。勿論俺は君の依頼に従うし、マリーだって動く。さ、どうする?」
掌から血が滴り、飯野の眼に迷いが生まれる。重い沈黙の中、犬神の目を睨み付けた少女は、
「少し……時間を貰ってもいいですか」
と、力無く呟いた。
「日和ったの? あれだけ殺したいと思ってたのに」
「それが普通の人間の反応だ、お前等と一緒にするな」
「酷いわね、私だって元人間よ?」
「ほざけ吸血鬼」
皮肉の応酬を繰り広げる二人を他所に、仕方ないと首を横に振った犬神が飯野の傍に歩み寄る。
「決まったら黒狼に伝えろよ? 直ぐに行くよ、君のところにさ」
「……」
「最善の方法なんかこの世には無い。何時も目に見えるのは薄汚れたアスファルトと、濁った曇天だけさ。良い事も悪い事も飲み込んで、決断を下すべきだね。一応マリーに送らせる。俺は咲州さんと話す事があるからさ。悪いね」
「……いえ」
「じゃ、今日はもう帰りな。バイバイ、飯野ちゃん。マリー、子猫ちゃんを新宿の外まで送ってくれないか?」
「あら、もう帰るの?」
「いいじゃねぇか、若いんだよこの子は。俺達と違ってさ」
「そ、別にいいけど。お出口は此方よキティちゃん。離れずに付いて来ることね」
事務所の扉を開け、九龍の通路へ足を運ばせたマリグナントとは別に、飯野は犬神を一瞥する。この判断が正しかったか否かを確かめるように。
「またおいで、この糞みたいな街にさ。俺は何処にも行かないから」
「……はい」
手を振り、二人を見送った犬神は咲州の目の前に座る。
「咲州さん、これで良かったかい?」
「上出来だろうな」
「そっか、なら良かった。で、本題なんだけど」
「あぁ」
「恐らく飯野ちゃんの家族を殺した魔人は彼女の叔父だ」
「……指輪が反応したのか?」
「いいや? 雑魚に九龍の秘宝は反応しない。これはマリーが集めた情報だ。落下物の顕現化を察知することができるからさ、アイツは。あぁ、あの子の身の安全は保証するよ、俺のペットを貸してる」
「そうか」
「これからどうする?」
「罪状を纏め次第捜査本部を置いて動く。ハリボテだが無いよりはマシだ。もし彼女が別の選択を取った時、その後始末をするのも大人……警察の責務だからな」
「流石咲州さん、頼りになるね。さて、俺は」
「何処に行くんだ?」
「楊さんの所。もう一人の魔人を探す為だよ」
そう言った犬神は、ジャケットを羽織ると煙草に火を着けた。