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曇天

 登校時間に合わせて多くの学生が生徒玄関前に集まり、靴を変えて各々の教室へ向かう。


 時刻は午前八時十分。二十分後にはホームルームの予鈴が鳴り、席に着いていない生徒は遅刻扱いになる。携帯電話のデジタル時計を見つめ、書きかけの手紙を指先に挟んだ飯野は曇った硝子の向こう側……校門を見つめていた。


 もし今日中に出会えなくても、明日まで待てばいい。それが駄目ならまた次の日、それでも会えなかったらまた翌日。九龍と関係を持たなかった者であれば明日という不確実な日々を待ち続け、家の留守を任された犬のように尻尾を振って人を待つことが出来た。


 だが、魔人に家族を殺され、九龍の魔に触れた少女は明日を信じることが出来なかった。もし友人である神宮寺が九龍に染まり、命を落としたとしたら、己は確実に彼女を誑かした人間へ殺意を向ける。九龍という魔窟へ無垢を放り込み、食い殺した狂人を許すことは出来ないと、飯野神楽という少女は己の内側を知ってしまったのだから。


 重苦しい曇天の下でバイクの音が鳴り響き、如何にもな輩が校門の前で停まる。派手なピンクのヘルメットを被り、学生服を着た少女が後部座席から降りた。


 学生鞄に揺れるマスコットキャラクターのキーホルダー、焦げたような色のセミロング、同年代の少女達と比べると少しだけふくよかな身体。ぼんやりと生徒玄関を見つめ、肩をバイカーに叩かれた少女……神宮寺京香はハッと息を飲み、周りをキョロキョロと見渡す。


 「京ーーー」


 友人の元へ歩み出そうとした足が不意に止まり、背後から獣の唸り声が聞こえた。


 黒狼……犬神宗一郎が飯野に貸し与えた異形の狼が影の中で牙を剥き、濃厚な血の香りを醸し出す。爪にヌラヌラと照る臓物を突き刺しながら、神宮寺へ飛び掛かるタイミングを見計らっていたのだ。


 「やめて」


 血の匂いに噎せ、臓物臭が喉の奥を刺激した。


 「あの子は私の友達なの。魔人じゃない。だから……まだ駄目。引っ込んでて」


 不服なのか、逆らっているのか。黒狼が彼女の言葉に耳を貸そうとしない。殺意に狂った真紅の双眼を燐々と輝かせ、耳まで裂けた口をガバリと開く。


 この獣は肉を欲しているだけだ。命が散る瞬間に快楽を感じ、血を啜ることだけを考える死の獣。右目から流れる温かい液体を手の甲で拭い、白い肌に染みた鮮血を目の当たりにした飯野は右手の違和感に気づく。


 ジャラジャラという金属音を響かせる無数に絡まる黒鉄の鎖。鎖は黒狼の喉元に突き刺さり、手を動かすごとに獣が吠え、激痛にのたうち回るような動きで地面を転がる。


 「あの」


 「……」


 「血、流れてるけど、その、先生を」


 「これ」


 「はい?」


 「此処に黒い狼が居るんだけど……見える?」


 「……はい?」


 飯野の異常を察した女子生徒が怪訝な顔で黒狼が暴れる場所を見つめ、眉を顰める。


 「えっと」


 「何でもない、大丈夫。ありがとう」


 「ホント? 顔色も悪いけど」


 「それは元々。本当に大丈夫だから」


 「ならいいけど……」




 恐らく……黒狼の姿は一般人には見えていない。六つ目の巨大な狼が転がっているのに誰一人気にも留めず、談笑しながら素通りしていくのだから。これは確定事項だと考えてもいい。


 しかし、新宿区警察署及び九龍が位置する新宿歌舞伎町では黒狼が人を殺し、内臓を貪り食っていた。九龍人も獣を恐れ、魔人から地上へ顕現した堕慧児も黒狼の群れに食われている。ならばーーー九龍と触れた者だけが黒狼を認識することができるのだろう。


 だからーーーどうか彼女の瞳が黒狼を映さないように。九龍という魔窟に足を踏み入れた事が無いようにと。掌から伸びる鎖を引き摺った飯野は心此処に非ずと校舎を見つめる神宮寺に近づき、目の前で手を振る。


 「……」


 「京香?」


 「……」


 ぼんやりと……鞄を肩に提げた神宮寺は黙って歩き出す。飯野が視界に映っているのにも関わらず。


 「待って京香、どうしたの?」


 グルグルと喉を鳴らした黒狼が爪に突き刺していた臓物を食み、鮮血を辺りに撒き散らす。


 「京香ってば! どうしたのよ、本当に! 連絡を返さなかったのは悪かったけど、無視するのは無いんじゃない!? ねぇ!」


 もぞりーーー神宮寺の鞄が蠢き、独りでにファスナーが開く。


 僅かな隙間から見えたモノは女面。茶けた木目に罅が奔り、赤黒い染みに濡れた異貌の面。カタカタと震える女面に黒狼が吠え、剣のような尾を振り翳すと神宮寺の鞄ごと面を木っ端微塵に吹き飛ばした。


 「何を」


 「ーーーアレ? 神楽ちゃん?」


 ハッと意識を取り戻したかのように飯野の顔を見つめ、満面の笑みで手を握った少女は散乱した勉強道具に「え!? 何で!? アタシの鞄!」自然な素振りで取り乱す。


 「……京香、大丈夫?」


 「へ? 何が?」


 「その……なんだか疲れてるみたいだったけど、何かあったの?」


 「ううん? 別になんでもないよ? けど……大変だったのは神楽ちゃんの方でしょ?」


 「私は別に」


 「別にじゃないでしょ! その……あのね、大変なことがあったら相談してね! 授業のプリントとか、ノートも取っておいてあるからさ!」


 散乱した教材に気づき「あ……」苦い顔をした神宮寺は慌てた様子で「で、でも大丈夫! 源がいるから!」携帯電話でメッセージを送った。


 「いいよ、ありがと京香。遅れた分は自分で何とかする。分からないとこあったら聞いてもいい?」


 「任せて! 神楽ちゃんの為に勉強だけはしてたから!」


 「……」


 神宮寺の様子に変わったところは見られない。己の隣で臓物を食む黒狼も見えていない。


 考えすぎか……。手を握る少女へ曖昧な微笑みを浮かべ、チラリと教材の中に埋まる女面へ視線を向けた飯野は息を呑む。


 面が無い。木っ端微塵に吹き飛んだなら破片の一つでも落ちていた方が自然だ。しかし、灰色のアスファルトには木片が一つも落ちていなかった。


 新宿……九龍から持ち出された呪具や呪物であるのなら、人間の常識を超えた現象を引き起こす可能性が高い。現に魔人と成った者は落下物と呼ばれる道具を使い、人間を辞める。もしアレが九龍の落下物だとしたらーーー神宮寺は。


 「神楽ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」


 「……」


 「保健室行く? 肩貸そっか?」


 魔人なのかもしれない。頭から血の気が引き、先の事件をフラッシュバックした飯野の耳に声が聞こえる。




 笑い首が宙を舞い、泣いた首から血が溢れ


 能面烏帽子は首を狩り、首を狩られた身体が踊る


 狂って転がる笑い首、涙に濡れる泣き首と、最後に蹴られた怒り首


 面が見るは夢現、現は夢で、夢は現し世、死の真宵


 呪われ少女は女面を被り、女面を被れば夢を見て


 能面蹴鞠は九龍呪物、烏帽子揺れては血が舞って、舞が終わるは命の終わり


 九龍呪物の能面蹴鞠、呪われ少女は呪詛を撒く




 まただ、またこの歌だ。九龍の中で聞こえた歌……無邪気な少女の声が脳に響く。


 荒い息を吐き、全身を包み込む冷気に身震いした飯野は双眼に神宮寺を映すと同時に、彼女の背後に浮かぶ女面を睨む。


 「……京香」


 「どうしたの? えっと……ごめん、アタシ空気読めてなかったよね。彼氏からも何時も言われて」


 「私が絶対に守るから」


 「え?」


 「もう二度と奪われない。殺させない。私は大丈夫、京香には分からないと思うけど……全部私に任せて。これ以上……私の大切な人を九龍なんかに奪わせてやるもんか」


 鎖を鳴らし、黒狼に再び女面を砕かせた飯野は神宮寺を抱き締め、


 「放課後私に付いて来て。多分……京香も他人事じゃないと思うから」


 血涙を流しながら口角を歪める面を見据えた。


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