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呪印 下

 キリキリと、絡んだ糸から血が滴る。


 キシリと伸びた筋と骨、ビィんと張った健と管。


 魔人は笑う、狂ったように、ケタケタと。


 憎たらしいったらありゃしない、あの女は私のモノになる筈なのに。怒りに触れる男の指よ、産んだ娘を寄越せば許そう。それ答えろよ、間男よ。いや答えるなスケコマシ。


 バァと開いた魔人の手が男を引き裂き、女を食らう。糸に縛られた少女の姉を、魔人の怨嗟が凌辱せしめ、首を抜いて唇奪う。


 嗚呼、これ如何なるは魔人の所業。九龍忌み子の凶行也。魔人来りて悪鬼が笑い、悪鬼が呻いて血に濡れる。九龍忌み子は恐ろしい……獣主の指輪が恐ろしきかな。



 息を潜め、血の臭いに目が回る。


 クローゼットの奥に身を隠し、真っ赤な光景を瞳に映した飯野はガタガタと身を震わせ、ポタリと垂れた血に息を止めた。


 男の狂笑と肉が破裂する音、真っ白な壁紙に血が飛び散る嫌な音……。プラプラと天井から垂れ下がる父母の首を眼に映し、今まさに頭を捥がれ、髄液を啜られる姉の死を目の当たりにした少女は異形の仮面を被った男を凝視する。


 「———」


 新宿区には九龍が聳え立ち、九龍とは魔人狂人が蔓延る魔窟である。時に魔窟から這い出した魔人は他区へ赴き人を喰らう。噂話か怪談か、小指の先程信じていなかった都市怪談が飯野の脳裏を過り、家族を殺し尽くした魔へ深い憎悪を抱かせる。



 九龍の掃除屋を訪ねなさい。



 綺麗な声が鼓膜を打つと同時に、部屋へ黒フードの男が立ち入って来る。


 キリリ———と嘶く糸を絡め捕り、魔人の胸倉を掴み上げた男がそっと耳に言を吐く。グンニャリ曲がった仮面を押さえ、部屋を後にした魔人を他所に、男はクローゼットを勢いよく開き影の奥に笑みを浮かべ、


 「見つけた」


 そう呟くと飯野の腹に手を押し当て呪印を刻む。逃げられぬように、囚われるように、抗い続けるように……願いを込めて。


 「———ッ!!」


 じっとりと湿った制服が肌に張り付き、首筋が汗ばんでいた。瞼を瞬かせた飯野は悪夢の残滓に吐き気を覚える。


 「おぉ起きたか、どうだ気分は」


 「……」


 「そう睨むなって、別にとって食うワケじゃあるまいし。腹減っただろ、食えよ」


 肘掛椅子に腰かけ、煙草の紫煙を燻らせていた犬神がマクドナルドの紙袋を飯野へ投げて寄越す。紙袋にはチーズバーガーとコーラが入っていた。


 「……」


 「なんだ? 食わないのか? 腹が減っては戦は出来ぬ、食える時に食っときな飯野ちゃん」


 「……」


 とてもじゃないが肉を食べる気にはなれなかった。ガツガツとハンバーガーを二個平らげ、カップコーヒーを二杯飲み、食後の煙草を吸う大神を一瞥した飯野は自分が寝かされていたソファーから足を下ろす。


 「飯野ちゃん」


 「何ですか」


 「急がば回れ、焦っても碌なことが無いぜ? 果報は寝て待てって言うだろ?」


 「寝ていれば勝手に仇が居なくなるんですか?」


 「在り得ないね」


 「私の家族を殺した男が死ぬんですか?」


 「俺とマリーが動かなければ生き続けるかな」


 「ならッ!!」


 「だから急ぐなって言ってんだよ。俺も言わなきゃいけないことがあるんだ、君にさ」


 先の長い煙草を指先で揉み消した犬神が笑う。その笑顔に苛つき、彼のデスクを両手で叩いた飯野へ青年は鏡を手渡し「目、見てみな」と肺に残った紫煙を吐き出す。


 「目?」


 「俺が刻んだ呪印を確認するといい。それと、飯野ちゃんの下腹部……丁度子宮の辺りかな? そこに魔人の呪印がある」


 鏡を引っ手繰った飯野の右目には獣の牙と爪を象った印が刻まれており、下腹部には何とも言い難い奇妙な印があった。


 魔人の呪印……薄い笑みを浮かべ、クルクルと椅子を回す犬神は「厄介なことに巻き込まれたな」右手の二指、三指に嵌められた指輪を弄る。


 「これ、は」


 「目の方は安心しな、俺の呪印だからよ。犬神宗一郎の呪印持ちを襲う奴なんざ九龍には居ない。けど、面倒なのは子宮の呪印なんだよなぁ……飯野ちゃんさ」


 俺とどっかで会ったことない? 冗談めかして言葉を吐いた犬神に飯野は恐怖する。


 顔は笑っているが、目は一つも笑っていないのだ。黒い瞳に狂気が陰り、他者の存在を圧殺する程の憎悪が色めき泡立っていた。


 「いや、勘違いならいいんだけどさ。確認しておきたいんだよね。両者合意の上で、俺が君の復讐を果たすべきなのか否かを」


 「会ったことは……無いと、思います」


 「そっか、ならいいや。りょーかい、今はそういうことにしておこう。で、これからが本題なんだけど……飯野ちゃんの家族を殺した魔人はもう何処のどいつで、どんな落下物を持っているのか俺とマリーは知っている。三秒もあれば殺すことも可能だ」


 「なら!」


 「だが、即座に殺しちゃ意味が無い。そう思わないか? なぁ、飯野ちゃん」


 ゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫を開けた犬神は缶コーヒーを振る。


 「君は殺しを簡単に見ている」


 「馬鹿言わないで下さい。相手は私の家族を殺したんですよ!? そんな相手を」


 「殺せと君は言う。目には目を、歯には歯を、死には殺しの断罪を。おいおい、映画の見過ぎなんじゃぁないか? 何だ? 俺は君にとってのダーク・ナイトかウルヴァリンとでも? 馬鹿言ってんのは飯野ちゃんの方だろ? 殺される方にも人生があって、家族が居るんだよ」


 不意を突かれたように目を見開き、唇を噛み締めた飯野から血が流れる。


 確かに相手を殺せば、その家族の報復を受ける可能性もある。呪いが呪いを呼び、不幸の呼び水となることもある。人の命を奪い、復讐を果たすということは……自らに消えぬ呪いを刻み込む縛りでもあるのだ。


 「だが」


 「……」


 「俺はそんな論理はクソだと思うね」


 「……え?」


 「殺すなら殺される覚悟を背負うべきだ。相手の家族を殺したなら、一族根絶やしにされる可能性を想像しろってんだよ。飯野ちゃん、掃除屋がこれから行う掃除は九龍の身から出た錆を剥ぐ作業……パンピーを殺した魔人は命を以て代価を支払うべきなんだよ。だからもう一度言うぜ? 安心しな……君はもう怯えなくてもいい」


 グリグリと少女の頭を撫でた青年はニヒルな笑みを浮かべ、玄関の扉を開ける二人の男女へ視線を移す。


 「お説教は終わった? 犬神」


 「説教? 説教ってのは誰かの為になる言葉を垂れ流すんだろ? 俺のはただ理屈を並べる戯言だよマリー。それと、会いたかったよ咲洲さん」


 「暫くぶりだな犬神、元気にしてたか?」


 「まぁまぁだな、外も静かなもんだし、九龍の中も何ら変わりは無い。強いて言うなら……劉の指と武装警察官が裏取引をしてるくらいか? ま、そんなところだ」


 金髪を掻き上げながら輸血パックの血を吸うマリグナントと、洋服店で売っているスーツに身を包んだ強面の刑事……咲洲吾郎。二人は犬神に言われるでも無くソファーに腰掛け、ジッと飯野を見つめる。


 「キティちゃん、具合はどう?」


 「……」


 「アッハ! 何よ泣きそうな顔しちゃって、今更仇討ちしないなんて言わないでよ? こちとらもう準備は済んでるんだから」


 「マリグナント、被害者を責めるな。魔人の凶行が無ければこの子だって」


 「なに? 此処に来る必要が無かったって言いたいの? 警察イヌのお巡りさん。元はと言えば貴男達が外に目を向けていなかったせいでしょ? 反論はある? ワンちゃん」


 「……返す言葉も無い。だが、魔人或いは九龍案件なら俺は命を賭して行動するつもりだ」


 「まぁ、貴男のことだけは信用してあげる。他の駄犬と違って本気だからね」


 「任せろ、これ以上魔人に一般人を殺させてなるものか」


 「期待してるわ、ワンちゃん」


 目を白黒とさせる飯野を一瞥した犬神は紫煙を燻らせながら、


 「ま、凸凹チームだけどこれから宜しく、飯野ちゃん」


 少女の不安を吹き飛ばすように、大きく笑った。


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