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相談

 玄関の扉を通り抜けた先にあるのは、雨に濡れた校舎と雨粒を滴らせる校門だった。


 なぜ玄関扉を開けた先に学校があるのか、空間に扉が浮かび上がっているのか……。遠く離れた場所を繋ぎ合わせた方法を問うのは無駄なことなのだろう。聞いたところでマリグナントは飯野にも理解できる言葉を話さないし、納得できる解を提示しないのだから。


 幾何学模様が描かれた扉は鉄錆に塗れ、ドアノブには緑色の粘液が滴っている。朝の空気とは不釣り合いな臭い……錆に紛れた血の香り。周囲を見回し、誰も居ないことを確認した飯野は静かに扉を閉め、掌に付着した錆の破片を払う。


 「……」


 閑散とした校舎に人の気配は無い。ゆっくりと歩を進め、下駄箱から中靴を取り出した飯野は教室へ向かう。


 学校は嫌いじゃない。友達も居れば、趣味を共有する仲間も居る。登校から下校の時間まで拘束されるが、その後のことを考えれば暇潰しに最適な場所だったから。教室の扉を開け、自分の席に座った飯野は溜息を吐きながらグラウンドを見つめ、時計へ視線を移す。


 午前六時五十分。ホームルームの時間まであと一時間四十分。教科書やノートを机に押し込み、プリントの束を捲っていると一枚の便箋が灰色の床へヒラリと落ちる。


 可愛らしいデフォルメ調の小動物がプリントされた便箋。プックリと膨らんだ柔らかいシールを剥がした飯野は丸い文字を目で追い、自分を心配している迄を読み、差出人が友人の神宮寺京香であることを知る。


 可愛いもの好きで新しいモノに目が無い少女。何処か呆けているようで、自分のペースを乱さないのんびり屋。最近彼氏ができたと聞いたが、浮かれているのか学校を休みがちになってしまった同級生。便箋を折り畳み、野球部の活動を眺めていた飯野は筆箱からペンを取る。


 彼女が登校してからでも遅くないと思ったが、たまには手紙を返そう。言葉だけじゃなく、嘘を紛れ込ませた文字を綴るのも悪くない。ノートのページを破り、顎に手を当てていた飯野は『大丈夫、全部終わったから』とペンを走らせる。


 全部が全部終わったワケではない。祈祷者と呼ばれる不気味な集団の件もあるし、自分自身どうやって九龍と向き合うのか、これからどうなるのか……実際は分からないことだらけ。


 だが、それでも、心配してくれる友人へ無駄な心配を掛けることは出来ない。ウンウンと唸りながら、何時の間にか人が居なくなったグラウンドを一瞥した飯野は静かにペンを置く。


 「飯野」


 意識の外から声を掛けられ、目を大きく見開いた少女は汗を滲ませた少年……源晃汰を視界に入れる。


 「その……大丈夫なのか? もう」


 「大丈夫」


 「……アレ、プリントとかさ、神宮寺が集めてたからさ。多分今日は来ると思う。えっと……なんかあったら相談しろよ? 俺は」


 「全部終わったから、大丈夫。にしても」


 「ん?」


 「何時から朝練やってんの? 雨とか、グラウンドの状態とか、色々あるんじゃない?」


 「あぁっと……六時からだな、うん。ほら、監督変わっただろ? それで色々変わったんだよな。飯野は何でこんな早い時間で? 何時もはもっと遅いじゃん」


 「まぁ……早めに目が覚めただけ。源が思ってる程深い意味は無いよ」


 特別仲が良いワケでもなく、悪いワケでもない。ただ同じ友人……神宮寺が間に立っていたからこそ関係を持つことが出来た仲。曖昧で重苦しい沈黙が二人の間を漂い、再びペンを握った飯野は「京香、元気?」呟くように問う。


 「元気ってーか、なんつーか……何だろうな。分かんねぇ」


 「分からない?」


 「あぁ、アイツさ、前に彼氏が出来たとか言ってただろ? それから何だろ……可怪しいんだよ」


 「どんな風に?」


 「夜さ、毎日どっか行ってんだ。そんでバイクの音が聞こえて、明け方になってやっと帰って来る。行き先、一回聞いてみたんだけど……神宮寺のヤツ、新宿に行ってるみたいなんだよ。あの九龍がある」


 九龍……その言葉に瞼がピクリと反応する。


 「治安とか……ヤバいだろ、あそこ」


 右目の奥がグラグラと煮詰まり、獣の唸り声が耳元で木霊する。


 「神宮寺のヤツ、結構鈍いとこあるからさ。もし悪い連中に引っかかってたら」


 「どうするつもり? 殺すの?」


 「……は?」


 そこでハッと息を飲んだ飯野は席から立ち上がり、目を伏せる。


 「ごめん、今の聞かなかったことにして」


 「……あのさ」


 「本心じゃないから。殺しても……なんの解決にもならないし、問題が増えるだけ。だから……ごめん。変なこと言って」


 「俺、飯野に聞きたいことがあったんだ。多分、学校じゃお前しか知らないこと。……九龍の掃除屋って……知ってるか?」


 「知らない」


 「でも」


 「知らない。知ってても……絶対に教えない」


 「何で」


 「じゃあ聞くけど……源は血を見たこと、ある?」


 「血……?」


 目を上げ、少年の瞳を覗き込んだ飯野の瞳孔に獣性が宿り、高圧的な殺意が理性を食らう。


 「そう、血。血の中に浮かんだ内臓は? 散らばった肉片は? 人が食われる瞬間、見たことないでしょ?」


 「あるわけ」


 「ない。普通はそう言うよ。けど……九龍に絡んだら、魔人に出会ったら、そんな光景を見ることになる。だから教えないし、知らないって言うの。分かる? 理解できた? じゃ、また今度ね。さよなら」


 「……」


 常人に九龍の……それに連なる新宿の地獄は見せられない。九龍の掃除屋、最強最悪の魔人ーーー犬神宗一郎と出会う前に命を落とす確率の方が断然高い。


 「犬神宗一郎」


 「……」


 「SNSで聞いたんだ、九龍を歩くために、新宿で死なない為にどうしたらいいのか。飯野、俺は……神宮寺が何をしてるか、どんな奴らと付き合ってるか、それを知りたい。だから……頼む。俺に九龍の掃除屋を、犬神宗一郎って人を紹介してくれ」


 「知ってどうするの? 知らなかった方が良かったなんてこともあるのに」


 「心配じゃんか、やっぱり」


 「……」


 「幼馴染だし、家は隣だし、気になるんだよ……やっぱり。あ、いや、変な意味じゃねーよ? 小学校から中学校、入試だって一緒に勉強したんだ。気にしない方が可怪しいじゃん」


 「大事にしてるんだね、京香のこと」


 「いや、別に」


 気恥ずかしそうに頬を掻き、頭を下げた源は「頼む飯野! 俺に九龍の掃除屋を、犬神さんを紹介してくれ!」と声を張る。


 いいよーーーと、快諾するのは簡単だ。学校が終わり次第、区間電車に乗り込み新宿区へ向かえばいいのだから。


 だが、それ以上に飯野が気にかけていたこと……それは九龍へ辿り着くまでの道程と、一般人パンピーの命を狙う九龍人狂人の存在だった。魔人に劣る畜生でありながら、人の命を塵滓程度にしか認識しない存在。


 どうするべきかと逡巡し、携帯電話をポケットから取り出した飯野はアプリを開き、マリグナントへ一通のメールを送信する。


 「言っとくけど」


 「うん」


 「九龍に着いてもさ、絶対に私の知り合い……魔人から離れないでね。もし離れたら命の保証は無いから」


 「お、おぅ……」


 「絶対だから」


 「分かったって、肝に命じるよ」


 「約束よ」


 顔を青褪めながら頷く源を他所に、溜息を吐いた飯野は鈍色の空を見上げるのだった。


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