目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第10話「女の子には、秘密がつきもの。なのです」舞と乃亜

 江田さんは基本的にぼんやりとしていて、何もないところを見つめていることが多い少女だった。

 以前の休憩時間中も彼女は教室の隅の窓際に立ちながら、遠くの空をただ黙って眺めていた。窓ガラスに映る淡い光が、江田さんの髪の先端を柔らかく照らす。風がそよぐたびに彼女の三つ編みがかすかに揺れ、その動きが静寂の中で唯一の生命感を与えていた。

 彼女の瞳はどこか遠い場所を彷徨うかのようで、今ここにいるはずなのに心は別の世界に旅立っているかのようだ。周囲の喧騒やクラスメイトの笑い声も彼女の耳には届いていないようで、その存在はまるで透明なベールに包まれているかのようだった。

 その浮世離れした雰囲気、たどたどしい話し方、早退や休みも多いことから話しかける人は少なく、そこそこ話している私たちですらどこか距離を感じていた…のだけど。

(…どうしたんだろう、江田さん。今日はやけに私を見てくる、ような…)

 昼食を目前とした休憩時間中、江田さんの視線に気付いた私はそちらの方向を見る。すると彼女は椅子へ横座りしながら背もたれに腕を預け、明らかに私を見つめていたのだ。

 赤橙の透き通った瞳は焦点の捉えどころがなく、普段空を見上げているときと同じようになにを見ているのか捉えにくい一方、その方角は間違いなく私へと一直線に向いていて、ついこちらも見つめ返してしまう。

 江田さんの瞳を見ていると深海に沈み込むような錯覚があって、得体の知れない圧力を感じる一方、生ぬるいお湯に包まれているような安堵もある。だからなのか、すぐに逸らすことはできなかった。

「おっ、舞ちゃんどったの〜? 乃亜ちゃんとそんなに情熱的に見つめ合っちゃって、もしかしてあたしというものがありながら浮気かにゃん?」

「いや、そういうのじゃなくて…江田さん、今日はよくこっちを見てくるから…もしかして伝えたいことでもあるのかなって」

「そうね、江田はあんまり口を開かないから…言いたいことを我慢してるのかもね。聞いてきてあげたら?」

 江田さんと見つめ合って少ししてから、私のそばにいた新井さんが肘でこちらを突っつきながらのんきに茶々を入れてくる。私と鈴、新井さんはよくこうして三人で集まって駄弁っているのだけど、この日は江田さんの視線に気を取られていたらしく、先ほどまでなにを話していたのか覚えていなかった。

 ちなみに、私と新井さんのあいだに浮気だのなんだのと言われるようなことはない。そもそも「乃亜ちゃんも見つめるならあたしにすればいいのに〜」なんて言っているように、この子は『一番注目されるべきはあたし』みたいな考えがあるのだろう…さすがは自称アイドル。

 もちろん鈴はそんな世迷い言には一切応じず、私と同じように江田さんを見ながら話を聞いてくるように促してくる。鈴は私が『話しかけられない限りは自分から行動しない』というのをよく知っているようで、現に今も彼女にせっつかれないと見つめ合うだけで休憩時間が終わっていた。

 そんなわけで「そうだね、行ってくるよ」と二人に伝え、席を立って江田さんの方角に歩みを進める。教室内ということで距離はそんなに離れていないけれど、彼女の視線を真っ向から受け止めながら向かっていると梅雨の柔らかな向かい風に吹かれているようで、コンマ数秒ほど到着が遅れた。

「江田さん、どうしたの? 今日はこっちを見ていることが多かったけど…気のせいだったらごめんね」

「あ、ごめんなさい。うん、見てた」

 そうして私たちの距離が埋まる頃、私はぼけっと見つめたままの江田さんに対して率直に尋ねる。今さらだけど「『見られているような気がした』って声をかけるのは自意識過剰みたいだな…」なんて感じ、念のために気のせいかどうかも尋ねたけれど、江田さんはとくに驚いた様子もなく同意した。

 訥々とした話し方の江田さんだけど、声のボリュームもそれに見合った控えめなものであり、休み時間の喧噪にかき消されてもおかしくないほどのレベルだ。もしかすると、こういう聞き取りにくさもあまり周囲と会話が成立しない理由かもしれなかった。

「そうなんだ…もしかして、用事でもあった?」

「……うん。星川さんの家、パン屋、だよね?」

「うん、そうだよ。ミルキーウェイっていうんだけど、もしかして来てくれたことがある?」

「この前の任…あ、いや、行ったこと、ない、です。でも、パン、おいしい…おいしそうだから、食べてみたくて」

 自分から周囲にお店のことをアピールしているわけじゃないけれど、この学校に通う生徒たちには商店街に足を運んでいる人も多くて、たまにお店に来てくれる子もいた…たとえば鈴とか新井さんとか。

 けれど私の記憶の中では江田さんの姿を見かけたことはなくて、そんな中でお店に対して関心を持ってくれるのは嬉しかった。

 私にとってあのお店は人生の大事なものの大半が詰まっているから、少しばかりの営業だってしたくなるのだ。

「そっか…じゃあ、今日の放課後に寄ってかない? 私も今日は学校が終わったらそのまま手伝いに行くから、よかったら案内するよ」

「いいの? ありがとう、じゃあ、お邪魔する…ね」

「うん、了解…お母さんの焼いたパンはおいしいから、期待しててね」

 かくして私の営業は成功、江田さんはほとんど考え込む様子もなくお店へ来てくれることになった。相変わらずその表情は変化がなく、私はともすれば売り上げに焦る営業マンのように強引だったかなとも思ったけれど、彼女のわずかに弾む声音が罪悪感を霧散させてくれる。

 そして、何より。

「…あ」

「…ふふっ、もしかして期待してくれてる?」

「…はい。お昼ご飯が近いと、こうなる、のです」

 江田さんのお腹は『きゅるるるる』という盛大な空腹の音を立て、パンが楽しみですという実に可愛らしい意思表示をしてくれた。

 笑ったのは悪いと思ったけれど、江田さんの無表情はそれに不快感を示すこともなく、お腹を軽く押さえるその仕草は不意に心をくすぐられて漏れ出てしまいそうな秘密を隠すかのようで、頬には淡いくれないがそっと花開いていた。それは静寂の中に芽吹いた柔らかな春の気配のようで、私は休憩時間を終えるチャイムの中、彼女に軽く手を振って席に戻りつつ「早く放課後にならないかな」なんて考えていた。


 *


「ここがうちのお店だよ。今日のおすすめは…」

「ソーセージドッグ、食べたい。いい?」

 放課後、私と江田さんは商店街へと歩いて向かう。一人なら自転車に乗るけれど、普段の江田さんは車で送迎されているらしく、この日は自転車を押しつつゆっくりと慣れた道を踏みしめていた。

 私も江田さんも自分から話題を振るようなタイプじゃないので、二人きりだと会話が途絶えている時間も長い。けれどそれは夕方になって柔らかくなった日光のように穏やかでもあって、そういう意味だと私はこの子と馬が合うのかもしれなかった。

 そうして到着し、今日は一緒に入り口から入る。すると店番をしていたお母さんは私と江田さんを見るとそれだけで事情を察したのか、「いらっしゃいませ」と微笑んでそれ以上は干渉してこなかった。

「ん? もちろんいいけど…ソーセージ、好きなの?」

「…食べ応えがある…ありそう、だから」

 そして私は販売棚に載っているパンの中からおすすめを…と思っていたら、江田さんは自らソーセージドックを指名する。たしかに食いしん坊──実は今この瞬間もお腹が鳴り続けている──な彼女にはお勧めの食べ応えがあるメニューだけど、初めて来てくれた割にはその迷いのなさを不思議に思っていた。

 もしかすると、彼女ほどの食いしん坊なら一目で腹持ちのよさそうなパンを見抜けるのだろうか。だとしたら私のおすすめなんて訪問販売並みの邪魔な営業かもしれないので、それ以上は余計なことを言わず、「ほかのパンもおいしいから、ゆっくり見ていってね」と伝え、バックヤードへと向かった。

 そしてすぐさまエプロンを着用、いつも通りレジ側からお店へと出る。先ほど販売スペースにいたときとは見える景色が違っているように感じるのは、何度経験しても不思議な瞬間だった。

「これ、お願いします」

「うん、ありがとうござ…えっ、これ全部一人で食べられるの?」

「うん。どれもいい匂いがしておいしそうだから、食べてみたくて」

 そして私がお母さんとレジを交代した直後、江田さんはパンが載ったトレーを持ってきた…のだけど。

 トレーの上にはソーセージドッグ、さらにはチョココロネ、目玉焼きパン、クロワッサンサンド、フルーツサンド、クリームパン…と、いくら食べ盛りであっても女子高生が一人で平らげるのは難しそうな量のパンが盛られていた。

 店員である以上はスムーズにお会計を済ませるべきなんだろうけど、顔見知りが相手だとどうしても驚きを隠せなくて、ちょっと失礼とは思いつつも確認してみる。もちろん江田さんは徹頭徹尾無表情のまま頷いて、その抑揚のなさに「この子なら大丈夫だろう」なんて謎の頼り甲斐を覚えてしまった。

「ええっと、気に入ってもらえそうなら嬉しいよ…それに、余っちゃったら家族と食べてもらってもいいしね」

「私、家族、いない」

「……え」

 それはあまりにもぽつっと、そして躊躇なく繰り出された身の上話だった。

 相変わらず接客中とは思えないほど油断していた私は袋詰めする手が止まってしまい、まじっと江田さんの顔を見てしまう。

 けれど彼女は本当になんでもない話をするように、がま口の財布を開いてお金を取り出しつつ、重量感のありそうな会話を軽々と続けた。

「私の両親、事故で亡くなった。今は、サイ…えっと、交通遺児を引き取る施設で暮らしてる、から」

「……ごめん」

「え、なんで、謝るの?」

「なんでって…」

 両親。事故。施設。

 その飛び出してくる単語は最小限でありながら、どんなことがあったのかを瞬時に理解させる重みがあった。

 そしてこんな話を聞いてしまった場合、私に謝る以外の選択肢なんてあったのだろうか? だから私はまぶたの裏が罪悪感でツンとする感触を覚えつつ、頭を下げて謝罪を吐き出すしかなかった。

 でも江田さんは私の行動を理解できていないように、まったく怒気を感じさせない──これはいつも通りなんだけど──声音で逆に質問してくる。

 その異質さすら感じる会話に顔を上げると、江田さんは人語で話しかけられた大型犬のように首をかしげていた。

「…親がいなくなるのって、すごくつらいことだろうから。だから、そういう話をさせて、そういうことを思い出させて、ごめんなさい」

「あ…ごめん、こういう話、あまりしないほうが、よかった? 私、施設の人以外とは、あんまり話さなかった、から。会話とか下手で、いやな気持ちにしたなら、ごめんなさい」

 もしも。あり得ないけど。認めないけど。

 もしもお母さんがある日突然死んでしまったら、私は耐えられる自信がなかった。

 お母さんはとても優しくて、いつも頑張って働いていて、一緒にパンを焼いてくれて…そのどれもが私にとって当たり前で、お父さんがいなくなったという事実を中和するのに十分なぬくもりを持っていた。

 そしてお母さんは私にとって憧れでもあって、いつかはお母さんのようなパン職人になりたいのに。それなのに私が一人前になって恩返しをする前に、いなくなってしまったら。

(…お母さんに『大きくなったね』って、言ってもらえなくなる…そんなの…いやだ…)

 お母さんの笑顔が遠くに離れていく様を想像したら、まぶたの裏でとどめていた潤いが小さくあふれてしまった。

 それは目尻からぽろっとこぼれそうになったので、慌てて袖で拭った。今日の私はどこまでも接客に向いていなくて、工房にいるお母さんに見られたら叱られてしまいそうだ。

 …叱られてもいいから、元気な姿を見たかった。

「あ、え、ごめん、なさい。私、泣くとか、全然思ってなくて。お金、置いておくから、お邪魔、しました」

「違うよ、江田さん」

 私の仕草に江田さんは、初めて聞かせてくれる声…一定のトーンで繰り出され続ける声が渋滞を起こす、紛れもない困惑でもってまた謝ってきた。

 そして江田さんはキャッシュトレイにお金を置いて去って行こうとしたので、私はすぐにその手を握る。

 顔と同じく真っ白に染まった手は、とてもひんやりとしていた。でも手のひらにはじわっと汗が浮かんでいて、私は自分が原因とは知りつつも胸の奥はくすぐったくなってしまう。

(…江田さん、こんなふうに焦ることもあるんだな…)

 かつて、学校の片隅でこんな風変わりな噂がささやかれていた。


『江田乃亜は、人間の皮をまとった精巧なロボットだ』


 その噂の根源は明白だった。無機質な音色で紡がれる声、感情の起伏を微塵も映さない無表情、そして世界のすべてに無関心であるかのような透明すぎる双眸…それらが織り成す無機質さは、まるで精密機械が人間の真似をしているかのように映ったのだろう。

 もちろん私はそんな噂を信じてはいなかったし、彼女が人間だと知っていたけれど。

 でもこうして私の唐突で意味不明な涙に焦ってくれて、その手に汗を浮かべている様子は、どうしても…どこまでも、人間そのものだった。

 江田乃亜は、人の機微に感情を揺らめかせる、優しい少女だったのだ。

「ごめん、私、家族のことが本当に大切だから…江田さんの話を聞いて『もしも自分も家族を失ったら』なんて思ったら、すごく悲しくなったんだ…」

「…そうなの? ごめん、そんなふうになるの、予想できなかった」

「だよね…私も驚いてる。だから、そういうつらい話をさせてごめんね…ってことだったんだ。私ってさ、言葉が足りないことがそれなりにあるみたいで…たまに鈴にも怒られてる。だから江田さんも謝らないでね」

「…うん。私、そういう話とか、気持ちとか、わからないことが多い。けど」

 勢いで握ってしまった江田さんの手は、一旦離れたかと思ったら。

 今度は江田さんのほうから恐る恐る握ってきて、手の甲に再び冷ややかな感触が伝わってきた。先ほどかいていた汗は早くも引いたのか、噂話のように金属的な印象が強まったけど。

 それでも私をいたわるように、手の甲をそっと撫でてくれた。その仕草もまた、彼女が人間として大切なものを持っている証左だった。

「私のため…せい? で、泣いてくれて、泣かせて、ありがとう、ごめんなさい。星川さんは、いつも私に声をかけてくれて、こんなふうに涙を流す、優しい人だと思います」

「…ふふふ、ありがとう。ごめんね、引き留めて…お詫びに私の試作したミニパンをいくつか持ってくるから、よかったらそれも食べてくれる?」

「いいの? ありがとう、嬉しい」

「ううん、こちらこそ…そこのベンチで座って待ってて」

 そうして江田さんはやっぱりたどたどしく、だけども生真面目に手探りをして、自分の中にある気持ちをきちんと言葉にする。優しくない私をそんなふうに評価してくれるこの子こそが、実は誰よりも優しい気がした。

 だからお詫びとして鈴にも食べてもらったパンを取ってきて、ベンチに座る江田さんに渡そうとしたら、彼女は早くもソーセージドッグを取り出してむちゃむちゃと食べていた。

「お待たせ…あ、それも食べてくれてたんだ。どう? おいしい?」

「うん、やっぱりおいしい。前に食べたときも、今日も、すごく、おいしいです」

「…? あれ? 江田さん、初めて来たんじゃなかったっけ?」

「あ」

 おいしいものは人の心をパンのように柔らかに、そしてふかふかにしてくれる。

 だからだろうか、ソーセージドッグを頬張る江田さんは私の質問へいつも以上に素直な回答をしてくれて…でもそれは、私に新しい疑問を生じさせた。

 突っ込まれた江田さんは時間が止まったようにピタリと制止して、でもすぐに誤魔化すようにパンを飲み込み、白く滑らかな人差し指を口の前に移動させた。

「…女の子には、秘密がつきもの。なのです」

「えぇ…? う、うん、わかったよ…?」

 両親の話すら躊躇なく聞かせてくれた彼女に、これ以上の秘密なんてあるのだろうか?

 けれど今日は失態ばかりの私がそれ以上ツッコミを入れるわけにもいかず、ミニパンとお茶を渡してから「ゆっくり食べていいからね」とだけ伝え、今度こそ真面目な店員へと戻れた。

 ちなみに江田さんは購入したパンをその場で全部食べきってから、私のミニパンを掲げて「これは、夕飯の後の、デザートにします」なんて口元だけで笑ってくれたように見えた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?