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人繰り糸 下


 腹の奥から酸っぱい胃液がせり上がる。


 無惨に転がった生首とぬらぬらと照った臓物の海。あの日の悪夢……飯島三郎に家族を惨殺され、目の前で姉を犯された光景が飯野の脳を冒し穢す。


 「よぉ魔人、いや、使い捨ての木偶人形って言った方がいいか? まぁどうでもいいか、そんなこと。気持ちいいかよ、無意味な殺しがさ」


 椅子に腰かけ脚を組み、煙草の紫煙を燻らせた犬神が心底下らないと飯島の凶行を鼻で笑う。


 「……犬神宗一郎、九龍の掃除屋……貴様が神楽ちゃんを誑かしたのか? 美奈さんを俺から奪った兄貴のように、貴様等はまた俺から女を奪うつもりかッ⁉」


 「狂ってんねぇ。第一神楽さんはお前の女じゃないし、まだ二十歳にもなってないガキだぜ? そんな子を孕ませるだとか、子を産んでくれとかさ、気持ち悪いんだよ……お前」


 リン―――と鋭い糸が犬神の腕を貫き、木の根のように皮膚を這う。体内の血管になぞるように神経系を糸繰り具と繋げた魔なる糸は、九龍最恐最悪の魔人と呼ばれる犬神の身体をいとも容易く支配下に置く。


 糸繰り具……落下物の使用方法は理性と本能が直感的に理解していた。


 兄を天井に吊るし、四肢を断ち斬った血の快楽。


 愛していた女を縛り上げ、表情筋を弄びながら肉を抉る愉悦。


 そして、抵抗と従順を交互に強い、若い身体を犯した情欲。


 糸繰り具は飯島の願望を叶え、それに見合った対価を要求する。何を支払い、何を得たか……それは飯島本人でさえ理解し得ぬ狂気の畔。ただ一つ分かることは、己はやはりあの一家を愛していたと同時に、憎しみに焦がれていたという事実。張った糸を手繰り、犬神の腕を動かそうとした飯島は胸の奥から湧き出る殺意に酔う。


 「おい」


 糸を引きながら薄ら笑いを浮かべる飯島へ、犬神の暗い瞳が向けられる。


 「どうしたよ? 何かしたか? 俺に」


 「は?」


 「糸繰り具の落下物はさぁ……前の持ち主ならもっと上手く使ったぜ? 何だっけなぁ……あぁ、五年前に殺した魔人だったっけ? アイツなら俺の腕を捻じ切るだろうによ」


 煙草の火種を指先で潰し、吸い殻を吐き捨てた犬神は椅子に座ったまま指を鳴らす。その瞬間、彼の腕に突き刺さっていた糸が弾け飛び、持ち主である筈の飯島へ襲い掛かる。


 「な―――あッ!?」


 肌に突き刺さる寸前で身を捩り、糸を躱した飯島は大きく目を見開き、クツクツと肩を震わせて笑う犬神へ視線を向ける。


 「どうした? おいおい、人繰り糸の魔人ならもっと頭を使えよ? 俺ぁ落下物も使っちゃいないし、指輪の力だって制限してんだぜ? ほらほら、もっと動かなくちゃ本当に死んじまうぞ?」


 強烈な獣臭さが鼻腔を突き、生温かい吐息が頬を撫でる。六つ目の獣……剣山を思わせる漆黒の体毛を逆立たせ、餌の味を確かめるように飯島の汗を舌先で舐めた黒狼。荒い息を吐く魔人を見下ろした獣は飼い主と同じように笑う。ゲタゲタと、ゲラゲラと、獣らしかぬ形相で。


 思考より先に指が動く。糸を黒狼に巻き付かせ、首を断つ。


 ドロリとした重油のような血が切断面から溢れ出し、床を伝って靴底に染みた。首を失った黒狼が地に伏せる。


 殺った―――。命の危機から脱したと息を吐いた飯島の背に粘つく唾液が垂れ落ちる。空っぽの肺が酸素を拒み、想像を絶する恐怖に喉が呼吸を忘れ、殺した筈の黒狼と全く同じ外見の獣が飯島を見下ろしていた。


 「九龍の獣が一体だけだと思ったか? 残念、まだまだ居るぜ? だから言っただろ? 動かなきゃ死ぬってよ」


 金属ヤスリを擦り合わせたかのような鳴き声を轟かせ、歪に曲がりくねった犬歯を飯島の肩に突き立てた黒狼は肉を食み、吹き出す血を啜る。


 「犬神?」


 「ん? どうした? マリー」


 「何時まで遊んでいるの? さっさと殺して血を回収した方が効率的よ?」


 「まぁ、別に生かしておく理由も無いし、祈祷者の情報は血を読めば分かるからな。けど、正直言ってあの連中がどうしてアイツを魔人にしたのか……少し気になるんだよなぁ」


 煙草の箱を指先で叩き、八つ裂きにされる飯島をジッと見つめる。


 修復された落下物と祈祷者によって選ばれた飯島三朗。両者の関係は未だ不透明で、事の真相を知ることは出来ない。結果から逆算すれば、飯島だった肉片から血を回収し、マリグナントの落下物で情報を得ることができる。


 「……マリー」


 「なに?」


 「普通さぁ、魔人になって一週間かそこらのヤツが黒狼相手に一分間耐えられるか?」


 「無理じゃない? 私だって魔人化した後、何度も死にかけたんだから。黒狼を相手にするなんて普通は無理、不可能、正気じゃないわ」


 「だよなぁ……ならさ、何でアイツはまだ生きていると思う?」


 「さぁ? マトモじゃない魔人化だからじゃない? 予想だけど」


 ピリリと肌を刺す殺意に犬神の足が動く。マリグナントが展開した血の障壁が咲洲と警察官を守り、束となって濁流を成す糸の大海を堰き止めた。


 「……野郎」飲まれ、千切られ、バラバラにされた黒狼の血肉を喰む異形「そうかよ、そもそもソイツは完全な捨て駒だったワケだ。あぁ、納得した」九龍第五階層に生息する原生生物、落下物の堕慧児おとしごを視界に入れた犬神は「咲洲さん、マリー、少し本気を出すぞ。いいな?」と指輪を弄る。


 「あぁなる程、魔人の出来損ないを通じて堕慧児を呼んだワケね。生贄だから魔人同士の戦い方を教えていないし、犬神に見つかるように細工をした。理性の欠片も無かったのは極度の飢えかしら? それとも……微かな人間性を焚き付けた?」


 「流石は病原菌共だよなぁ……一人残らず殺しておいた方が良かったな、本当に」


 「犬神、アレはあの時の……五年前の」


 「大丈夫だよ咲洲さん、アレは堕慧児の一部だからさ。まだ脅威じゃない」


 だから直ぐに九龍へ押し戻す。四方八方に広がった糸を軽くいなした犬神は糸が湧き出る中心点……血塗れの飯島へ視線を向ける。


 「身体の一部分、血の一滴さえあれば十分だな? マリー」


 「えぇ」


 「オッケー、なら……やるか」


 蠢く糸の大波へ歩を進め、九龍の秘宝……獣主の指輪に嵌められた漆黒の玉を撫でる。


 「飯野ちゃん」


 「……」


 「心がぐちゃぐちゃになっているのは分かるわ、一応ね。何を考えて、何を選び取って、どうしたらいいのか分からない。酷い結末よね、本当に」


 マリグナントの言葉が耳に届こうと、少女の瞳は虚ろを映す。


 心が砕け散る暇も無く、涙を流す余裕も無し。状況の整理が付かないまま超常現象に流される。常人であれば気が狂い、冷静さを失う程の光景が警察署を覆い尽くしていたのだから。


 「……マリグナントさんも、ああやって人を殺したんですか」


 「えぇ、何人も、何百人も殺して食べたわ」


 「犬神さんも人間を」


 「私が知っている限り、魔人ってのは全員綺麗な人間じゃない。どれだけ高尚な言葉を吐いていても、高潔であろうとしても、禁忌を犯した罪は消えないの。だから魔人と人間は違う生物……生き方の意味が違ってくるの」


 「生き方の意味が……?」


 「代償を支払う為だけに生きるのか、どれだけ苦しくても人間らしく生きるのか。その二つが魔人と人間の違いね。九龍人とパンピーもまた違うし、新宿区と他区もまた違う別世界。変わって、流されて、抗わない……それが魔境都市新宿区であり、東京九龍なの」


 「……そんなモノ、無い方がいいじゃないですかッ!! 九龍があるから魔人が現れて、全部壊れちゃったんでしょ!? どうせ貴女も味方のフリをして」


 「そうね、飯野ちゃんが依頼人じゃなかったら私だってどうしてたか分からない。新宿に足を踏み入れた瞬間に食べていた可能性もある。けどそうしなかった。何故だか分かる?」


 「分かるわけないじゃないですか!!」


 「犬神が居るからよ。彼が居るから四層の魔人達も余程のことがない限り這い上がって来ないし、外で悪さをする考えを持たない。怖いものみんな、あの男が」


 「怖いってどういう」


 「見れば分かるわ。魔人の敵、九龍の掃除屋、最強最悪の魔人……。この世界で一番九龍を嫌っていて、愛している。それが犬神宗一郎なのよ」






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