九龍の呪物や呪具は常人をいとも容易く死に至らしめる圧縮された呪いである。堕慧児の落下物とは違い、使用しても魔人へ堕ちず、人肉食の欲を刺激しない狂気の異物。
病を振り撒き腐敗を植え、不幸を押し付け事故を装い、果ては直接命を奪う狂った手。新宿区で起こる事件の大半は九龍の呪いによるモノであり、九龍内部の売人と取引する反社が外へ持ち出し混沌を望み得る。切除されずに増殖し、秩序を蝕む悪性腫瘍……それが魔境都市新宿、東京九龍なのだ。
新宿区警察署の武装警察官が罪人を撃ち殺そうと、魔人案件に挑む刑事が命を賭けて死を追おうと、蔓延する呪いは止まらない。全ては無意味で無駄な足掻きにして、ただ時間を浪費する徒労。それを解する者であるならば、抗う力を持つならば、大切な何かを奪われたくはないと願うならば……牙を剥くしかあるまい。堕ちず、睨み、奮い立ちながら。
理に背くなかれ、領を見定め踏み越えよ。
愚者を噛み砕き、隠遁する知を手繰れ。
さすれば呪いは反転し叡智と成り、闇は付き従う影と成ろう。
九龍は人を喰らい、生死を舐め、仄暗き口を開いているのだ。秘宝を握る者を待つが故に。
「……」
「神楽ちゃん? どうしたの? さっきからずっと私の後ろばかり見てるけど……」
揺蕩う女面がさも感情を得たかのように笑い、鎖で繋がれた黒狼もまた唸りを上げて曲がりくねった牙を剥く。
面が九龍の呪物であるのは確かな筈。周りの生徒の様子を見ても誰一人として面へ視線を向けず、友人と談笑するばかり。机を指先で二度叩き、黒狼に面を破壊させた飯野は「虫が居たの、小さな羽虫がね」作り笑いを顔に張り付け、神宮寺の手を引き椅子から立ち上がる。
「ごめん、今日弁当無くってさ。売店行かない?」
「うん、いいよ! あ、お弁当なら明日からアタシが用意しようか?」
「大丈夫よ、大変でしょ?」
「別に一つ二つ増えるくらい問題無いよ! あ、売店のパンだけじゃお腹空くと思うからアタシのおかずも分けてあげるね!」
昼休みの廊下には多くの生徒が雑談に興じ、飯野を一瞥すると気まずい顔で視線を逸らす。
魔人……強いては九龍と関係のある少女と絡むのは気が引ける。事件の全貌を知らずとも、ネットニュースやSNSに流れている情報を目にしたことがあるのならば当然か。奇異な視線を颯爽と横切り、購買へ向かった二人は売店で軽食を買う。
「京香、お弁当は?」
「うん? あるよ?」
「じゃぁ私と同じモノ、買う必要無いんじゃ」
「えー? お腹空くよ? 特に五時間目の終わりとか」
「……別に」
気を使わなくてもいいのに。その言葉をグッと飲み込み、神宮寺の人柄に甘えている己を見つめた飯野は自嘲する。
神宮寺京香という少女はよく空気を読まないと言われていた。それも陰口ではなく本人を目の前にしてだ。
誰かが悲しんでいるのに関係の無い話を振り、皮肉や嫌味を言われてもまた別の話をして話題を逸らす。何時も明るく朗らかで、悪態の一つも言わない神宮寺は年頃の少女達からして見れば体の良いサンドバッグ。彼女を合法的に殴る為に付けられたレッテルが“空気を読まない”免罪符。
神宮寺は決して“空気が読めない”少女ではない。
誰かに寄り添いながらも視線を別の方向へ向けようとする賢明さ。
悲しみに気付かないのではなく、感情を必要以上に知ってしまうからこそ目を逸らさせようとする優しさ。
それが自分の役割であると無自覚に悟ってしまう感受性、笑顔が必要ならばその心に罅が奔ろうと笑ってしまう人の良さ。
こうして彼女の優しさに触れ、日常の中で息をすることが出来るのは、一重に神宮寺京香が飯野神楽の“当たり前”を守ってくれているからだ。九龍の魔が眼に映ろうと、強烈な違和感が宙に浮遊していようと、彼女が居るから日常は崩れない。
「京香」
「ん?」
「新宿、行ったりしてないよね」
確かめずにはいられなかった。例え彼女の目に黒狼が見えていなくても、女面の狂った笑い声が聞こえずとも……飯野は神宮寺の口から真実を聞きたかった。
「え? 新宿?」
「うん、特に歌舞伎町……九龍がある場所とか」
「行ってないよ」
ゾクリとする冷たい声。息を呑み、神宮寺の瞳を見つめた飯野は掌が汗ばんでいることに気付く。
「行ってないよ」
「……本当?」
「行ってない」
ジワリと黒ずんだ瞳が飯野を見据え、機械的に動く唇から血の気が失せる。狂った女面の笑い声は何時の間にか消え、その代わりに神宮寺の顔半分が古びた木目に覆われた。
「……貴女、誰?」
「神宮寺京香」
「違う」
「違わない」
「私が知ってる京香は……そんな声じゃない」
「貴女はどんな私を望むの?」
「……」
「笑顔? 憤怒? 憎悪? 涙?」
どうしたらいい。黒狼を使って面だけ叩き割るのか?
いや、そうしたら神宮寺の顔を削ってしまう可能性がある。いや、それよりも呪物が神宮寺の顔に張り付いている理由はなんだ? 九龍……新宿のことを聞いたから?
「あー、悪いね。ちょっといいかい? お嬢さん方」
「———ッ!!」
不意に優し気な男の声が背後から聞こえ、勢いよく振り向いた飯野の目に端整な顔立ちの青年が映る。
「僕も買い物したいんだけど……えっと、喧嘩中? 駄目だよ、友達同士で喧嘩しちゃ」
消毒液の匂いが染み付いた白衣と艶のある黒髪。ノーフレームの眼鏡を掛けた青年は神宮寺の肩を軽く叩き、トレーに乗っていた最後のあんパンを手に取った。
「……? あ、え? アタシ、また」
「疲れてるみたいだね」
「え?」
「いやぁ、疲れは若さの天敵だよ? 君達がどれだけ若いっても知らず知らずの内に疲労は溜まる。特に黒髪のお嬢さん、君は特に疲れてる。大事にしなよ? 自分の身体をさ」
柔らかい笑顔を浮かべた青年へ女子生徒の熱い視線が集まり、それと同時に二人へ嫉妬の眼差しが向けられる。
「……貴男は」
「新任の保険教諭。分かり易く言えば保険室の先生だね。ほら、これ」
『石野コトウ』透明なネック・ケースに入れられた名札を指差し、無煙煙草を歯茎と唇の間に挟んだ青年……石野は「珍しいでしょ? 片仮名の名前なんてさ。気軽にコトー先生って呼んでよ」と冗談めかして笑う。
「あ、コトー先生! こんにちわー!」
「今日も元気だね神宮寺さん。体調は大丈夫?」
「はい! あ、神楽ちゃん、この人は」
「分かってる、名札見たから。京香、またって……どういう意味?」
ギクリと神宮寺の表情が凍りつき、飯野から視線を逸らす。言いたいけれど言えない、他人を心配するような素振りで。
「朝も少しおかしかったよね? 京香、何か悩みがあるなら話してよ。私達」
「もー! アタシは大丈夫だって! 見ての通りピンピン」
「大丈夫じゃないから聞いてるんじゃないッ!」
シン———と、耐え難い静寂が購買を包み込む。誰の目を気にする余裕は既に飯野は持ち合わせていなかった。
「か、神楽ちゃん、あの、えっと……ごめん。アタシ、空気読めてなかったよね? 辛いのは神楽ちゃんの方なのに、ごめんね?」
「———ッ!!」
奥歯を噛み締め、怒りで目の前がくらりと歪む。
神宮寺が悪いとは毛先も思わない。彼女は優しすぎるから、怒りの矛先を向けられても謝り続けるだろう。
この場で自分勝手な思いを感情に乗せ、振り上げた拳の行き先を見失った己が一番の悪。憎しみを他人へ吐き出し、空に浮かぶ女面に対抗する手段を持たない阿呆。それが悔しくて堪らない。
「あー……えっと、うん。二人とも保健室に来なさい」
「……」
「気を張ってるだけさ、人間は精神に引っ張られる生き物だからね。それと」
石野の目が女面を睨み、溜息を吐くと、
「少し静かな方がいいだろう? 神楽さん」
白手袋で覆われた指を弾き、音だけで木っ端微塵に粉砕する。
「な———ぁ」
「君、見えていたんだろう? 僕もあの面が気に食わなかった。マリグナントさんのお友達……そう言えば分かるかな?」
驚愕の色を浮かべる飯野を他所に、石野のシィと唇に手を当てると「良い豆があるんだ。パンのお供はコーヒーって決まってるんだ。昔から、ね」二人を保健室へ案内した。