室内に充満する芳醇な血の香りに黒狼が唸り、粘つく唾液をダラダラと垂れ流す。
血肉と臓物は黒狼の好物であると同時に、張りぼての体躯を現世に繋ぎ止める燃料源だった。血は体内を巡り楔と化し、臓物は生物の内臓器官を理解する為の生体資料。黒狼にとって人間とは九龍外の生物標本であり、獣が人と認識する存在は落下物を支配する魔人のみ。
口惜しく腹立たしい。これ程の標本が歩き回り、恐怖に支配されている状態で爪牙を振るえぬのは忌まわしいことこの上ない。理解の為に資料を求め、体躯の存続の為に血肉を食む。それが本能に刻まれた欲望なのだが……掃除屋と自称する男の前では自由に動くことすらままならぬ。己とて此処まで育てた体躯が惜しい故に。
「そう睨むなよ黒狼。安心しな、もう少しで美味しい魔人を喰わせてやるからよ。お前は飯野ちゃんの目に戻れ、おっかないだろ? みんなさ」
カロロ———と、唸り声と泣き声が入り混じった音を喉から発した黒狼は渋々飯野の右目に潜り込み、姿を消す。だが、九龍の獣が去ったとて此処に集まった面子は九龍最恐の二人の魔人。尚も緊張の糸はピンと張り、警察署の人間全員が犬神とマリグナントの動向を静かに探る。
「飯野ちゃん」
「……」
「もう一度聞くんだけどさ、仇討ちの依頼どうする?」
「……」
「黙ってちゃ分からないんだよね、俺ってばエスパーじゃないんだからさ。殺すか生かすかどうするか、君が決めろ。まぁ、どっちにしろ奴は」
「犬神、お前は少し静かにしてくれ。俺が話してもいいか?」
「……ん」
俯く飯野の前に膝を着いた咲州は、少し躊躇った様子で重い口を開く。
「飯野さん」
「……はい」
「飯島三郎の討滅が決まった」
「討滅って……なんですか」
「魔人として討ち滅ぼす意味だ。君が決めなくても犬神に討滅状が渡ったからには、彼が責任を持って飯島を殺す。だから」
「どうして……叔父さんは魔人になったんですか? 疎遠でしたけど、優しかったんです。お正月もお盆も、親戚で集まったら私と姉の頭を撫でてくれて……魔人になったからですか?あの培養者、祈祷者って人に叔父さんは」
「それは違うわよ飯野ちゃん」
「違うってどういう意味ですか⁉ 叔父さんは悪い人なんかじゃないんです! 九龍のせいで三郎叔父さんは!」
「落下物は対象者の願いを叶えてあげるの。貴女がどれだけ飯島三郎を擁護しても、優しいと叫んでも、落下物が見出した欲望は嘘を吐かない。魔人になるってことはね……願いの対価を支払うことなの。そうねぇ、猿の手の御伽噺って知ってるかしら?」
知っている。三つ願いを叶える代わりに、捻じれて歪んだ代償を支払わせる話。有名な童話だ。
「それと同じなのよ、落下物の特性は。唯一違う点を言えば、猿の手は三つ願いを叶えてくれるけど、落下物は一つだけ。それも心からの願望を最低最悪な結果で人間に与えるの」
「じゃあ、叔父さんは本当に、私の家族を殺したいと? お姉ちゃんを」
「それは本人に聞かなきゃ分からないわね。だって、祈祷者が関わってるならマトモな魔人化じゃないってことは確かだもの」
「じゃ、じゃあ!」
飯野の目に希望の灯がともり、両手を握り締める。
叔父の意志で家族を殺したワケじゃないのかもしれない。あのペスト医師の男が叔父を唆したに違いない。叔父はまだあの優しい人のままなのだ。ならば直接会って話をしてみたい。理由を聞けば、復讐の対象を逸らすことができるのだから。
「マリグナント」
「なぁに? ワンちゃん」
「……少し見直したぞ、お前のこと」
「イヤね、私は何時も優しいでしょう? 犬神よりずっとね」
「酷いねぇマリー、自分だけ好感度を高めるなんてさ。そんなに飯野ちゃんのこと気に入ったのかい?」
「可愛い子は好きよ? 血袋にしてもいいし、ペットのように可愛がってもいいんだもの」
「前言撤回だ、マリグナント、貴様は最悪な吸血鬼だ」
「酷いわね、淑女に言うセリフ? それ」
「淑女? なんだ、外国籍の魔人は日本語を知らんのか? 貴様が淑女と呼ばれるなら、第三層の狂人共は全員マトモの部類に入るだろうな。そう思わないか? マリグナント・イェラ・スエーガー」
「あんな塵屑と一緒にしないで欲しいわね、咲州吾郎警部」
二人の間に火花が散り、一触即発の雰囲気を醸し出す。その様子を呆れたように眺め、両の手を叩き合わせた犬神は「で、どうする? 飯野ちゃん。俺とマリーは君の意思に従うし、咲州さんも刑事として飯島を追う。後は君次第だ」とニヒルな笑みを浮かべた。
「……叔父さんと」
「うん」
「叔父さんと会って話がしてみたい。その、最初の依頼とは違いますが、お願い出来ますか? 掃除屋さん」
「犬神」
「え?」
「犬神って呼んで欲しいな、君には。マリグナントのことはマリーって呼んでいいし、咲州さんは……刑事さん呼びで構わない。だから、後は俺に任せな。飯野ちゃん、いや、神楽さん」
「えっと、その……本当にありがとうございます。犬神、さん」
「いよし! じゃぁ仕事に取り掛かるか! マリー、咲州さん!」
先ずは神楽さんの保護を頼む。犬神の言葉が空気を震わせると同時に、警察署にごった返していた九龍人と犯罪者の首が飛ぶ。
「咲州警部! 魔人が———」警察官の腕が撓り、捻じれて弾け飛び「全員戦闘準備! 民間人の保護を最優先に行動しろ! 武装者は対抗呪具を展開!」シリリと煌めく糸に残った手足を紡がれる。
「短気だねぇ、我慢出来ずに喰らいに来たか……飯島三郎、いや、人繰り糸の魔人」
「な、あ」
「マリー」
「えぇ分かってるわ。依頼人の保護を優先……私は何をしたらいい? 犬神」
「何時も通り眺めているだけでいい。雑魚相手にお前が出る必要は無い。一応落下物の準備だけはしておけよ?」
「りょーかい。さ、飯野ちゃん。お姉さんに抱き着いて? 一番安全なんだから、私の胸元は」
「咲州さんは」
「民間人の避難及び保護を優先する。一応呪具は準備しているが」
「いいや、全部俺がやるよ。咲州さんが手を血に染める必要は無いさ。魔人同士の殺し合い、九龍のゴタゴタは俺の責任だからね。だから……頼むよ咲州さん、ワッパの準備と後処理とか色々。俺の代わりにさ」
「……任せろ」
拳銃を抜き、糸を撃ち抜いた咲州は課の人員へ檄を飛ばす。警察官の使命を忘れるなと、恐怖に心を支配されるなと、魔人の暴虐を許してはならないと。対魔人用手錠を懐から取り出した咲州は、血塗れのロビーへ視線を向ける。
首が踊り、身体からはみ出た臓物を喰らう男が居た。多好感に頬を緩ませ、両手の五指に糸繰り具を嵌めた瘦せ型の中年男性。直感的に男を魔人だと見抜いた刑事は銃口を向ける。
「飯島三郎だな? 落下物保持及び殺人罪、死体遺棄の嫌疑が」
超高速で放たれた糸が咲州の頬を裂き、血を滴らせる。ウネウネと海中を揺蕩うワカメのように動き回る無数の糸は、さながら悪意を持つ白髪のよう。窪んだ双眼を血走らせ、口元に付着した血を拭った飯島は飯野を視界に映す。
「……神楽、ちゃん?」
「叔父さん……」
「……悪いと思ってるよ」
「……」
「あの時どうして君が居なかったのか、どうして兄貴を殺してしまったのか、なんで愛した人を残しておかなかったのか……後悔しない時はなかった。だけど、それ以上に心残りがあったんだ」
「心、残り?」
「君のお姉ちゃん、雫ちゃんを生かしておくべきだった」
飯島の目に狂気が蠢き、少女の身体全体を舐めるように見つめ、
「成長したら君のお母さんに似て綺麗な人に育っただろうね、君と同じように美しい人に育っただろう。だから生かしておくべきだった。犯さず、殺さず、私の手で花を積むべきだった! あぁ、だから、そうだね……今度は逃がさない。見逃さない」
情欲に燃え、
「神楽ちゃん、おいで? 叔父さんと一緒に暮らそうじゃないか! 私の子を産んでくれよ……お母さんの代わりに、私を愛してくれ。それが……あぁ、私の心残りだったんだ」
精神を穢す毒を吐く。