『ヒーローとしての仕事と早起き、どっちがつらい?』と質問された際、早起きだと答えるのはパン屋の娘としてはいささか問題があるかもしれない。
ブレッド・ノヴァ…もとい、私こと『
時刻はまだ六時半、登校には早すぎる。かといって家の手伝いをするのなら早すぎることもなく、私は花糸商店街にある『ベーカリー・ミルキーウェイ』に到着するとすぐに自転車を止め、お隣さんの花屋との隙間にある裏口からお店に入った。
「お母さん、おはよう。私も手伝うよ」
「ありがとう、舞! とりあえず品出しお願いできる?」
店裏の物置兼休憩所へ向かい、制服のジャケットを脱いでエプロンを着用、三角巾も巻いてレジに顔を出すとお母さんが忙しく袋詰めをしていた。今は朝食や昼食を購入するために訪れたお客さんがいて、見知った顔も多いことから私と目が合うと会釈してくれる人もいる。
私もそれに軽く頭を下げ、言われたとおり工房に向かってパンを運ぶ。今の客入りと在庫を考慮したら、私も少しだけ焼かせてもらえるかもしれない。
それを考えると私の気持ちにムクムクとやる気が芽生え、我ながらヒーローのときとは全然違うと苦笑した。
(まあ仕方ないよね、こっちが私の本業だし)
星川舞、高校一年生。そう、私はどこにでもいる女子高生で実家はパン屋、将来はお店を継ぐのが夢…小説の主人公と違い、変わったところなんてどこにもないのだ。
…ただ、まあ。今は生活のために、ヒーローなんてものをしているのだけど。けれどそうした力を得たのもヒーローを続けざるを得なかったのも、やむを得ない事情があってこそだ。もしもその事情がなかった場合、私は普通の高校生のままだったんだろうな。
「ふう、やっといったん落ち着いた…舞、いつもありがとね。ヒーローで忙しいのに、毎日早起きをして手伝ってくれるなんて…」
「ううん、気にしないで。私、このお店とパンが大好きだから…それに、ヒーローなんて柄じゃないし、似合ってもいないから」
お店の販売スペースは大体8坪くらい、小型のカフェよりも狭いことから今はなんとか親子二人でも回せる。もっと忙しいときは妹にも手伝ってもらわないとだけど、普段はお母さん一人でもギリギリ運営ができる規模だった。
そんな広さであることも手伝って、パンの品出しはすぐに終わる。陳列されているパンはどれも手作り、お母さんが小麦粉からこだわっているだけあって大手のチェーン店にも負けていない。いや、絶対に勝ってる。
(…なのに。お父さんは、どうして…)
お店は決して大きくはないけれどリピーターの人も多くて、家族が暮らしていく上ではそんなに苦しくなかったのに、私のお父さんは。
外で女を作り、出ていった。らしい。
元々お父さんは顔がよかったらしく──私はそれほどとは思わない──、それでいて流されやすかったことから、間女に情が湧いて出ていった…とはお母さんの弁だ。
まあ、百歩…一億歩譲ってそれはいいとしても、家の貯金──私や妹の進学費用まで含まれていた──まで持って逃げ出したことに関しては、さすがに許せなかった。
「…ふふふ。でも『ブレッド・ノヴァ』って名前、お母さんは好きだよ? 舞は本当にこのお店が好きなんだなって嬉しくなっちゃう」
こうして笑うお母さんの表情に、無理をしている様子はない。毎日誰よりも早起きで、そして誰よりも長く働いているというのに、そこに過度の疲労は滲んでいなかった。
そんな事情があって人手的にも資金的につらくなった私たちのお店だけど、それから程なくして私にヒーローとしての素質が芽生えたのは、ささやかな希望だったのかもしれない。
ヒーローとして活動すれば動画配信やそれ以外の方法で収益を得ることができて、実際に収益化早々に普通のアルバイトよりも短時間で稼げるようになったあたり、この国におけるヒーローの立場の強さが理解できた。
…それこそ、私みたいな地味な新米ヒーローであってもそう思えるくらいには。
「…もう、やめてよ。それより、今日も私にパンを焼かせてもらっていい? ヒーローをやめたときに備えて修行したいの」
「うん、もちろん。それと、気に入ったパンをいくつか持っていってお弁当にしてね」
お母さんとの会話は小麦が焼ける香りみたいに、どこか心躍ってくすぐったい。私よりもさらに長い髪を翻し、忙しく工房を行ったり来たりしているお母さんはすかさずからかってくるけれど、私の気持ちはヒーローになった直後から変わらなかった。
私はヒーローだけど、それは手段でしかない。その立場に執着や未練はなくて、できることならすぐにやめたいけれど。
私を支えてくれるお母さんに妹、そんな二人も働くこのお店を守れるのなら。もうちょっとだけ頑張るよ。
そんなふうに考えられる自分が、ほんの少しだけヒーローっぽく感じた。