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糸に血を 上


 指に嵌めた糸繰り具が不気味に嘶き血を求める。


 「———」


 耐え難い飢えと血肉への渇望……脂汗を流し、歯をカチカチと噛み合わせた男は両手で顔全体を覆い、指の隙間から血走った双眼を覗かせる。


 「そろそろ限界か」


 ペストマスクで頭を覆い隠し、月夜を思わせる黒衣を纏った男が湯気の立つティーカップを片手に足を組み、愉快極まるといった様子で男……飯島三郎を見下ろし嘲笑う。

 「人の生き血を啜らせず、人肉も喰わず、落下物を維持する魂も三人だけ。どうだい? 狂いそうだろう? 苦しいだろう? いいや答えずとも分かる」


 「———ッ!!」


 「声にならないか、ならば致し方無し」


 男は飯島の目の前にぬらぬらと照る生肉を放り投げ、カップを持ったまま彼の周りを歩き回る。規則正しく正確に、反時計回りでゆっくりと。


 「オヤツだよ」


 「あ、あ」


 「魔人となったんだ、人肉を喰わずにして力を維持できる筈が無し。あぁ無理はするな、食えば楽になる。脳を犯し、神経を狂わせ、精神を蝕む落下物の情動に少しばかり堪えることができるだろうさ。端的に言うならば、これは単なる捕食行為に過ぎん。魔人としての生存方法の一つだとでも言える」


 フローリングを叩く靴底の音が耳に張り付き、鼓膜の奥で反響しているように感じた。反時計回りで歩き、時には時計回りで進む男の歩み。それはまるで悪魔を召喚する儀式の一環のようであり、飯島の人間性を試す試練だと思わせる。


 「あぁ君の辛さはよく分かる。私だって魔人となった時は君のように飢え、苦しみ、血を欲したものさ。だが、耐えるのは美徳ではなく悪徳だ。そうだろう? 人の飢えとは命の叫びであると同時に、生への渇望なのだよ。故に……食えよ。食った方が楽になれる」


 「だが、これは」


 「如何にも人肉である。しかし考えてみたまえ……人が他の動植物を喰らうのと、同じ人を喰らうのに何の違いがあるという。答えは簡単だ、形を失ったモノは既に人間ではない。それはただの肉だ」


 「に、く?」


 「何だ? 君は遺灰を人であるとでも言うのかね? スーパーに陳列される肉を動物として慈しみ、魚の切り身を海に帰すのか? 野菜を土に埋め、そこから芽が出るとでも? あぁ実にロマンティックで豊かな想像力だ……反吐が出る」


 俯く飯島の頭を男が見下ろし、マスクの奥でにんまりと笑う。


 「私が間違っているのなら訂正を求めよう。感情的にではなく、あくまで論理的にだ。君は言うだろうね、騙したなと。泣きじゃくる赤子のように喚くだろう、こんな筈じゃなかったと。だが、そんな後悔よりも現実を見るべきだと私は思うね。

 何故なら、君は自分の手で兄を殺し、愛した女の四肢を捥ぎ、守るべき姪を犯し喰らったのだから。魔人の力を振るって、思いのままに全てを壊すのは楽しかっただろう? 至上の快楽だった筈だ。気持ちは分かるよ、あぁ……痛い程に、な」


 「あ、あの時の私は、どうにかしていたんだッ!! あんなものは私じゃない、違う」


 「いいや、何も違わない。落下物は人の最も醜い本性を引き出し、内に宿る願いを叶える祈祷具だ。君は兄を憎んでいた。女を奪った間男と一方的に恨み、その子等を女に重ね合わせ、薄汚い情欲を持ち合わせていたのだろう?」


 「ちが」


 「だが、そんな君を私は許そう」


 震える飯島の頭を優しく撫でた男は、九龍の落下物をそっと指先で振れ、


 「君は確かに罪を犯し、許されざる者となった。しかし、それは人の範疇での話。魔人である飯島三郎を人の法で裁けるのか? 答えは否、魔人は人から逸脱した選ばれし者である。九龍の落下物……私が与えた糸繰り具は君を選び、君は人繰り糸の魔人として覚醒した。

 ならば魔人として生きねばならん。それが正しい選択であり、これからの生。人間が君を誹ろうと、糾弾しようと、私達『祈祷者』は君を祝福しよう。飯島三郎……私は君の味方だ」


 もう一度、ニッコリと笑う。


 「……貴男は」


 「あぁ」


 「悪魔か何かか?」


 「悪魔……あぁ実に言いえて妙だ、魔人を人間か何かだと思っているのかい? 君は」


 「……」


 「臓物を喰み、人肉を喰らい、魂をも捕食する。悪魔とは人が作り出し、脳が思い描く空想の産物である。目には見えず、触れることができず、声を聞くこともできないのだ。ならば我々は何だ? 答えは簡単……魔なる人にして、人に仇なす者。故に魔人」


 コツコツと男の爪先が床を叩き、タップダンスを踊る狩人の如く宙を舞う。


 「下らん戯言も、恥部を曝け出す葛藤も、人間らしい苦痛も……全て投げ出してしまえ。飯島三郎、君はもう自由だ。

 忘れられないのだろう? 舌の上で転がる肉の感触を。

 もう一度味わいたいのだろう? 美しき血が喉を潤す間隔を。

 魔人として、落下物を宿す者として、私の手で踊るがいい。さすれば祈祷者は君を迎え入れよう。だから……喰めよ、肉を、人を」


 震える指が照る肉に触れ、飢えた獣のように引っ掴む。口を開け、乳を欲する稚児のように肉へむしゃぶりついた飯島の姿は人とは思えぬ悪鬼の様。


 歯を突き立てれば至上の快楽が脳細胞を駆け巡り、血の一滴を飲み下すだけで射精と同等の開放感に包まれる。いきり勃った陰茎がズボンの中でパンパンに膨らみ、肉片を飲み込んだ瞬間に絶頂と脱力を繰り返すのだ。


 「祝福しよう」


 「……」


 「君は食事を受け入れ、人としての罪へ背を向けた。故に、祝福しよう。飯島三郎、君は」


 瞬間、男の四肢が糸に紡がれ空中に吊られる。


 「こんなに」


 「……」


 「こんなに、気持ちが良いのは、あぁ……兄貴と私を裏切った女、姪を犯して以来だ」


 瞳の中に現れるのは魔人としての証―――九龍の落下物と契りを交わした狂気の紋様。


 「私を殺すのか? 君は」


 「……」


 「それが君の選択であるのなら、致し方あるまい。だが」


 ギチギチと皮膚が裂け、真っ赤な血が黒衣の袖より流れ出る。指に糸繰り具を嵌め、熟練の人形繰り師のような動きで男の身体を操った飯島は、床に散った血を這い舐め取り、


 「感謝するよ、馬鹿な魔人め」


 四肢を千切り、男の頭を踏み躙る。


 「―――」


 だが、たった三人の人間を殺した魔人は知り得ない。


 魔へ堕ちた人間の底知れなさを、九龍の最奥にて生きる真の魔人を殺すに至れない。


 「君、その程度で私を殺すことが出来ると思ったのか?」


 グズグズに崩れた男の身体と視界を覆う蟲の群れ。咄嗟の出来事に腕を払い、喚き散らした飯島の耳元にペストマスクの鼻先が触れる。


 「九龍の掃除屋が君を始末するだろう」


 「何故」


 「生きている、それは人間の思考だ。君は既に魔人……掃除される側に立ったのだよ」


 細い指……否、真っ白い骨が飯島の首筋を撫でる。九龍の掃除屋という言葉に震え慄き、助けを求めようとしたが時既に遅し。


 「生き残れたならばまた会おう」


 その言葉を最後に、男は消える。あたかも初めから存在しなかったように忽然と。


 一人残された飯島は恐怖に顔を引き攣らせたまま部屋を飛び出し、落下物の嘯き……人を喰らえという言葉に従うのだった。


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