目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

最恐最悪

 犬神の足が一歩進むごとに堕慧児から湧き出す意図が揺れ動く。


 最恐最悪の魔人、九龍の掃除屋、魔人の天敵、捕食者……様々な異名を持つ犬神の実力は飯野にとって未知数であり、マリグナントがどれだけ彼の脅威を説いたとしても到底信じられるものではない。


 黒狼を多数従えられると言っても数には限りがある。漆黒の玉が嵌められた指輪を撫でたからといって、スーパーヒーローのような力を瞬時に引き出せるワケでもない。丸腰のままどうやって堕慧児と戦うのだろうか。生唾を飲み込み、犬神の後ろ姿を眺めていた飯野は右目に違和感を覚え、線のように流れ出た血を掌で拭う。


 「神楽さん」


 「……はい」


 「復讐を成すべきか、仇を討つべきか。アレコレ君に選択を迫ったけど、俺はマリーと同意見だ。やれるならやるべきだし、やれないなら頭を使って何とかする。殺しを諦めて苦汁を飲むよりはその考えの方がサッパリしてる」


 地を這う無数の糸が犬神の身体に突き刺さり、血を啜りながら肉体の主導権を奪おうとただひたすらに喰らう。精神を狂わせ、神経を焼く真っ赤な糸。


 キリリ―――と糸が嘶き血に濡れる。


 キリキリ―――と骨を喰らい付いては髄を食み、肉に絡んで筋を結ぶ。


 「だけどさ、俺は思うんだよね。そんな方法で気を紛らわせても、心に残るのは痛みだけなんだ。何時まで経っても血は止まらないし、傷も塞がらない。正直……俺はそんな思いをさせたくはない、できるだけさ」


 軋む腕を曲げ、彼には似合わない可愛らしい煙草ケースを取り出した犬神は、綺麗に並べられた煙草を口に咥え、指を鳴らして火を着ける。


 「だったら、私はどうしたら良かったんですかッ⁉ 何をしたらよかったんですか!! 貴男のように、マリグナントさんのように強くもないのにッ!!」


 「だから人間らしく泣くんだよ。俺達が……魔人が失った涙を君は流すことができる。人間らしく悩んで、迷って、人として戦うことができる。俺みたいなロクデナシができることは、飯野ちゃんや咲州さんの手伝いだけさ。こうやって、ね」


 紫煙と共に犬神の身体から黒炎が吹き上がり、彼の身体を貫いていた糸が焼き焦がされる。糸という物質が存在しなかったように、文字通り塵も残さず灰燼に帰した犬神は歩を進め、飯野を一瞥すると少しだけ笑った。


 「ッ!!」轟々と燃え盛る炎が飯野の頬を撫で、血の涙を拭う「―――え?」火傷の痛みに身構えたのも束の間、炎の熱は温かく「熱くない……?」彼女の血を燃料にして激しく燃え狂う。


 「一分だ、一分で片を付ける。肉片が残っていればそれで上々。だからよ……消えてくれよ俺の目の前から。テメエの姿なんぞ見たかねぇんだよ、俺はなッ!!」


 腕に炎を集め、大きく薙いだ瞬間、罅割れた緋色の剣が握られる。


 「目障りだ、鬱陶しい、邪魔くさい……。九龍の堕慧児、貴様が生きる場所は地上(ここ)じゃない」


 自身の落下物の剣先を堕慧児へ向けた犬神は、背後に黒の壁を形成すると獣主の指輪へ呼びかけ、


 「来い、飢餓の獣。喰らい、潰し、腹を満たせ」


 空腹に泣き喚く666匹の黒狼を九龍第五層から召喚する。


 濃厚な血の臭いを振り撒き、臓物を喰む咀嚼音が鼓膜を叩く。ヌラヌラと照った剣山のような体毛を蛍光灯の明かりに煌めかせ、八つの目玉に獰猛な殺意を宿した黒狼の大群は糸を一噛みで食い千切り、爪牙を以て断ち切り狂う。


 「ッ!!」


 右目が燃えるように痛み、濁った血が溢れ出る。


 「いった……ッ!」


 ヌルリと這い出た漆黒の爪、瞳に刻まれた呪印を介して六つ目の黒狼が顔を出す。喉を鳴らし、唾液を垂れ流す獣が勢いよく飯野の右目から飛び出すと犬神の隣に立つ。


 「テメエは神楽さんを守りな、この程度の堕慧児なら俺一人で十分だ」


 僅かに……ほんの少し頷いた黒狼は牙を剥き出しにしながらも飯野の前に跳ぶ。


 大丈夫なのかとマリグナントに問う必要は感じられなかった。加速度的に糸を減らす黒狼の大群を従え、黒炎で死体を焼き払いながら進む犬神に心配など不要。


 罅割れた刀身から緋色の炎が噴き上がり、黒炎と混じり合う。堕慧児がどれだけ糸を吐き出そうと、彼の身体を操ろうと足掻いても、その行動自体犬神は許さない。黒緋の刃を振りかざし、一気に振り下ろした犬神は警察署の地面ごと堕慧児を両断すると、


 「地下へ帰りな、テメエの顔なんざ見飽きたんだよ」


 薄い紫煙を吐き出した。


 「―――」


 圧倒的な力を前にした時、人は何を考えるのか。


 「―――」


 羨望、嫉妬、恐怖……。様々な感情を胸の奥で抱え込み、現実離れした光景から目を背けることが出来なかった飯野は生唾を飲む。


 緋色の剣を携えたまま首を鳴らした犬神が飯野へ視線を寄せ、苛ついたように舌打ちをする。暗い瞳に憎悪と憤怒を宿したまま。


 「……で、これがテメエらの求めた結果か? 塵屑共」


 「―――え?」


 「マリー」


 「えぇ」


 刹那、鮮血の刃がデスクを斬り裂きながらマリグナントの背後へ飛ぶ。黒狼もまた牙を剥き、舞い散る書類の中へ駆け出した。


 何が起こったのか理解できないまま視界が回る。叫ぶことも出来ず、ただこの混乱に流されていた飯野の目に黒衣の男の姿が映った。


 「……流石は九龍の掃除屋、九龍に愛されし者。五年経ってもその牙は衰えず……いや、更に研がれていると見るべきか。あれから何人の魔人を喰らい、人間を餌にした? なぁ、犬神宗一郎」


 「さぁ? 覚えていないね、そんなこと。ブチ殺してやろうか? 培養管」


 黒狼が一斉に黒衣の男へ飛びかかり、血肉を貪り、骨を砕く。肉片と化しながらも培養管と呼ばれた男は不敵な笑みを浮かべ、仮面の奥から血で濁った声を発する。


 「計画を見直さねばならん。未だ罪悪の牙は手折れず、九龍は尚も此処にあると、皆に伝えねばならん。なる程どうして……貴様は未だ血を流す」


 「テメエらが居るからだよ、全員今すぐ死んでくれたら楽なんだけど? 俺もさ」


 「……正しき解は此処に非ず。否、誤りを探すことすら無意味。掃除屋……復讐者よ、九龍の罪を体現する者よ……彼女は」


 男の身体を炎が包み込み、骨の一片も残さず焼き尽くす。煙草の吸殻を燃やし、やってしまったと自嘲した犬神は堕慧児が残した異物を拾い上げる。


 「エリー、後は頼むわ」


 「あら、飯島の記憶を見なくてもいいの?」


 「いらねぇよ、そんなもの。死んじまった奴の記憶を見ても仕方ないだろう? 飯島の残り滓……糸繰りの落下物はお前が分解しておいてくれ。もう二度と現れないように、徹底的にな」


 「貴男はどうするの?」


 「俺は五層に行ってソレを生み出す堕慧児を殺す。ざっと見て百人くらい喰ったんだ、力を付ける前に処理しておいた方が楽だろ?」


 「それもそうね、行ってらっしゃい」


 無言で手を振った犬神は黒狼を九龍へ戻し、自身もまた空間に形成した扉を開く。


 仄暗い闇に包まれ、切れかけた蛍光灯が明滅するコンクリート通路。奇怪な生物が犬神の前を駆け抜け、それを一瞬で焼き払った青年は緋色の剣を片手に九龍第五層へ向かう。


 「咲州さん」


 「……何だ」


 「後のことは頼むよ。人間の世話は同じ人間しかできないからさ」


 「分かった、任せろ。お前は……お前のできることをするんだな?」


 「うん、なんたって俺は最恐最悪の魔人で、九龍の掃除屋だからね。じゃ、全部終わったら事務所で会おう。またね、咲州さん……それと、神楽さん」


 犬神と黒狼が去ると同時に、警察署はさも戦いなど無かったと云わんばかりの静寂に包まれた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?