「マリグナント」
「なぁに? ワンちゃん」
「……落下物の解体は」
「あぁ、その程度のことなら問題無いわ。堕慧児が生み出すと云えど、結局は九龍の一部分。犬神の仕事道具以外なら私でも解体可能よ」
「そうか、なら頼む。あとは」
「言葉は多く語らない方がいいわ。分かってる。私、お気に入りには結構融通を利かせるのよ? 咲州警部」
「飯野ちゃん」
「……」
「どうしたらいいのか分からないって顔ね、困った子犬みたいよ? 今の貴女」
俯き沈んだ飯野の表情は心を完璧に破壊された廃人のようで、少し背中を押せば自死を選び取ってしまいそうな程に憔悴していた。その様子を見た咲州は無理もないと呟き、冷え切った少女の肩にスーツの上着を羽織らせる。
「……飯野さん」
「……」
「今の君には二つの選択肢が残されている。一つは九龍や魔人に関することを忘れて、日常に戻ること。二つ目は……マリグナントの力を借りて、飯島三郎の記憶を見ることだ。俺個人の意見を言うとしたら、全て忘れてしまった方が君の為になると思っている」
魔人によって何もかもを破壊され、呪いを生み出す元凶である九龍を憎む人間は少なくない。復讐の為に力を手に入れようと足掻き、やり直す為の時間を犠牲にする被害者を多く見てきた咲州は少女が九龍と縁を切ることを願う。
「飯野さん、俺は」
「……刑事さんには、何ができたんですか」
「……」
「結局魔人を倒すには、九龍の力が必要なんですよね? 刑事さんみたいな普通の人間は魔人を裁けない。倒すことだって、事件を未然に防ぐことだって出来ないじゃないですか。なら私は……魔人を殺す為に」
「何だってやるの? 人を喰って、精神を穢して、不幸をばら撒こうって言うつもり? 飯野ちゃん、悪いことは言わないわ。
肉塊に牙を突き立て、血を啜ったマリグナントが飯野の顔を両手で掴み、ジッと両の目を向かい合わせる。
「涙も流せずに、大切な何かを失って、代償を払う為の手段さえ分からない。
「……説教ですか?」
「事実を伝えているだけよ? 違うと思うなら私の目を見て話しなさい。目線を逸らさずにね」
翡翠の煌めきが蠢き、濁流となった鮮血が瞳の中で弾け飛ぶ。目を逸らそうとも視線はマリグナントへ吸い寄せられ、瞬き一つできずに飯野は荒れ狂う血の中へ意識を飛ばされる。
キリキリと、指を絡めて糸手繰り
キシリキシリと鳴り響くは、骨が軋む琴線歌
手繰る指をくるりと回し、肉が弾けて血が滴り
ばぁと開けば手足が飛んで、首落ちた
人の死肉を貪り喰らい、糸の魔人は血溜まりにて踊り狂う
願った祈りは愛の諦念、望んだ結果は想いの決別
糸が叶えし願望は———死による別離と狂愛の再燃
糸が求めし代償は———愛による殺戮也
キーを叩く手を止め、ビルの隙間からゆっくりと沈む夕日を見る。
冷めたコーヒーを一口啜った俺は舌の奥に残る強い苦みに眉を顰め、夕照に濡れるガラス瓶へ手を伸ばす。
苦味は嫌いではないが、好きでもない。コーヒーを飲むのだって集中力を持続させる為。煙草の箱から曲がりくねった煙草を摘み出した俺は、黒い水面に角砂糖を一つ入れるとフィルターを咥え、火を点ける。
細い紫煙がゆらりと踊り、リビングファンの羽に切り刻まれた。息を吸う度に真っ赤な火種が燻り灯る。スリム・ロング・フィルターの煙草は五回燃えれば灰と化し、草臥れながら身を崩す。燃えて、赤熱して、最後は真っ白になって尽きる。その様は命を削って働く社会人のようにも見えた。
ポンとチャット・メールがディスプレイに浮かび上がる。カーソルを重ね、メールの内容を確認した俺は部下の業務状況を纏める。
「……」
心にポッカリと穴が空いたような気分だった。それなりの企業に務め、平均以上の給料を貰い、それなりのポストに座す。成功者と呼べる人間とは呼べないが、競争社会の敗北者とも言えない立場。都内のマンションで煙草を燻らせ、暇な時間を全て趣味へ捧げる人生はよく羨望の眼差しを向けられる。
だが、それでも心の隅に空いた穴は埋められない。自分よりも優れた兄を持ち、欲しいものを手にした人間を目の当たりにすれば俺の人生など幼稚で空虚なものだ。高校卒業から彼女と付き合い始め、大学卒業と同時に籍を入れて模範的な一般家庭を築いた兄は俺よりも人間的な魅力に溢れている。
彼女……飯野美奈、旧姓十六夜美奈。艷やかな黒髪と儚い横顔が印象的な女性。俺の一つ上の学年で、兄と同級生だった初恋の人は晴れて恋人と結ばれ、幸せな家庭を築くことに成功した。結婚式の日は両家の親族が集まり、二人の新しい門出を祝福したものだ。
額縁に飾られた美奈と兄の写真へ目を移し、姪の写真を眺めた俺は苦いコーヒーを飲む。
多分……俺は彼女がずっと好きだった。ウェディングドレスの美奈、妊娠中の美奈、第一子を抱いている美奈……。歳を経るごとに美しさを増し、綺麗な笑顔をカメラのレンズへ向ける彼女は何処か神秘的で、この世ならざる者のようにさえ思えた。
恋愛に臆病だった俺は人間性と理性を言い訳にして想いを隠し、駄目で元々と言った兄は恋心を勇気に変えて彼女の心を手に入れた。兄ならば美奈を幸せにしてくれると思っているし、援助が必要ならば俺は金を惜しまないつもりでいる。実らない恋を引き摺りながら醜く縋ろうとしている哀れな男。それが俺、飯島三郎だ。
「五月も終わりか。来月は確か……あぁ、神楽ちゃんの誕生日だっけ? プレゼント、買わなきゃな」
何でも無い独り言を呟き、PCの電源を落とした俺は椅子を回して立ち上がる。
飯野神楽。飯野家では一番の末っ子で、姉の雫に甘えたがりの少女。正月に会ったきりで俺のことを覚えているか不安だったが、もし忘れていたとしても兄と美奈に頼んでプレゼントを渡して貰おう。タブレット端末から通販サイトを開き、ソファに寝そべった俺は空の灰皿へ煙草を捨てる。
「香水、化粧道具、ポーチ、バッグ……。まだ高校生だもんなぁ、あんまり高いモノ送っても仕方ないし……」
下へ下へと画面をスクロールする途中、広告バナーを誤って踏む。爆速で飛んだサイトはなにやら怪しげな別の通販サイト。横へ指を滑らせ、前のサイトへ戻ろうとしても何故か画面は動かない。
「フリーズか? 五年前の端末だし……買い替え時かな」
端末の電源ボタンに触れた手が止まる。
普段ならこんなサイトの商品を買おうとも思わないし、馬鹿げていると鼻で笑っていたところだろう。だが、一つだけ、赤い糸を紡ぐ糸繰り具を目にした俺は無意識に商品ページへ飛んでいた。
「……」
過去をやり直したいと思ったことはありませんか?
我が社が提供する糸繰り具ならば失った時間を手繰り寄せ、その過去を無かったことにできましょう。
淡い恋心、禁断の愛、あり得なかった恋愛……。この糸繰り具は貴男の為だけにあり、素晴らしい結果を授けます。
気になったのなら直ぐにご連絡を。
不思議な品、売ります。
クラフト・ヴェンディング商社
「……」
スッと指が購入ボタンをタップし、契約完了の文字が表示される。
何をやってるんだと慌てても遅い。プツリと端末の電源が落ち、深い溜息を吐いた瞬間「ご成約ありがとうございます」と耳元で女の声が響く。
「ッ!?」
「あー、そう驚かないで下さいね? 私、クラフト・ヴェンディング社の者で御座いまして……この度我が社の品を直接届けたいと思い、こうして参上した次第であります」
黒衣を纏ったフード姿の女は深々と頭を下げ、懐から小箱を取り出し俺の手に握らせる。
「ご注文の商品でございます。これは我が社の職人が作り出した至高の逸品。使い方が分からずとも、糸繰り具を指に嵌めさえすれば直感的に理解できましょう」
「き、君は」
「祈祷者。クラフト・ヴェンディング商社を利用するお客様は私どもをそう呼びます。我が社の商品は秘蔵にして秘匿された品……飯島様がどう使おうが、どんな結末へ至ろうが、それは全てなるべくしてなったこと」
糸繰り具を丁寧に俺の指に嵌めた女はクスクスと笑い、
「素晴らしい感想を期待しております……飯島様」
と俺の背を叩く。
「……」あの時勇気を出していれば美奈は俺のものになっていたのかもしれない「……」そもそも兄よりも俺の方が先に彼女を好きになっていた筈で「……」アイツは美奈を誑かしたに違いない。
キリキリと、指を絡めて糸手繰り
キシリキシリと響き渡るは、骨が軋む琴線歌
手繰る指をくるりと回し、肉が弾けて血が滴り
狂った果実と割けた欲、糸が手繰るは別離の望み
願いは悲恋、祈りは破綻。やり直しなど夢物語、見えて届くは虚ろの現世
糸の魔人は―――此処に在り
透き通るような少女の声が脳に響き、腹の底から得体の知れないドス黒い感情が込み上げる。
そうだ、こんな現実は間違っている。美奈は……あの女は俺のモノだ。俺の女を誑かした男なんて死んで当然、女が産んだ子供をどうしようと俺が決めること。
「では、いってらっしゃいませ飯島様……人繰り糸の魔人。今こそ貴男様から全てを奪った男を殺し、望んだ女を手中に収めるべきです。貴男にはその権利があり、義務が与えられ、責務がある。故に」
俺は糸を操り女の首を刎ねる。窓ガラスをぶち破り、風を切りながら疾走するとビルの隙間を縫うように駆け抜けた。
「後の苦しみは、計り知れない程に重いのです」
女の最後の声を聞き流し。
「あぁそれと……見ているのですね? マリグナント・イェラ・スエーガー。万魔殿の裏切り者、首輪付きのヴァンパイア……。何時から見ていたかとは問いませんが……覚悟しておきなさい。貴女の心臓は必ず私が貫いて差し上げましょう」
女の首から肉腫が這い出し、胴体と繋がり癒着する。冷静さを装いながらも煮え滾る憎悪を露わにして。
「此の度の間隙はこれにて仕舞い。紅女王の瞳を介する観客よ、お眠りなさい。貴女には
立ち上がり、優雅に礼をする女を最後に、血の濁流に飲み込まれた飯野の意識は闇の底へと落ちてゆくのだった。