紙袋から煎られた珈琲豆を取り出し、それをコーヒーミルに注ぐ。
「コーヒーってのは人類の偉大な発見だと思うね僕は。何故か分かるかい?」
ミルの中で豆が踊るように回り、擦り砕かれ、粗めの粉となる。挽きたての香りを楽しむ石野は背筋を伸ばす飯野を一瞥し「身体にも良いし、眠気も覚めて仕事が捗るんだよ」慣れた手つきで珈琲を淹れる。
「……」
「神楽ちゃん、あのね、アタシ」
そっと首を横に振り、神宮寺の言葉を制した飯野は白衣の青年を睨む。
九龍の関係者が何故この学校に配属されているのか、マリグナントが何を思って自分に知らせなかったのか……。猜疑と疑惑に塗れた少女の心は研ぎ澄まされたナイフのように鋭く照り、その刃先を石野へ向けていた。
「あー……悪いね、そう睨まれると僕でも少し怖い。けどまぁ……仕方ないってところもあるのかな、うん」
「何が目的なんですか」
「神楽ちゃん、石野先生は」
「黙ってて」
ピシャリと言葉を遮り、黒鉄の鎖を握り締めた飯野へ石野は困ったような笑顔を向ける。
「えっと、神楽さんでよかったよね? そう警戒しなくてもいいんじゃないかな?」
「……くー」
「静かに、その言葉は禁句だよ。あと新宿もね。僕の前なら別にいいけど、他所じゃそうなるか君も知っているだろう?」
ズルリと神宮寺の顔半分を覆った女面を指先一つで砕き、カップに珈琲を淹れた石野は黒狼を“視認”する。
「一つだけ言えることは僕は君の敵じゃない。信用できないと思うけど、今だけは信じて欲しい」
「……」
「僕だって教え子が酷い目に合うところを見たくないからね。新宮寺さんのような優しい子は特にね」
スッと目の前に差し出された黒い水面を見つめ、カップの持ち手を握った飯野は少しだけ珈琲を啜り、濃厚な苦みに顔を顰めた。
「にが……」
「え? そんなに苦い? アタシはそう感じないけど……」
「いや、かなり……舌が痛いんだけど。京香、本当に苦くないの? 我慢とかしてない?」
「ううん? ドトールと同じ位……あ! ごめんなさい石野先生! 凄く美味しいです! このコーヒー!」
苦いなんてモノじゃない。豆をそのまま飲み下したかのような強烈な違和感と、舌の上に何時までも残るチクチクした痛み。土にタール液を絡め、砂鉄を練り込んだ言葉に出来ない味は正に口へ放り込む圧縮された地獄。
涙目になりながら珈琲を眺め、マグカップを揺らした飯野は液体そのものが泥を思わせる粘体であることに気づく。一度揺れる事にサラサラとした流砂のように溢れ、液体である筈なのに粘つき絡み合う異様な飲み物。
「……そっか、ならまだ大丈夫かな」
「大丈夫って……どういうことですか?」
「彼女を助けられるって意味さ。手遅れなら君と同じような反応だった。運が良いよ、神宮寺さんは」
自分もまた同じ珈琲を飲み、渋い顔で笑った石野は何度か噎せる。
「先生、神楽ちゃん、二人ともどうしたの? こんなに美味しいのに」
「……」
「いやぁ良かった、本当に。ところで神宮寺さん、聞きたいことがあるんだけど……いいかい?」
「あ、はい」
「彼氏くんとは上手くやれてる?」
「え? 先生に話したことありましたっけ?」
「少し前だったかな? 此処で教えてくれたよ」
「そうでしたっけ? うぅん……アタシって結構鈍臭いじゃないですか。それで偶に怒られて……はい」
親しげに話しているワケでもないが、神宮寺本人が拒んでいる様子も無い。少女が目を伏せた瞬間に石野の指が動き、髪の毛を一本抜く。
「そっか、じゃあちょっと疲れちゃうよね……。嫌な事とかない?」
「嫌なことですか? えっと……まぁ、はい」
「教えてくれる?」
「……」
「嫌なら話さなくてもいい。生徒のプライバシーは守られるべきだからね。けど……抱え込むのも良くは無い」
後ろ手に髪の毛で輪を作り、ピンと伸ばした瞬間神宮寺の首がカクリと項垂れる。
「京香!」
「……」
「何をしたんですか!? 先生は魔人」
「こうした方が話しやすいと思ってね。大丈夫、神宮寺さんは眠ってるだけさ。ちょっとやそっとじゃ起きないように咒い《まじな》いも掛けてある。九龍と新宿について話すにはアレが邪魔だからね」
口に含んでいた無煙煙草を取り出し、宙を指差した石野の目が涙を流す女面を睨みつけた。
「先ず始めに自己紹介でもしておこうかな? 僕の名前は石野コトウ、マリグナントさんに依頼されて来た九龍人……いや、魔人って言ったほうがいいかな?」
刹那、黒狼が吠え狂い、歪に曲がりくねった牙を剥く。血の滴る臓物を食み、異形の六つ目に殺意を滾らせた獣は魔人の血肉を望む。
「ちょ、ま、待った! 流石に黒狼は無しだろう!? 神楽さん、落ち着いてくれ! 僕は君達を害するつもりなんてこれっぽっちも無い!」
「……その証拠はあるんですか?」
「マリグナントさんの命令に逆らえば逆に僕が殺されるんだよ!? それにもし君を殺そうとしたら今度は掃除屋、犬神宗一郎を相手にしなきゃいけなくなる! 言っとくけどね、僕は魔人の中じゃ最弱なんだよ!」
「……」
顔を青褪めながら狼狽する石野から嘘の気配は感じない。それどころか本気で黒狼に恐怖しているように見える。
「魔人なら落下物を持っていますよね? 犬神さんみたいに」
「えっと、僕はあの人みたいな馬鹿げた落下物は持っていないよ? 落下物だってそんな大したモノじゃないし」
「見せてください」
「自分の手札を開示するのは自殺行為だと思わないか!?」
「犬神さんは全員に見せてましたけど?」
「見せても問題ないなら幾らでも見せてやるさ! けど……マリグナントさんと犬神さんは文字通り別格なんだよ、本当に……。マトモに戦えば君にだって負けるだろうさ、僕は」
「……」
魔人の言葉を信じるべきではない。彼の言葉の裏にまで気を張り巡らせ、少しでもおかしなマネをしたら即刻殺すべきなのだ。
掌の鎖を握り、黒狼を自分達の前に立たせた飯野は「マリグナントさんからは何も聞いていません。貴男のことも、サポートのことも」と冷たく言い放つ。
「それは……多分気を使ったんじゃないかな、マリグナントさんが」
「……」
「君はもう後戻り出来ない立場にある。新宿……いや、九龍と関係を持った人間は誰一人として普通の生活は送れない。魔人、堕慧児、落下物……魔人に堕ちずとも、君は九龍と深く繋がりすぎたんだ」
日常は戻らない。
罅が奔った氷をどれだけ冷やそうと、その傷が消えぬように。全てを元通りにするには自分が死ぬか、その痛みと苦しみを背負うしかない。
「……でも」
それは自分だけ……それこそ飯野だけの苦痛。神宮寺が助かるのなら、まだ間に合うのなら、失う前に救うべき……救われるべきだ。
「私はもう手遅れでも……京香は助かるんですよね?」
「助かる」
「私はもう諦めてもいい。死ぬつもりは無いけど」
「僕だってむざむざ人が死ぬトコなんて見たくない。だからこうしてマリグナントさんに頼まれたんだ、君を助けるように……知恵を貸すようにって」
「……意外と」
「うん?」
「過保護なんですね、あの人」
「そりゃまぁ……おっかない人だけど、無闇矢鱈に人を殺さない魔人には優しいよ。犬神さんも」
「犬神さんはよく分からないです。厳しいこと言ったり、優しくしてみたり……」
「あー……うん、色々とあったみたいだからね。僕は知らないけど、マリグナントさんや他の魔人はみんな言うよ……敵対しちゃ駄目な魔人は犬神宗一郎だって」
「掃除屋ですもんね、最強最悪の魔人の」
畏怖と畏敬が入り混じった曖昧な笑みを浮かべ、額に滲んだ汗をハンカチで拭った石野はゆっくりと首を振り、
「犬神さんが殺すのは一般人を害する九龍人か、欲に溺れた魔人だけさ。戦えない魔人……僕みたいな非戦闘系は脅されながら面倒を見て貰ってるよ。普通みたいに生きられるようにね」
呆れたように溜息を吐く。
一見すれば無害な魔人……人間とは別の意味で危うさを持つ青年なのかもしれない。物腰は柔らかく、親しみ易い温和な性格。異性を引き付ける整った顔立ち。スラリとした細身の身体。女子生徒の黄色い声援を受けるのも納得できる。
だが……彼は九龍に生きる魔人。一度は己が欲望の赴くままに行動した存在。心を許した途端に殺意を滾らせ、暴虐の限りを尽くす可能性も否めない。警戒を解くには至らない。
「……分かった、君がそこまで信用できないのなら、僕も九龍に行こう。怖いけど」
「魔人が九龍を怖がるんですか?」
「そりゃそうさ、掃除屋と紅女王と会うのは何時だって緊張するよ。けど……君に信用される方法がそれしかないのなら、行くしかないだろ?」
「……一応」
「一応?」
「マリグナントさんに連絡を入れておきますね、貴男が来ること」
その言葉を聞いた瞬間、石野は息を詰まらせながら頷いた。