本日私が向かうヒーロー安全推進協会、その支部は全国各地に存在していた。真糸市から電車で一時間ほどで移動できる都市部にもあって、そこが私にとっての最寄りの支部になっている。
電車を降りるとやはり都市圏に足を踏み入れただけあって、休日であるにも関わらず朝から多くの人が行き来していた。通勤や通学をしていると思わしき人は少ない一方で、遊びに出かけている人が多いのだろう。地方都市である真糸市とは異なる活況は、普段は人混みとは無縁の私の三半規管を狂わせそうだ。
ちなみに本日の私は制服を着用していて、通学にも使っているスクエアタイプのリュックには書類やパーカー、ドミノマスクなどの必要なものを収納している。以前監督官に会うためにここへ訪れたときはすぐに帰ることができたため、荷物も最小限で良かったけれど…今日は書類提出や講習を受ける必要があるため、長い一日となりそうだ。
(ええと、駅から協会まで直通のバスが出ているんだっけ…都会の駅やバス停って種類と数が多くてややこしいな…)
本来の休日と言えば一日中パンを焼けるチャンスなんだけど、今日はさすがにそうもいかず、お店はお母さんと里奈に頼っている。二人とも『気にせずいっておいで』って言ってくれたけど、むしろ私はパン屋のほうへ行きたかったのだ。
だからなのか、私は駅から出て早々に立ち並ぶ複数のバス停を見るだけで軽い疲労感を覚え、携帯端末に入っている乗り換え案内アプリと電子掲示板を参照しつつ自分の行き先を探していた。途中で有名なチェーン店のパン屋があったのでついつい寄り道しそうになる足へ「こらっ」と注意し、目的のバス停へと並ぶ。
(本当ならいくつか買って、勉強のために食べたいけど…お昼ご飯は協会の中にある食堂を使うから、我慢するか…)
何を隠そう、パンの食べ歩きも私の趣味の一つだ。それは単純に味を楽しむだけでなくて、将来の自分のレパートリーのためにも食べている側面が強い。
だからこそパン屋があればとりあえず足を踏み入れたくなるのだけど、バスまでの時間がないし、昼食は協会で食べることになるため、今回は諦めるしかなかった…あっ、カツサンドもある…やっぱり帰りに買おうかな…。
なんて思っていたらバスが到着し、入り口にある読み取り機に自分の端末をかざして乗り込む。真糸市でも使われている交通用ICカードはこの都市圏でも普及しているため、携帯一つあれば移動面で不自由しなかった。
バスの座席は半分くらい埋まり、この中にもヒーローがいるのだろうかとふと気になったけれど、お互いがスイッチングしない限りはわからないのですぐに関心をなくして窓の外を眺めた。
(スイッチング…私たちが『ヒーロー』になるための儀式、か)
バスが出発し、ゆっくりと駅の構内から出て行く。私はそれをぼんやりと眺めながら、改めてヒーローの奇跡の一つについて思いを馳せた。
スイッチング、それはヒーローの素質がある者が戦える状態になるための、わかりやすく言えば『変身』に近いものだった…ほら、特撮やアニメで見かけるあれ。
スイッチングの条件はヒーローによって異なっており、たとえばシャテルロみたいなサイボーグなら専用の装備を纏うことで、シザーズみたいな魔法少女なら文字通りの変身をすることでヒーロー状態になり、ここでようやく人間とは別物の戦闘能力を得られるのだ。
ちなみに私はドミノマスクを着用することがスイッチングの条件になっていて、ようは少しでも顔を隠せば自分がヒーロー状態であると認識し、体内にあるヒーロー因子が覚醒してブレッド・ノヴァになる。
さらにスイッチングには不思議な力があって、『スイッチングすると元の人間とは別物として認識される』というのもそのうちの一つだった。これに関しては『異世界の魔法である【認識阻害】に近いものかもしれない』とのことで、昔からのお約束である『ヒーローは正体不明』を体現することにつながっていたのだ…こうしてご都合主義は生まれるのだろうか?
そんなわけで、仮にこのバスの中にヒーローがいたとしてもスイッチングしない限りはお互い一般人でしかなくて、自分から正体を明かさない限りはちやほやされることも、妬まれることもない。ヒーローの中には目立つために周囲への迷惑を顧みない奴もいて、それ故に近年は憎まれている存在も少なくはなかった。
(あ、もう着いたのか…ここで降りる人も結構いるな。休日に訪れるということは、みんな本業とかあるのかな?)
そんなことを考えていたら、終点であるヒーロー安全推進協会へとたどり着いていた。ここも都市の一部なのだろうけど、道中には曲がりくねった坂道もあったように、意外にも緑は多くて標高も高く、それ故に駅前のような喧噪はなかった。
そしてバスから降りて、正面の建物を見る。それは病院のような色合い、そして地方の大学を思わせる規模の高さと横幅を持つ建物だった。その周辺には体育館のようなサイズのドームや屋外訓練場もあって、さながら『自動車免許を交付するための施設』のヒーロー版といったところか。
そしてその建物の手前には『ヒーローの方はこちらでスイッチングしてからお越しください』と書かれた、更衣室だけが詰め込まれた設備がある。そこに入るということはヒーローであることを自己申告するようなものだけど、どうせスイッチングした瞬間には認識されなくなるので、個人情報とかのあれこれは大丈夫だろう。
入ってみると服屋の試着室を連想させる個室が左右にずらりと並んでいて、正面奥には出口専用のドアもある。私はそのうちの一つの空き部屋に入って、そそくさと着替えを開始した。
(まずはジャケットを脱いで、パーカーに着替えて…マスクを着用、これにてブレッド・ノヴァが誕生…我ながら楽だなぁ)
中は二畳くらいの広さで、案外余裕がある。貴重品を入れられるロッカーもあって、スイッチングした姿を確認できる姿見もあるのだけど。
私の準備は見ての通り、極めて簡単だった。全身を覆う戦隊ヒーローのような衣装で戦う人たちに比べ、もはや日常的な着替えの範疇でしかない。
姿の確認についてもパーカーに入った髪を外に出すくらいで、ほぼ一瞬の手間だ。マスクもずれていないし、書類を持ったらそそくさと出ていく。
そして出口のドアを開くと、すぐに協会のロビーへと到着した。
「はい、安全講習を受ける方はまず受付で申請を済ませてください! 申請なしだと受けられませんから、すぐに手続きを終えてください!」
「あ、監督官。お疲れ様です」
「ノヴァ、来たのね! 見ての通り安全講習には申請が必要だから、今すぐ受付に向かって! 私はヘルプに駆り出されているから、話があるならあとで…ちょっと! そこのあなた、協会内での勧誘行為は禁止! ああもう、今日は人が多くて大変なのに…!」
「…本当にお疲れ様です」
ロビーには正面に様々な受付窓口があるだけでなく、その横には順番を待っているヒーローたちが待機するためのベンチが複数あって、受付付近には『どんな手続きもまずは申請から!』と書かれたプラカードを掲げる監督官がいた…これ、監督官の仕事なのだろうか?
と思ったら本人があくせくと周囲を確認しつつぼやいたように、人手不足で急遽引っ張ってこられたらしい。元々は庶務課にいたという話だったから、こういう業務にも慣れているようだ…この人、いつ休んでいるんだろう。
なので心のそこからの『お疲れ様』を伝え、私は窓口で初回の安全講習を受けに来たと説明したら、すぐに笑顔で申請書類を渡された。どうやら早速『ヒーローでいるために必要な書類の処理』が始まったようで、待合所にある椅子に座って最初の書類をやっつけ始めた。
(ええと、安全講習にチェックを入れて…講習が終わったらその内容についての感想文の作成、その次は『バトルスタイルや必殺技についての自己申告』、そして休憩を挟んだら身体能力測定…改めて手順を確認すると、本当に面倒だなぁ…)
申請書類の作成自体は簡単で、ヒーロー名といった最低限のパーソナルデータを記入するだけ。ヒーローはスイッチングすると正体がわからなくなるように、この協会はあくまでヒーローとしての情報収集と登録作業だけを担当していて、ヒーローではない個人については一切把握していないとのことだった。
そういうスタンスのおかげでヒーローが何かやらかしても本人の特定までには至らず、よほど悪質でない限りは個人への賠償請求も行われない。それはヒーローを最低限守っているとも表現できて、『ヒーローの名簿を作成するだけの利権団体』にも多少の存在意義はあると考えるべきだろうか。
…もちろん、協会への監督責任といった追求を避ける意図もあるんだけど。官僚をはじめとした役人とのつながりも強いように、そういう責任逃れと利権の保護に関しては抜け目なさそうだった。
「え? 提出用の書類を家に忘れた?…ああもう、それも窓口で再発行してもらって、この場で書くように! 記入ミスがあれば修正してもらうから、そのつもりで!」
私がそういう薄汚い…もとい、複雑な事情についてそこそこ把握しているのは監督官のありがたいお話──愚痴ともいうのだけど──を聞いたからで、そんな状況を是正したいと願う彼女へふと視線を移動させたら。
新人と思わしきヒーローに泣きつかれ、その対処に追われていた。それは私にも釘を刺しているように聞こえてしまって、せめて私はその苦労を減らせるように、申請書類に今一度集中した。
*
(…“戦闘中に用いた必殺技の名称と意図”って…これ、書く必要あるのかな…)
安全講習、それはもうとてつもなく退屈だった。
『このヒーローは居住区が近いのに、範囲攻撃を行っています。これではいけませんね』
『動画撮影に夢中でカメラ目線になっており、敵から目を逸らしています。これではいけませんね』
『露出の多い格好で戦うことで注目を集めようとしています。これはケースバイケースですね』
『ヒーロー安全推進協会では【戦闘行為安全連盟】への加入を推進しています。年会費800円でこんなに特典が!(※加入後の払い戻し不可)』
…こんな感じで、『ヒーローがやってはいけないこと』を延々と講習室のプロジェクターで流し続け、画面内でNG行為がある度に『ブッブー』という音とともに訂正が入り、閲覧終了後にその感想を書くのだけど…内容のほぼすべてが『一般常識に照らし合わせても当たり前のこと』ばかりで、それこそ悪意を持って行動しない限りは破ることもなさそうだった。
ちなみに動画の最後で協会に関連した利権団体…お偉いさんの天下り先…もとい、よくわからない連盟への加入を促され、『自分のように悲しい目に遭う人をなくしたい』という実在性の疑わしいお涙ちょうだい話を聞かされたところで、「私はなにを見せられているんだ…」と虚しくなった。もちろん加入はしない。
それを見終えた私はそのまま講習室の机で感想文──小学生並みの内容になってしまった──を書き、その他の書類もやっつけているわけだけど。
(…技名、強めのパンチ。意図、わかりやすい技名にすることで忘れないようにしておき、見てくれている人たちにも理解しやすいように配慮した…私、なにを書かされているんだろう…)
バトルスタイルや必殺技名の自己申告について書いている際、どうしてもその必要性については頭を悩ませる。
事前に監督官へ質問したら『協会としてもヒーローたちについては理解を深めないといけないの』と教えてくれたのだけど、私が首をかしげていたら『こういう書類に対して形式上以上のものを勘ぐったら負けよ』なんて付け加えたように、言い換えれば『協会の仕事してますよアピール』に付き合わされているのだろうけど。
実際にやってみると、ここまで虚しいとは思わなかった…退屈で生産性のない時間、とでもいうべきか。少なくとも、実家のパン屋をほっぽり出す理由としては虚無過ぎる。お母さん、里奈…私、くじけそうだよ…書類相手にだけど。
「ノヴァ、書類は書けた? そろそろお昼で休憩を挟むだろうから、様子を見に来てあげたわよ」
「監督官…えっと、とりあえず必要項目は埋めましたけど。これでしばらくは来なくていいんですよね?」
「あなた、初回でそんなにも露骨に面倒がるのはやめなさい…まあそうだけど。それよりも終わったのなら一緒に食堂へ行く? 前にも話したけれど、ここの食堂は安くておいしいし、ヒーローならお腹いっぱいになるわよ」
「あ、じゃあご一緒します」
私が姿の見えない敵、『虚無の化身』ともいうべき書類をなんとかやっつけたところで監督官が来てくれて、私はその誘いに応じて立ち上がる。
実はこのつらい戦いの中で密かに楽しみにしていたこと、それは協会内にある食堂だった。というのも、監督官が言っているようにここの食堂は安いらしく、しかもお腹いっぱいになるとのことだった…ただし、なぜかヒーロー限定で。
もしかしたら『ヒーローなら一粒食べるだけで満腹になる大豆っぽい食品』でも出てくるのだろうかと未知への期待をしつつ、縦長の机と簡素な椅子が大量に設置された食堂へと到着する。
そこには協会の職員だけでなくヒーローも多くて、券売機や受け取り口付近には人だかりができていた。
「ここでまずは食券を買うのよ。私はそうね、ビーフシチュー定食にしようかしら…シチューにご飯も悪くないわよ」
「そうなんですね…じゃあ、私は…唐揚げ付きチャーハンセットで。普段はパンが多いですから、思いっきりお米を食べてみたくて」
「いいチョイスね…だけどさっきも言ったとおり、ヒーローならお腹いっぱいになる量が出てくるから、残さないように気をつけるのよ?」
券売機にはいろんなメニューが並んでいて、監督官が選んだ変わり種もあれば、カレーやうどんといったいかにも食堂らしいものまである。そんな中で私はチャーハンという、家ではあんまり縁のないものを選んでみた。
そして監督官の口ぶりが正しいのなら、ヒーローであれば大盛りにしてくれるのかもしれない。もしかして協会の粋なサービスだろうかと考えたら、書類相手に格闘した甲斐もあったかもしれなかった。
私はヒーローで育ち盛り、人並みには食欲もあるのだ。
「おい、今日もご飯が少ないぞ…こんな量では腹を満たせな」
「なに言ってんだい、あんたはデスクワークばっかりだろ! まずはその運動不足丸出しのお腹をどうにかしてから文句を言いな!」
まだ見ぬチャーハンに思いを馳せつつ食券を持って受け取り口の列に並ぶと、程なくして年齢を重ねたと思わしき女性の怒鳴り声が聞こえてくる。
そちらを見るといかにも役員っぽいスーツを着た男性が縮こまっていて、そのどやし方から事情は察したものの、私の中に一抹の不安がよぎった。
「…あの、監督官。本当に大丈夫なんでしょうか…」
「心配しなくても、いつもの光景よ? ここの食堂を取り仕切るおばちゃん…マダムはね、運動不足の職員には厳しいけれど、ちゃんとしたヒーローには優しいから」
私、ちゃんとしているのだろうか…という不安をよそに、監督官は本当に見慣れているのか一切動じない。そしてついに私たちの食券も受理されて準備が始まり、ファストフードばりのスピードで料理が仕上がって呼ばれ、受け取りに向かったら。
(…なんだこれ…チャーハン、600gはありそうなんだけど…唐揚げも7個あるし…)
それはいかにも中華風のお皿に盛られた、大盛りならぬ特盛りのチャーハンだった。
具材はシンプルにネギ、たまご、少量のチャーシューという構成で、その匂いは香ばしさの中にコショウのスパイシーさがあるけれど、そんな情報は山のようなお米の量で上塗りされる。
挙げ句の果てに十分な大きさの唐揚げも7個と大奮発で、おかずまで大盛りとは予想外だった。これで…800円…?
ぽかんとしながらおばちゃん…もとい、マダムからトレーを受け取ると忙しいのか愛想は見せず、それでもよく通る声で「食べた分だけ頑張りな、新米ヒーロー」なんて言ってくれた。
「うーん、私のシチューも結構盛ってくれてるわね…ヒーローじゃないんだけど、なんで私にもちょくちょくサービスしてくれるのかしら…」
「…監督官、頑張ってますから。私もたくさん食べて頑張ります…」
ヒーローは常人とは比較にならない力を発揮する分、戦いの際には相応のエネルギーを使っているらしい。実際に私もヒーローをするようになってからは食欲も強くなっていて、お母さんもそれを見越して準備してくれるのだけど。
そんな私でも「ラーメンだけで良かったかな…」と思うほどの量で、首をかしげる監督官に上の空で返事をしつつ、私は書類整理とはまた異なる戦い、大盛りチャーハンとの勝負へ立ち向かうことになった。