アスファルトにぶちまけられた吐瀉物が雨に流れ、ゴミ袋を啄むカラスが三度跳ねると電線へ飛ぶ。酒瓶を抱き、顔を真赤に染めた浮浪者の老人がブルリと身を震わせ、ゴミ山の上で眠るサラリーマンの懐から財布を抜き取った。
厚い黒革の長財布を開き、万札を抜き取った老人はにんまりと笑い、ポケットに紙幣を押し込む。今日は良いことがありそうだ、コンビニで鬼殺し……いや、お高いウィスキーでも買って身体を温めようか。上機嫌に口笛を吹き、財布を排水口へ投げ捨てようとした老人の目に、梵字が刺繍された黒巾着が映る。
梵字の黒巾着……それは人を呪い殺す為の呪物。新宿区の歓楽街で夜を明かす者が必ず身につけている九龍の生産物。他区から流れ着いた浮浪者の老人が九龍の存在を知っていても、呪物の存在など知りもしない。いや、長く新宿区で暮らす浮浪者である程無防備に眠っている人間に手を出さないのだ。命が惜しい故に。
巾着の結び目が緩み、袋が開く。ずるりと這い出た黒い靄はたちまち老人の首に纏わりつくと驚異的な力で締め上げ、乾いた唇の隙間に入り込む。
この世のモノとは思えぬ至上の快楽が脳の隅々まで駆け巡り、萎えた細胞が燃え滾る。衰え老いるばかりの身に滾る熱き力を本能で感じ取った老人はゲタゲタと笑い転げ、アスファルトに溜まった汚水に我が顔を映す。
「―――」
息を飲み、絶句する。
「―――」
快楽とは裏腹に、汚水に映る顔は醜く溶けていた。まるで炎に炙られる牛脂の如く肉が皮膚と共に滴り落ち、真っ白い骨が見えるではないか。
「お前さん、馬鹿だねぇ」
四肢が付け根からボトリと落ちた瞬間、老人の頭に衝撃が奔る。ゴロリと転がった首が見た光景は、老人のポケットから万札を抜く眠っていたサラリーマンの姿。
「欲の皮を突っ張ると碌なことがない。先人に教えて貰えなかったのか? あぁ、他区から来た人間においそれと新宿の事を教える阿呆はいないか。うん、なら仕方ない。冥途の土産だ、俺が教えてやろう」
サッカーボールのように老人の頭を蹴り、財布を拾ったサラリーマンは巾着袋の尾を閉じて、
「九龍が存在する新宿で悪さをするのなら、命を賭けろ。魔人に食われても文句を言わず、犯罪に巻き込まれても頭を垂れ、保護を求めるのならば城塞の波に紛れるべし。外の常識は此処じゃ通用しないんだぜ? 魔境へようこそ、不心得者」
ガァと鳴いたカラスを見上げた。
東京都新宿区、またの名を東京九龍魔境都市。夜の花が芽吹かずとも、電光掲示板の河が流れずとも、魔都と呼ばれる都市は闇に咲く蓮の花。新宿歌舞伎町一帯にそびえ立つ禍々しき城塞は、物理的に隔絶された新宿の新たなる支配者であると同時に区を異界たらしめるのだ。人を誘い、喰らい、飲み込む為に。
肉と血が入り混じった人の液を踏みつけ、帰路に着くサラリーマンは欠伸を掻くと視界の端に一人の少女を映す。黒い艷やかな長髪と、少しだけ草臥れた学生服。さめざめと降り注ぐ雨の中を傘も差さずに立ち尽くす少女はボゥっと曇天を見上げ、その姿は道を見失った旅人の様。
別にどうでもいいことだ。己が手を下さずとも、あの娘は長くない。日が昇っていようとも九龍の狂人は活きの良い人間を探し求めるのだから。生きたまま臓物を路に晒し、乾いた生首の一つとして商品棚に陳列されるに違いない。堅気を九龍の贄にしたところで己に何の利益も無い。それどころか九龍の掃除屋……最強最悪の魔人に目を着けられる可能性の方が遥かに高い。
ブルリと全身に悪寒が奔り、暴虐無比な力の権化に背筋が凍る。九龍の魔人はどいつこいつもイカれてる。人殺しであればまだ優しい。本当の魔人を見たことが無い人間は殺しと聞くだけで顔を青褪め、唇を震わせる。
だが、サラリーマンが一度だけ見た本物の魔人の殺気は尋常成らざるものだった。今思い出しても足が竦み、頭を抱えて狂ってしまいそうな程の恐怖。それが九龍の掃除屋……犬神宗一郎。バクバクと脈動する胸を押さえ、少女を一瞥した男は意味の無い念仏を唱える。
「貴男」
「―――」
「九龍の呪物を置いて行きなさい、そうしたら見逃してあげる」
凛とした女の声。ふと顔を上げたサラリーマンの目の前に立っていたのは黒スーツを着た絶世の美女だった。
「掃除屋の標的に成りたいのなら話は別よ。まぁ、貴男程度の小物なら私一人で十分なんだけど……どうする? いっぺん死んでみる? あぁ、楽に死ねると思わないことね」
雨粒が滴る金髪を掻き上げ、翡翠色の瞳で男を見つめた女のことを彼は知っている。知っているからこそ身動きが取れないでいた。
「マリグナント……スエーガーッ!!」
「驚かれるのも慣れたものね……厭だけれども。三秒だけ待ってあげる。その間に」
逃げるが勝ちだ。脱兎の如く逃げ出した男を一瞥した女……マリグナント・イェラ・スエーガーは下らないと溜息を吐き、少女の近くに歩み寄る。
「寒くない?」
「……いえ、大丈夫です」
「そう? 貴女がいいのなら構わないんだけど……私は寒いわ。早く事務所に帰って温かい珈琲でも飲みたい気分なの」
「勝手にして下さい。人を待っていますので」
「残念、可愛い子にフラレちゃった。けど、その人は来ないと思うわよ?」
「なんでそう言い切れるんですか」
「だって、私は貴女が探す掃除屋の助手だもの」
大きく見開かれた少女の瞳がマリグナントの端正な容姿を映し出し、掌をギュウと力強く握り締めた。
「で、ご要件は何? 殺し? 誘拐? 詐欺? それとも」
「仇討ちです」
「へぇ、それまたヘビーなことで。ま、犬神に用がある人間の大半はそれだけれど……あぁ何か話そうとしているのなら結構。言ったでしょう? 寒いのよ私は。雨空の下で話しをする程酔狂な人間じゃないのよ。ごめんね?」
深い憎悪と轟々と燃える憤怒の炎……。少女の瞳から狂おしい程の狂気を感じ取ったマリグナントは、その感情を鼻で笑い一蹴する。
「貴女に私の何が分かるんですか」
「分かる筈ないじゃない。他人なのよ? なに? エスパーか何かだと思ったの? 嫌ね、賢そうな見た目でメルヘンチックな子は」
「だま」
「黙るのは貴女の方よ? 此処はもう九龍の一部。貴女が生きているのは私が居て、他の魔人もそれに勘づいているから。もし私と戦っても、どうせ最後には犬神が来て殺される。死にたくないから様子を見ているの。分かりなさいよ、サクズちゃん」
手をヒラヒラと振り、少女の立つ九龍城塞……異様に黒い壁を撫でたマリグナントは厭な笑みを浮かべ、
「ようこそ、九龍へ」
仄暗い闇に包まれた通路へ足を踏み入れた。