第一節 歪む
カーテンの隙間から差し込む陽光に目を細め、鈍い頭痛に溜息を吐く。
時刻は午前五時丁度。目覚ましが鳴るには一時間半早く、二度寝をしてしまえば起きるに起きれない微妙な時間。完全に目を覚ましているワケではないが、頭痛を抱えて眠るよりは起きてしまった方が楽だろう。
カーテンを開き、戸棚から頭痛薬を取り出した飯野はタブレットを二つ口へ放り込み、飲みかけのペットボトルのキャップを捻る。
薄いカルキの臭いとペット飲料特有のプラスチック臭。浄水器を通したとしてもカルキの臭いを消せず、冷蔵庫に保管しなければ水そのものが痛むのは当然か。タブレットを舌の上で転がし、飲料水を呷った飯野は溜息を吐きながら咽る。
「……」
窓の向こう側には朝焼けに煌めくビル群が立ち並び、会社へ出勤するサラリーマンの姿が見えた。ゴミ出しの次いでに井戸端会議に勤しむ主婦達、電気自動車の静かな駆動音、アスファルトがタイヤを削る音……。二十四時間三百六十五日、都市の明かりが途絶えない東京と云えど、平日の早朝は微睡みの中にある。
もし飯野が社会人であったなら、二十歳を超えた女であったなら、ビルを見ながら煙草の一本でも吹かすのだろう。だが、それは無理な話だ。彼女はまだ学生の身分であり、齢十六の少女なのだから。
「……」
窓の縁に背を預け、ビルから家族の写真立てへ視線を移す。微笑む両親と笑顔の姉、そして微妙な表情を浮かべる自分。最後に撮った写真が最後の家族団欒……戻らない日常になると誰が予想できただろう。魔人となった叔父に家族を惨殺され、その叔父も最後には堕慧児と呼ばれる九龍の化物に食い殺された。
振り上げた拳の落とし所を見つけられず、心の整理がつかないまま無理矢理日常へ押し込まれた言葉に出来ない気持ち悪さ。日常を失ったが故に非日常へ陥るのか、日常が変わってしまった故に非日常へ向かうのか。そんなことを考えられる余裕があるということは、少女もまた心の何処かで非日常を受け入れ始めているのだろう。
家族写真に手を合わせ、リビングへ続くドアノブに手を掛けた飯野は扉の向こう側から響くテレビの音にまたかと溜息を吐き、ノブを捻りながら足を進めると、
「……マリグナントさん、何時から居たんですか? いえ、それよりも何時まで家に居るつもりなんですか?」
ソファに寝そべる金髪の美女……マリグナント・イェラ・スエーガーへ声を掛ける。
「あら、今日は随分と早いのね。眠りでも浅かったの? 飯野ちゃん」
「別に寝付きは普通です。頭が痛いだけですけど」
「疲れでも溜まってるんじゃないの? 学校でも休めば?」
「……行きますよ、学校は」
「そ、なら行ってらっしゃい。あぁ、玄関と校門を繋いでおいたから遅れても大丈夫よ」
「……」
ネグリジェ姿でチャンネルを回し、番組に飽きたらワインを呷って本を開く。護衛という名目で飯野の家に入り浸るマリグナントは日々を怠惰に過ごしていた。
「どうしたのボゥっとして。なぁに? 一緒にテレビでも見る?」
「マリグナントさん、お仕事はいいんですか? 犬神さんの助手じゃないんですか? 貴女は」
「仕事が無い日はのんびり過ごしたいものよねぇ。あぁ、スローライフなんて言う魂の殺人は御免だけど」
仕事に行ってる日を見たことが無い。その言葉を飲み込み、冷蔵庫を開けた飯野は日に日に増える奇妙な酒類にうんざりする。
「マリグナントさん」
「朝ご飯なら勝手に食べていいわよ」
「……」
「今日の朝食はベーコンエッグとバケットよ。ジャムは勝手に選んでちょうだい。けど」
「血液ジャムなんて食べるワケないじゃないですか」
「私専用だもの、飯野ちゃんが食べたら神経を疑うわ。あ、そうそう、歯磨きは忘れちゃ駄目よ? キティ」
手前に位置する皿を取り、電子レンジに入れた飯野は温めボタンを力強く押す。ウゥンーーーと、オレンジ色の光が灯る。
護衛というよりは世話焼きな同居人。毎日飯野が目覚める前にテレビを見て、朝食を用意し、少女が眠ったことを確認してから何処かへ去る。
話す言葉とは裏腹に意外と面倒見が良い魔人。それがマリグナント・イェラ・スエーガーという人物であり、最強最悪の魔人、犬神宗一郎の助手。
いつの間にか用意されていた珈琲を啜り、チンと鳴くレンジの蓋を開けた飯野へ「あぁ、今日は事務所に行くからそのつもりでいなさい」マリグナントがニュースを眺めながら言う。
「理由を聞いても?」
「物騒だもの」
「……」
魔人が新宿から抜け出している方が物騒ではないか。食事を摂りながらマリグナントの視線を辿り、ニュースを眺めた飯野は新宿区警察署の武装警察官がリポーターを取り押さえている映像を見る。
「魔人案件ですか?」
「アッハ! 魔人が相手ならもっと派手にやるわよ飯野ちゃん。そうねぇ……これは私と犬神が出張る事件じゃないみたい。だって、相手は人間なんだもの」
「人間?」
「えぇ、呪物を使った殺し。ほら、ブルーシートの隙間、よく見てみなさい」
ジッと……乱れる映像の奥、僅かに開いたブルーシートから腐った頭が此方を見据えていた。肉の半分が溶け、頭蓋に蛆が集る男の首。
「……九龍関係ですか? アレ」
「そうねぇ……関係ないとは言わないし、当たりとも言わないわ。だって、私達と関係ないんだもの。そう思わない? 飯野ちゃん」
「私はどうなんですか?」
「お気に入りの花を枯らす馬鹿はいないでしょう? 雑草なんて枯れた方が見栄えの良い時もあるのよ」
ケタケタと陽気に笑い、テレビに映る警察官を指差したマリグナントは「あ、ほら、ワンちゃんが居るわよ」とワイングラスを空にする。
「咲洲さんですか?」
「毎日毎日よく働くわねぇ。仕事なんて適当に済ませておけばいいのに」
「……マリグナントさんは」
「なぁに?」
「魔人になる前は、何をやってたんですか?」
一瞬だけ空気が凍り、獰猛な殺意が飯野の続く言葉を刈り取った。
「……すみません、余計なこと」
「何もしてなかったわ」
「何も?」
「えぇ、ただ窓から外を見て、ボゥっと生きていただけよ。記憶に残るのはそうねぇ……白い部屋と定期的に来る看護師、そして脂切った医者くらいなものかしら? なぁんにも面白くない、それこそ一日ずつ腐る感覚ね」
ワインボトルのコルクを弾き上げたマリグナントがテレビのチャンネルを回す。
「飯野ちゃん」
「はい」
「どうせ関わってくるだろうから先に言っておくけど、人は選ぶことね」
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味よ。お友達はちゃぁんと自分の目で選びなさいよ? 貴女にはその権利があるんだから」
翡翠色の綺麗で濁った瞳。口元から鋭利な牙を覗かせ、指を弾いたマリグナントは鮮血で身体を覆い、黒スーツを身に纏う。
「さてと、久しぶりに私もお仕事でもしようかしら。あんまりサボってると犬神にボヤかれるわ」
「犬神さんは何を?」
「さぁ? 適当に九龍をブラツイてるんじゃないの? 地下第一階層か第二階層? それとも別の依頼を片付けてるか。別にいいんじゃない? 飯野ちゃんが気にするモノじゃないわ」
「……そうですね」
「そうよ」
食事を済ませ、身支度を終えた飯野は玄関のドアノブを握り、
「マリグナントさん」
「なぁに?」
「朝ごはん……ありがとうございます。美味しかったです」
「あっそ、お礼なんていいのに」
「それと……行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい。晩御飯は九龍でとるからそのつもりでいなさいよ? 黒獣も飢えてると思うからね」
「わかりました」
扉を開いた先にある学園へ足を一歩踏み出した。