悪が芽吹き、罪を垂れ流し、腐れ落ちながら尚も輝く新宿区。九龍の影響から魔境と呼ばれるようになった現在まで、新宿には様々な欲望が渦巻き、血で血を洗う抗争を経て奈落の底へ消えてゆく。
血を流す故に呪いが在り、呪う故に血を求める。区一帯にコンクリート壁を築き、文字通り他区と隔絶した東京都は仮初の日常を送る。九龍から持ち込まれる呪物と気紛れに現れる魔人の脅威に脅かされながら、淡々と。
電車の窓に映り込む街をぼんやりと見つめていた飯野は、右目に浮かぶ呪印を見つめ溜息を吐く。復讐を肯定されながら覚悟を問われ、仇を殺せる状態であってもダラダラと時間を浪費する苦痛。窓に張り付いた雨粒が他の粒と繋がり、線を描きながら吹き飛んで行く光景は何処か復讐を急いていた自分自身と重なり合うような、そんな気がした。
「どうしたの? ノスタルジックにでも触れてみたくなったワケ?」
「……別にそんな気分じゃありません」
「そ、別にどうでもいいんだけど。それにしても嫌ね、電車移動なんて久しぶりよ」
「……何時もどうやって移動しているんですか?」
「九龍から直接目的地に行くだけよ」
「直接?」
「えぇ、九龍の居住区……巣の扉は思った場所に飛ばしてくれるの。魔人なら誰でも使う便利な機能、パンピーが電車やバスを使うのと一緒。まぁ、私は扉以外にも車をよく走らせるけどね。貴女さえ良ければ今度一緒にドライブでもする? 楽しいわよ? 夜の首都高を走るのは」
「……」
俯く飯野を見下ろしたマリグナントは肩を竦め、面白くないと鼻で笑う。
「飯野ちゃん」
「はい」
「名前は神楽だったかしら? 良い名前ね、文字も綺麗だわ」
「なんですかいきなり」
「神楽ってのはね、神話的にも宗教的にも意味を持つ言葉よ。神を祀り、祈りを捧げ、厄災を祓う。体は名を表すって言うけれど、神楽ちゃんはある意味その名前で守られてるかもしれないわ」
「家族を全員殺されたのに? 私だけがそんなしょうもない理由で守られたって言いたいんですか? ……止めてください、本当に」
薄暗い停車駅へ電車が突っ込み、蛍光灯の光が一際大きく照ったように感じた。浅草まではもう少し距離がある。だが、これ以上魔人と一緒に居たくはない。席から立ち上がり、マリグナントの横を通り抜けようとした飯野の肩を冷たい手が掴む。
「何ですか?」
「動かないことをおススメするわ」
どうして———その言葉を発しようとした飯野の胃がキュウと縮み、酸っぱい胃液が喉の奥からせり上がる。
黒い外套を羽織り、ペスト医師の仮面を被った男が駅のホームに立っていたのだ。その姿は揺らめく影のように薄く、人の波に埋もれては顔を出す流木のよう。
腹の奥が熱を帯び、下腹部もまた痛い程に疼く。右目がざわつくと同時に、獣の咆哮が駅構内に響き渡る。
「……マリグナント・イェラ・スエーガー、紅女王、鮮血姫」
「祈祷者が直々に現れるなんてね。私じゃなくて犬神に顔を見せたらどう? 喜ぶわよ? それこそ血涙を流して」
「種の芽吹きを見ぬ輩は居ないだろう? それに、私一人では掃除屋には勝てないし、殺せない。無論君にもだ。……飯野神楽、否、十六夜神楽と呼ぶべきか? どうだ、気分は」
「———」
腸が煮えくり返るようだった。手元にナイフがあったのなら、飯野は迷わず男の腹部へ刃を突き立てようとしただろう。奥歯を噛み締め、頬に液体が流れる感触を覚えた少女は、それは右目から流れ出る血涙だと知る。
そうだ、今の己には力がある。犬神宗一郎が貸し与えた黒狼を操り、目の前の男を惨殺せしめよう。獣の爪牙を以てその黒衣を剥ぎ、血に濡れた臓物を剥いてくれる。ズルりと這い出た黒狼の六つ目が男を見据え、獰猛な殺意を滾らせた瞬間、周囲の人間の視線が飯野とマリグナントに集中する。
「遠見の魔人にでも見て貰ったの? この状況を」
「遠見に頼らなくても私は常に万全の態勢を整える。紅女王、それは君もだろう?」
「そうね、けど駅のホームに呪具を撒くなんて馬鹿な真似はしないけど?」
「君と掃除屋を相手取るならこれくらいは普通のことだ。人繰り糸の魔人……飯島三郎だけでは心許ないのでね」
「え———?」
飯野の目が大きく見開かれ、飯島三郎の名に戸惑いの表情を浮かべる。
「いま、何て」
「神楽ちゃん」
「飯島叔父さんが、あの人がお父さんとお母さんを、お姉ちゃんを」
「……本当に最低ね貴男達は。祈祷者じゃなくて病魔にでも改名したら? それと……神楽ちゃん、一瞬だけ目と耳を塞いで頂戴。できなきゃそうね……今は何も考えないで」
ホームを歩くサラリーマンが白目を剥き、学生もまたかくりと項垂れる。老人の身体がビクビクと震え、赤子が泣き叫ぶとそれを合図に駅構内の人間全員が二人へ強烈な殺意を向けた。
「白昼夢の呪具かしら? 面倒ね、パンピーを殺したら犬神と咲州が五月蠅いのに」
「君でも殺しを躊躇するようになったのだな、紅女王」
「当たり前じゃない、今の私は首輪付きよ? 貴男とは違うの、培養管」
「いいや、君は何も違わないさ。今までも、これからも、君は九龍地下四層の紅女王であり、鮮血姫と呼ばれ続けるだろう。マリグナント・イェラ・スエーガー……残念だよ、君と袂を分かつのは……本当に」
「まだ私と仲良しこよしでもしようと思ってるの? 出来やしないわよ、とっくの昔にね」
瞬間、マリグナントの身体から血の霧が噴き出し周囲を紅色に染める。濃厚な血の香りに咽た飯野を抱え、ホームを駆けた女は襲い掛かる群衆を踊るように躱し、必要とあらば顎へ掌底を撃ち込み骨を砕く。
「マリグナントさん、これは、一体どういうことですかッ⁉」
「どうもこうも無いわ。ただ逃げてるだけよ? 九龍……新宿の外で人を殺せば後々面倒なのよね。まぁ、貴女が祈祷者に狙われてるなんて思いもしなかったけど」
「祈祷者って何なんですか⁉」
「祈り、捧げ、蠢く者。九龍の呪物を外に横流ししたり、落下物をばら撒いて魔人を増やそうとしている集団。まぁ、端的に言えば私と犬神の敵ってところかしら?」
消火器を振り下ろすサラリーマンの腕を蹴り払い、唾液を撒き散らしながら這う老人を跳び越える。掃除屋の相棒である紅女王といえど、新宿区の外では魔人の力を満足に振るえない一個人に過ぎない。犬神宗一郎……最強最悪の魔人に首輪を嵌められ、不必要な殺戮行動を禁じられているマリグナントは、徐々に追い詰められながらホームの奥へ突き進む。
血の霧が時間と共に薄れ、団子状になった人々が夢遊病患者のように二人へ歩み寄る。もう駄目だと瞼を固く閉じ、マリグナントにしがみ付いた飯野は喉を鳴らしながら目玉を蠢かせる黒狼へ視線を向けた。
このまま無意味に殺されるならば、どうしようもない状況に立たされたのならば、あの狼に全てを殺し尽くして貰おう。死なば諸共だ。腹の底から沸き上がる殺意を言葉に乗せようとした刹那、少女の口はマリグナントに塞がれ、
「どうしてこう若い子って事を急くのかしらね。戦わないのなら口を噤んでいたらいいのに。神楽ちゃん、私が闇雲に逃げていたと思う?」
「違うんですか?」
「全然違うわよ、九龍の紅女王、四階層を支配していた鮮血姫が単なるハプニング如きで遅れを取るとでも? やるべきことはやるし、やれるならやるべきなの。培養管、見ているのなら伝えておくわ……犬神は必ず貴男達を殺す。昔みたいに逃げ回っていたらどう? 地下を這いずる鼠みたいにね」
群衆の殺意がマリグナント一人へ集まり、吸血鬼の死を願う。その様子を一瞥したマリグナントはホームの向こう側……警笛を鳴らす電車へ身を投げ高らかに笑う。勝ち誇ったように、敗者を嘲笑うかのように。
「い、イヤぁぁあ!!」
「来なさい、黒狼」
空間の隙間を縫って獣がマリグナントの胴体に牙を突き立てる。大量の血が駅構内に飛び散り、群衆へ降り注ぐ。
「マ、マリグナントさん⁉ 一体何を」
「逃げるが勝ち。あちらさんに有利な場所で戦うワケないでしょう?」
「で、でも血が!」
「あぁ、そんなこと別に気にしなくてもいいのに。ストックを放出しただけよ、私を殺すならあと二千回致命傷を与えるべきね。お優しいのね、貴女は」
「普通心配するでしょう⁉」
「……そうね、普通ならそうするかもね」
クツクツと笑ったマリグナントは「新宿へ戻るわよ。アイツ等が関わってるならホームで殺る。貴方もそう思うでしょう? 九龍の獣」と呟き、牙で貫かれたまま線路を駆けた。