天井から染み出る水滴が玉となり、少女の頭に滴り落ちる。
湿ったコンクリートの独特な臭いが鼻孔を突き、喉の奥に溜まった空気がゆっくりと肺に落ちる。重苦しく、冷めているようで熱っぽい奇怪な空気……せり上がる胃液を飲み込み、荒い息を吐き出した少女は、己とは打って変わって軽やかな足取りで通路を歩くマリグナントを睨む。
「パンピーにはきついかもね、九龍の空気ってのは」
「……」
「あ、パンピーって何の略語か分かる? 一般ピープル、日本語と英語が混ざり合った和製英語だと私は思うのよね。イエローモンキーとシロンボの混血児、言葉の異人種交流って素敵だと思わない? ねぇ、サクズちゃん」
お前の方こそシロンボ……異人の類いではないか。滑った壁に手を着き、堪らず黄色い胃液を吐き出した少女は「サクズではなく……私の名前は、飯野神楽です。馬鹿にしないで下さい、九龍人」苦し紛れに異を唱える。
「そ、私は九龍人であり、その中で生きる魔人の一人でもあるのよね。そして貴女は何だっけ? あぁ、雨に濡れるのがお好きなただの女の子だったかしら。売り言葉に買い言葉、江戸に咲くは喧嘩と大火の大花火。私は別に気にしないけれど、九龍じゃ言葉に気をつけなさいよ? 死にたくなければね」
「……いいんですか? そんなことを言って」
「なにが?」
「新宿区警察署……武装警察官が突入して来ますよ? この九龍に。それは貴女のような魔人でも嫌だと思いますが」
「アッハ! あの腰抜け達が何だって? 嫌ねぇサクズ……いえ、キティちゃん。武装警察官が怖くて九龍で商売ができるとでも? 一つ良いことを教えてあげる。九龍じゃ金を払えば何でも買えるのよ? それこそ他人の命だって、金のインゴットで売買されているんだから。お優しいお姉さんの言う事は真面目に聞かなきゃ駄目よ? ね、キティ」
翡翠の瞳に狂気が陰り、白く鋭い犬歯が覗く。薄い桜色の唇を舐める真っ赤な舌先に、不夜城で眠る吸血鬼の姿を重ねた飯野はヒッと息を止め、両の腕で身体を抱いた。
「そう怖がらないの、魔人の中じゃ本当に優しいのよ? そこらのロクデナシと一緒にしないで欲しいわね、全く」
「……」
「嫌ね、思い込みが激しいのは嫌よ本当に。処女を喪った生娘じゃあるまいし、ただ歩くだけじゃない。なに? 後ろの穴も一緒に貫通されたワケ? 貴女の歩き方、蛙みたいに醜いわ。顔は可愛いのに、残念ね」
冷たい腕が少女の脇腹に差し込まれ、熱を滾らせた妖しい瞳と視線が重なり合う。稚拙なステップを踏む淑女をエスコートするように、九龍の汚泥を靴底で踏み潰したマリグナントは仄暗い通路から、色とりどりの電灯が煌めく異形の大市場へ歩を進める。
「———」
絶景を見た人間は暫し言葉を失い、その目に至上の景色を焼きつけると言う。
「———ッ!!」
だが、地獄の市場を現世に持ち込んだ景色は悪夢とも言えようか。饐えた胃液を口角から垂れ流し、数多の人間の臭いと奇怪な料理の香りが入り混じった空気に目を回す飯野は、路に転がっていた猿の脳を踏み付け声にならない悲鳴を上げた。
揺らめく蝋の炎が香を焚き、煙草の紫煙と絡み合う。くるりくるりと尾を交わし、干乾びた猿の頭が狂い叫ぶ。吊られながらも鎖こそが我が肉身であるのだと、萎み腐った眼球は死を見る第三の目であるのだぞ———と。
東京九龍地下第一階層、そこは奇妙奇天烈異食文化が立ち並ぶ地獄の大市場。線虫の麺を啜り、蟷螂の腸から飛び出す寄生虫こそ美味であると豪語する狂人の宴也。淡い行燈の灯りを塗り潰す電光看板と、決まった順序で流れゆく言語の波……鼠の串焼きを頬張り、ゴキブリの唐揚げを割いた初老の男は、マリグナントの姿を視界に入れるとジャケットを羽織る青年の肩を叩く。
「兄ちゃん、アレ、アンタの連れじゃないか?」
「ん? あぁ、うん、俺の助手だね、ありゃ」
「殺されるのは御免だぞ? 俺ぁまだ最高の珍味に出会えていないんだからさぁ」
「悪いな
「あいよ、今後とも御贔屓に……掃除屋さん」
「連れないねぇ、そろそろ犬神って呼んでくれてもいいんじゃない?」
「冗談」
煙草を口に加え、ジッポライターで火を付けた青年……最強最悪の魔人と恐れられる九龍の掃除屋、犬神宗一郎はゴキブリの足を千切り、バリバリと咀嚼する。
「よぉマリー、なんだ? 捨て猫でも拾ってきたのか? 厭だねぇ、ウチはペット禁止だぜ? 捨ててこいよ、今回は大目に見てやるから」
「失礼ね犬神、私だって好き好んで子猫を拾ってきてるワケじゃないのよ? この子、貴男に用事があるんだって、魔人の件で」
「へぇ」
露天に並ぶ蛇の黒焼きを一本手に取り、頭から噛み砕いた犬神はジロジロと飯野を見つめ、彼女の内で渦巻く激情を鼻で笑う。
「まぁ、話だけは聞いてやるか。俺だって人間だ、君のような可愛い子ちゃんと話ができるなら大歓迎だぜ? 座れよ、子猫ちゃん」
丸椅子が引かれ、合成皮が剥げたクッションを犬神がポンと叩く。多くの九龍人の視線が飯野に突き刺さり、言い得ぬ圧力を感じた少女は無言で椅子に腰を落とした。
「子猫ちゃん、名前は?」
「飯野……神楽です」
「職業、年齢、性別、巣を教えてくれ」
「巣?」
「言い方が悪かったな、住所だよ。ほら、九龍ってば上が居住区で、下がこういった市場だからさ、それで俺も巣って言っちゃうんだよ。悪いね」
話しやすい雰囲気を醸し出しつつ、人の首根っこを引っ掴む黒い瞳。九龍を巣と例えたように、飯野もまた彼の言葉に納得してしまう。
地下にこういった市場が広がり、常識を超えた飲食店が立ち並ぶのならば、上層に積み上がった歪で不格好な建築物は九龍人の巣とでも言えようか。腹が減れば巣から地上へ降り立ち、必要ならば地下へ行って空腹を満たす。故に巣と狩り場。犬神から得体の知れない串焼きを投げ渡された飯野は、ドギツイ臭いに顔を顰める。
「住所は港区、年齢は十六、性別は見ての通り女。職業は学生です。今回は」
「魔人の件だってのはマリーから聞いた。他区の人間が新宿に来たってので大体察しはつく。で、君は俺に幾ら出す」
「……」
「掃除屋ってもタダじゃないぜ? 当たり前だ、
逡巡する飯野とは別に、マリグナントが犬神の腕に絡みつき、
「そういえば犬神」
「ん?」
「
「おいおいマリー、咲洲さんはタダのイヌじゃないぜ? あの人は狼さ、他のワンちゃんと一緒にするのは失礼ってもんだ」
飯野の手から串焼きを引っ手繰ると肉を食い千切り、湧き出る血を舌先に滴らせた。
「……五千万」
「はぁ」
「五千万円あります。証拠も一緒に持ってきました」
記帳された通帳を鞄の底から抜き、無機質な数字が書かれたページを犬神に見せる。飯野の唇から真っ赤な血が流れ落ち、少女の手の甲に赤い点を残して。
「これで……家族の仇を討って下さい。もし足りなければ何でもします。学校を辞めて払い手でもお金を払いますッ! だから、だから! お願いします! アイツを……あの男を殺して下さい! その為なら」
「いいぜ」
「身体だって……え?」
「けど塵相手に五千万は高いなぁ……よっしゃ手を打って百万円だ! まける代わりに飯野ちゃん、俺のお願いを一つ聞いてくれるかい?」
「あ、え、はい……」
「服、脱いでくれるかな?」
瞬間、九龍の市場に乾いた音が響いた。