新宿区警察署には暇という文字は無い。
九龍に居を構える違法入国者から不法移民、呪具の被害者、九龍内部で製造された呪物を他区へ持ち出そうとした運び屋まで……。邦人外国人入り混じった新宿区警察署は世界の犯罪博覧会の様相を見せ、銃器を構えた武装警察官もまた怒声を飛ばしながら喚く九龍人の背を銃口で突く。
「それにしても、変わらないね此処はさ。右を見ても犯罪者、左を見たら九龍人。俺が居た頃と変わったのは外国人の数と武装警察官の装備品くらい?」
「魔人案件の死傷者数、呪具又は九龍立ち入り調査による心的外傷罹患数はお前が居た頃と比べて増加傾向にあるな」
咥えていた煙草を灰皿へ押し付け、苦笑いを浮かべた犬神は肩を竦めて指輪を弄る。
魔境と揶揄され、超自然的事件が多発する新宿において丸腰で捜査に望む者は誰一人として存在しない。多かれ少なかれ携帯用対抗呪具を防弾チョッキの内側に仕込んでいたり、実弾が込められた銃器を持つ。それが新宿区警察署に在籍する警察官の基本装備だ。
「それにしても」
「なんだ?」
「外国人……いや、外資系警備会社の連中が多くなったんじゃないか? ほら、アイツだって」
サングラスを掛けた黒人男性を見つめた犬神が含んだように笑い、その人物を一瞥した咲洲もまた眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
「……現在の新宿区警察署の死亡率は五%、その多くが武装警察官だ。巡回だって命がけだし、少しでも気を抜けば『九頭竜』の指と『パンドラ』の半グレ連中が襲いかかって来る状況。それが東京九龍魔境都市。足りない戦力を外部委託で補う、それが上の判断なんだろうな」
「まぁ、それでも魔人が相手なら意味が無い。呪いには呪いを、魔には魔を。アンタが知らない筈ないだろう? なぁ、咲洲さん」
「それは戦える人間……いいや、血肉の山河を躊躇なく進める奴だけが言えるセリフだ。普通の人間なら使える手は何でも使う。例えそれが間違っていたとしても、迷わずに」
「……咲洲さんが言うならそうなんだろうな。アンタは何時も正しいことを言ってるからさ、多分それが正解なんだろうな。パンピーの生存戦略としてさ」
新しい煙草の封を切り、箱を指先で二度叩いた犬神の視線が暴れ回る九龍人へ向けられる。伸びた髭と窪んだ眼、罅割れた唇の奥に見える黄ばんだ歯。煙草を咥え、マッチ棒で火を着けた犬神は首の骨を鳴らすと同時に立ち上がる。
「どうした?」
「咲洲さん、一つ聞いてもいいか?」
「あぁ」
「此処で面倒事を起こされるのと、九龍の掃除屋が動くのと、どっちがアンタにとって都合が悪い? 此処は俺のテリトリーじゃないし、咲洲さんの領分だ。だから、アンタの都合の良いように俺は動く」
「……面倒事を起こされる方だな」
「オッケー、少し脅してくるよ。あの馬鹿をさ」
にこやかに笑いながら九龍人へ近づいた犬神は重装備の警察官を脇へ退かす。どこのどいつだと睨みつけた警察官は、犬神から漏れる圧倒的な殺意に言葉を失った。
「よぉ九龍人、少し静かにしてくれるか?」
「あぁ!? テメェはーーー」
「分からないってこたぁねェだろ?」
笑顔の裏に蠢く得体の知れない無秩序な暴力性。暗い瞳の奥に燃え狂う轟々とした殺気に九龍人は己の死を予感した。これ以上喚けば刹那の内に首を狩られ、臓物を獣の生餌として撒かれる死の気配。脂汗を滝のように流し、ガタガタと震えた九龍人は小さな悲鳴を鳴き声の代わりに発する。
「他の連中も静かにしてくれると助かるね、俺は今大事な話をしてるんだ。もし黙らなかったら……二秒で殺す。全員見境なく、理由も聞かず、炉端に首を並べてやる。だから全員口を閉じてくれよ? 頼むぜ?」
武装警察官含む全員が何度も首を縦に振り、背筋を伸ばす。口の端から紫煙を燻らせた犬神は「で、咲洲さん、聞きたいことなんだけど」何でも無かったかのように話し始める。
「犬神」
「ん?」
「よく殺さなかったな」
「当たり前じゃん、此処であの九龍人を殺したら本当に皆殺しにしちまうぜ? 俺はさ」
「……そうか。こっちに来い、例の……飯野さんがお前に依頼した魔人案件の資料を見せる」
「ありがとう、咲洲さん」
九龍特殊案件対策課の扉を開き、港区一家惨殺事件の資料を受け取った犬神の目が文字を追う。討滅対象の魔人が誰であるのか、どんな落下物を用いたのか……。彼はマリグナントの情報網を通して事件の全貌を理解しているが、警察機関から討滅状を提示された際は必ず資料に目を通す。警察官であった頃と同じように。
「……糸繰りの落下物だな。昔ブッ壊したと思ったけど、誰かが拾って九龍地下五層で修復した感じかな? なる程、なら連中が背後に居るのも納得できる」
「祈祷者か?」
「あぁ。てなれば、そうだな……飯野ちゃんの呪印は多分ペスト医師、培養管の仕業だろう」
「……公式的な異名は養殖師だったな。しかし祈祷者はここ数年、それこそ一年は活動していなかった筈だ。何故今頃になって動き出したんだ? 動けばお前に掃除される可能性が上がるのに」
「まぁ俺を殺す算段が整ったんだろ。昔みたいに手当たり次第に殺す狂犬から、九龍の秩序を維持しようと務める仕事人……牙を失ったと思っている。馬鹿だねぇ、黙って地下で無駄な祈りを捧げてればいいのに」
喉奥に溜まった呪詛が胃に落ちた。仕留め損ねた獲物を見つけた猟犬のように、ペスト医師の姿を脳内で思い描いた犬神に咲洲は背筋を凍らせる。
あの時と同じ顔だ。警察を辞め、魔人として新宿を暴れまわっていた頃と同じ顔。血に酔い、肉を潰し、骨を叩き割る悪鬼の顔。資料を閉じた犬神は心底嬉しそうに手を叩き、
「塵は掃除しなきゃな、ホコリは燃やしておかないと。そう思うだろ? 咲洲さん」
「……飯野さんの呪印にはどんな意味がある」
「復活」
「復活?」
「子宮ってのは文字通り赤子の宮殿。卵巣から排出された卵子が精子と結ばれ、受胎する命の袋。刻まれた呪印の意味は復活で、赤子が育つ子宮には別の何かが宿るワケ。それが何なのか俺にも分からないし、刻んだ奴じゃないと知り得ない。マーキング兼タグだろうよ、培養管が刻んだ呪印はな」
「……悍ましいな」
もし自分の娘がそんな目にあったなら絶対に許さない。相手が魔人であっても復讐に向かうだろうし、犬神宗一郎という名が耳に入ったら藁にも縋る思いで助力を乞う。
だが、警察官として、魔境新宿に抗う刑事として、そんな個人的理由の復讐は許されない。許されてはならないのだ。飯野神楽の復讐を肯定できる感情があったとしても、これから犬神に掃除されるであろう魔人に手錠を嵌める。それが己の仕事なのだから。
「しかしまぁ、祈祷者の連中を殺すとしても五層よりも下、六層まで降りるのは俺でさえ中々骨が折れる。奴らは野放しにできないけど、見つけ次第ブチ殺す。けど先ずは飯島三朗をこの世から跡形も無く消すことかな。出来れば落下物ごとね」
「飯島三朗、飯野さんの叔父だな。お前は……彼女の復讐をどう思う」
「やるならやるべきだし、殺しの覚悟を背負うべきだとも思ってる。そのことはもう飯野ちゃんに話したさ。後は彼女の答えを待つだけってところ」
そうかーーー。煙草を咥えた咲洲へマッチの箱を手渡した犬神の視線が警察署入口へ向けられる。黒い影が民衆の間を駆け抜け、鮮血の路を描きながら特殊案件対策課の窓をぶち破り、
「派手な登場だねぇマリー。なんだ? 俺より先に飯島に会ったのかよ」
「残念、貴男が探し求めてた祈祷者から退いてきたところなの。アウェイで殺し合う馬鹿は居ないでしょう?」
「培養管か?」
「正解」
腹から血を流し、ズルリと黒狼の牙から身を抜いたマリグナントは腕に抱く飯野を下ろす。