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呪印 上


 やっちまったな、あの娘さん。


 猿の脳を匙で掬った小汚い男がポツリと呟いた。


 馬鹿だねぇ、犬神の頬を引っ叩くだなんて。無知は罪、身の程知らずの馬鹿は生きていけないよ、九龍じゃぁ。


 痙攣する猫の皮をビリビリと引き剥がした老婆が暴れる四肢を斬り落とす。肉を剥ぎ、生き血に手を濡らした老婆は、プリプリと照る臓物を桶に放り投げると薄い笑みを浮かべた。


 ざわつく市場と集まる視線。少女の突き刺さる視線の数は裕に百を超え、その細く白い首から鮮血が噴き出る瞬間を心待ちにしているかのようだった。百の目を持つ妖が実在していたとしたら、それは嘲笑と興奮を胸に宿す民衆の瞳なのだろう。


 「……」


 不味いことをした。何が悪いかと言えば、頼らざるを得ない青年の頬を叩いてしまったこと。それも九龍最強最悪の魔人を。


 「ごめ」


 「あー、いいっていいって、いやぁ言い方が悪かった。すまん! 飯野ちゃん、別に俺は君の裸を見たいワケじゃない。呪印が何処に刻まれたか確かめたいだけだったんだよね」


 赤い手形が残った頬を擦る犬神は朗らかな笑顔を少女へ向け、殺気立つマリグナントを片手で制す。


 「血気盛んな娘さんだことで、マリーこの子はキティじゃなくてキャッツの部類だ。そう怒るなよ、お前もさ」


 「猫ちゃんなら私も好きよ? けど、無礼者は嫌いなのよね。少しは血を見た方がいいんじゃないの? 面倒なら貴男の代わりに分からせてあげるけど?」


 「分からせるのは馬鹿と阿呆だけにしておきな、堅気さんに手を出したら立つ瀬がないだろ? 俺達も」


 「お優しいこと」


 「俺は魔人の中じゃ一番優しいだろ? なぁ、相棒」


 「自分のことを優しいなんて言う人間が一番怖いのよ? ねぇ、犬神」


 含んだように笑い合い、真紅の中国酒を一気に煽った犬神は椅子から立ち上がる。ざわつく民衆は彼の行動一つで一気に散り、その場に残ったのは九龍に住みついて日が浅い人間のみ。


 「へ、九龍の掃除屋ってのも甘ちゃんじゃねぇか」


 「劉の大旦那が手ぇ出すなってんだからどんな奴かと思ったが……なぁんだ、ただの日本人か? いいや、おい掃除屋、劉の大旦那に付け。そうしたら」


 「飯野ちゃん、少し目を閉じてな。塵掃除しなきゃいけなくなったからさ。マリー、お前は……適当にモノでも食ってろ。暇だったら咲州さんに連絡を取ってくれ。九龍の魔人案件なら手伝ってくれるだろうからさ」


 「りょーかい。さ、キティちゃん、此処からは十八禁よ? お子様には刺激が強いもの」


 マリグナントの腕が飯野の両目を塞ぎ、耳に氷のような指先が突っ込まれた。熟れた果実を思わせる甘ったるい香りが九龍の臭いを掻き消し、スーツ越しから伝わる柔らかい乳房の感触が少女の頭を包み込む。


 暗闇の中で毛細血管の光りが炸裂し、微かに聞こえる叫び声が鼓膜を震わせた。身体をガクガクと震わせ、濃い血の臭いに吐き気を催してしまう。目の前で起こっている殺戮の情景に己のトラウマを重ね、耐え難い狂気を感じ取った飯野の頭に綺麗な声……歌が響く。



 獣呼んでは肉を食み。


 刃突き立て骨を断ち。


 彼岸超えては花散らし、命削って悪鬼が笑う。



 九龍の魔力か狂気の産物か———赤い線が瞼の裏を這い回り、点線の絵画を描く。喉の奥に溜まる臭気の中に鮮血の臭いが混ざり、マリグナントの甘い香りがスゥっと肺の奥へ空気を押し込んだ。


 「マリー、コレを劉に送り届けてくれ」


 「はぁ? 血の池を見せられても困るんだけど?」


 「処女の血でどうだ? それか童貞の血」


 「お生憎様、最近趣味が変わったのよねぇ。指三本分の血で手を打ってもいいわよ」


 「ならこいつ等三人分の血をくれてやる。後は任せたぜ」


 「はいはい」


 スゥっと腕の力が緩み、飯野の目が九龍の路を映す。新しい煙草を咥え、紫煙を吐く犬神の傍に立つチンピラ三人の瞳は宙に浮かぶ何かを見つめ、出来の悪い木偶人形のような足取りで人の波に姿を消した。


 「何が、あったんですか?」


 「ん? あぁ、少し躾をしただけだ」


 「躾?」


 「まぁな。あ、それと暫く飯野ちゃんに番犬を付けるから、そこんとこ宜しく。可愛いワンちゃんだぜ? 九龍じゃ俺の犬を見たらみーんな小便垂らして喜ぶんだからよ。涙を流してさ」


 「番犬って」


 重く、粘ついた唾液が飯野の頭に垂れ、獣の唸り声が頭上から響く。


 「———」


 絶句した少女の脳が即座に逃走を選択する。笑う足がもつれ、その場に倒れかけるが、身体に絡みつくマリグナントはワルツを踊るように飯野を支え「小夜曲セレナーデでも踊るの? それとも輪舞ロンド? 懐かしいわね、私も十年前に踊ったきりなの」と、冷え切った笑みを湛える。


 「あ、あれ、何ですか、アレはッ!」


 「なにって……俺の飼い犬だけど」


 「犬⁉ アレが⁉」


 六つの目に強烈な殺意を宿し、耳まで割けた口に曲がりくねった牙を生やす人間大の黒い獣。ぬらぬらと照った牙を染める鮮血は、生臭い唾液によって僅かに薄れているが斧を思わせる爪には人間の内臓が百舌鳥の早贄のように溜め込まれていた。


 「名前は……考えたことも無かったけど、便宜を取って黒狼とでも言おうかな。強そうだろ? 実際強いぜ? これで飯野ちゃんが新宿と九龍を歩いても安全ってワケ!」


 「あらあら、自分の飼い犬を貸すなんてどんな風の吹き回し? 戦力が一割減るじゃない」


 「たった一割だ。余程の馬鹿……今の惨状を見て手を出そうとする奴はイカれた人間か、四層の魔人共だろうな。なぁに問題があれば殺せばいい。シンプルな答えだろ? マリー」


 「それもそうね」


 ケタケタと笑ったマリグナントの顔を凝視する飯野の傍に黒狼が降り立ち、グルリと唸る。頻りに少女の匂いを嗅いだ狼は、剣山のような舌で飯野の制服を舐め、意味など無いと言った風でその白い柔肌を二人の魔人に見せつける。


 「い、いや、やめて……!」


 「……」


 「……」


 「な、何で黙ってるんですか⁉ 助けて下さい!」


 「いや、意外だなって」


 「えぇ、とっても」


 「どういう意味ですか⁉」


 「普通黒狼は人に懐かないんだよ、俺とマリーは別だけど。下手したら依頼人も食っちまう奴なのに……飯野ちゃん、お前相当運が良いな。少し呪印を刻ませろよ俺に」


 「犬神、貴男馬鹿なんじゃないの? の所有権を譲るつもり?」


 「譲らねぇよ、お守り代わりだ。さぁて何処に刻んで欲しい? 俺のおススメは目ん玉だな。黒狼を呼ばねぇ限りパンピーに見られる必要も無い。決定だ、マリーしっかり抑えとけ。俺の呪印は痛いからさ」


 「……仕方ないわね、ほらキティ暴れないの。黙らないと身体の血全部抜くわよ? 臨死体験でもする? ま、起きたら脳性麻痺になってるかもしれないけど」


 「誰か助け———」


 氷水に浸けられたような寒気が全身を駆け抜け、呼吸が浅くなる。重くなる瞼が飯野の意志とは関係無しに閉じ、曇った瞳が見た最後の光景は掌に鮮血の塊を集めるマリグナントの姿。



 血、血、血———真っ赤なお花が城に咲く。


 赤の女王、白の花弁に紅塗って、黒になっても成り切れず。


 選んだ姿は嘘吐き百合、諦めないと胸震え。


 どうして? なんで? 私を見て? 


 魔人になった、紅女王。今日もおててに血を溜める。



 綺麗な声……少女が鞠を蹴りながら歌う不気味な歌。意識を手放そうとした飯野は、犬神の後ろで笑う顔の無い少女を見つめ、眠りに落ちた。


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