デリーの大動脈であるパハール・ガンジから西へ行くと、観光客向けの中級ホテルと小売店が軒を並べているカロル・バーグに辿り着く。
しかし、ユタラと舞弥が目指していたのはホテルでも小売店でもない。
二人は何人かの旅行会社の客引きを断り、スマホに表示していた地図を頼りに目的地へと向かう。
数分後、舞弥は目の前にそびえ立つ建物に向かって人差し指を突きつけた。
「ねえ、ユタラ。もしかしてここじゃない」
ユタラは額に浮かんでいた汗をハンカチで拭いつつ、カロル・バーグの片隅に建てられていた三階建ての灰色ビルを見上げた。
看板には英語で〈ヴィナーヤカ〉と表記されており、その下にはヒンドゥー語を始めとした様々な言語が書かれている。
おそらくすべて〈ヴィナーヤカ〉と書かれているのだろう。
「まったく、何が「カロル・バーグに行けばすぐに見つかるわ」よ。思いっきり見つけにくいところにあったじゃない。くそっ、あのオカマめ。これであたしたちの装備が届けられていなかったら、あたし自らの手で去勢してやる」
「オカマじゃなくてプラムさんって言わないと失礼だよ。プラムさんにはインド滞在中に何かとお世話になるんだから。それに到着するのに手間取ったのは、舞弥が余計な道草を食ったからじゃないか。どうしてミネラル・ウォーターじゃなくて露店でジュースを買うの」
「仕方ないでしょう。ジュースと言っても自販機のジュースじゃない。その場で色々な果物と水をミキサーにかけて作ってくれる新鮮なフレッシュジュースだったのよ。味気ない水を飲むよりは何倍も美味しかったわ」
「だからって二杯も三杯もガブガブ飲んだら駄目だって。都市部の生水は危険だってガイドブックにも載っていたじゃないか」
「平気平気。ジュースを飲む前にちゃんとこれを溶かしたから」
舞弥はズボンのポケットから透明な小袋に入った粉薬を取り出す。
「何それ?」
「〝遺伝子組み換え〟された即効性の浄化剤。これを溶かせば大抵の生水は飲めるようになるっていう魔法の薬だってさ」
「いや、僕が聞きたいのはそれをどこで手に入れたのかなんだけど……確かアジトを出てから旅行用品店やドラッグストアには一度も立ち寄っていないよね?」
「これ? アジトのカウンターに置いてあった。オカマが言うには最近売り出された人気の商品で一袋五百ルピーはするんだって。だけど、どれだけ人気の高い商品だからって浄化剤一袋に五百ルピーはないわよ。あのオカマ、絶対にあたしからボッタくる気だったんだわ」
ユタラは口内に溜まっていた唾液を胃に流し込む。
「それでもお金は払ったんだよね? だから浄化剤を持っているんだよね? ね?」
ユタラの真剣な質問に対して、舞弥はウインクしながら桃色の舌をちろりと出す。
「まさか、黙って持ってきちゃったの!」
「大丈夫大丈夫。気づかれないようにやったから」
「そういう問題じゃない! 何で勝手に商品を持ってきたのさ!」
「だってボッタくられるのはエージェントとして失格でしょう」
「物を盗むことのほうがエージェントとして失格だよ。いい? アジトに戻ったらプラムさんに謝って盗んだ浄化剤の代金を全額支払うこと。わかった?」
「でもでも、アジトから持ってきたんだしさ。これはさすがに経費で落ち――」
「ない!」
舞弥を一喝したユタラは、うな垂れた舞弥を連れて〈ヴィナーヤカ〉の中へと入る。
〈ヴィナーヤカ〉の玄関ロビーは、PMCとは思えないほどの開放感に溢れていた。
窓から差し込む陽光を反射しているリノリウムの床。
リラックスな空間作りに一役も二役も買っていた観葉植物。
白く塗られた壁には高価そうな絵画が何枚も飾られており、天井には蛍光灯ではなく豪華なシャンデリアが吊るされている。
まるで高級ホテルさながらのロビーに感嘆していたのも束の間、すぐに二人の視線と意識は右手側のフロントに吸い寄せられた。
「お願いよ! お願いだから社長のマラディン・ラル氏と話をさせてってば!」
「何度も申し上げているではありませんか。うちではマスコミや出版関係者の取材等はお断りさせていただいております。アポなしの方ならばなおさら許可は出せません。ですから、このままお引取りください。あまりしつこいようですとガードマンを呼びますよ」
フロントには受付嬢と激しい口論を繰り広げている黒髪の女性がいた。
インド人ではない。
暗色のスーツを着た東洋人の女性は、訛りのない見事なヒンドゥー語で怒鳴り散らしている。
「あの人も今日の討伐隊に参加するレンタル・ソルジャーなのかな?」
「違うと思う。あの女の人からは戦う人間特有の匂いがしてこない。賭けてもいいよ。あの人はまともに銃も撃ったこのとない一般人だ。それにスーツを着たレンタル・ソルジャーなんて聞いたこともないしね」
「じゃあ、その一般人がPMCのビルに何の用事で来てるのよ?」
「さあ……ただ、どちらにせよ今日は日が悪い」
「そうね」
互いに意見を合わせた二人はフロントに足を動かしていく。
フロントでは依然として東洋人の女性と受付穣の激しい口論が続いている。
ユタラはどうしたものかと頭を抱えた。
本音を言えば女性同士の争いに立ち入りたくはなかったが、受付嬢の許可を得ないとロビーから奥へ向かうことができない。
もしも受付嬢を無視して勝手に奥へ向かおうとすれば、社内を巡回している屈強なガードマンたちに取り押さえられてしまうだろう。
それだけは何としても避けたかった。
〈青い薔薇〉の任務を遂行するにはレンタル・ソルジャーとしてタール砂漠に向かうことが確実で手っ取り早いのだから。
などと考えていると、東洋人の女性と受付嬢の口論を舞弥が断ち切ってくれた。
「はいはい、喧嘩はあたしたちの用件を終えてから続けてちょうだい」
横から話に割り込んできた舞弥に、受付嬢はただちに仕事用のスマイルを浮かべる。
「どちら様でしょうか?」
さすがPMCの受付嬢だ。舞弥に合わせて英語で問い返してきた。
「今日の討伐隊に参加するレンタル・ソルジャー」
舞弥は前もって取り出しておいたレンタル・ソルジャーのライセンス証を提出する。
ユタラも巧妙に偽造されたライセンス証を受付嬢に預けた。
東洋人の女性を完全に無視した受付嬢は、手元のカードリーダーにユタラと舞弥が渡したライセンス証を通す。
エラー音とはほど遠い軽快な機械音が立て続けに鳴った。
「ヴァルマ・バジさんとパク・イルソさんですね。お待たせしました。手続きは完了いたしましたので、このまま通路の一番突き当たりの部屋にお進みください。そこで今回の仕事内容についてご説明させていただきます」
受付嬢からライセンス証を返してもらい、二人は通路の奥へと進もうとした。
そのときである。
「あなたたち、今回の討伐隊に参加するレンタル・ソルジャーなの?」
突如、東洋人の女性が二人の前に立ちはだかった。
そればかりか、東洋人の女性は満面の笑みでユタラと舞弥の手を強く握ってきたのだ。
しかも話しかけてきた言葉は英語である。
「ええ、まあ一応……」
ユタラが口ごもりながら答えたとき、東洋人の女性は黒瞳を爛々と輝かせた。
「唐突だけど、私のお願いを聞いてくれないかしら? ううん、これはお願いと言うよりは仕事の依頼ね。もちろんギャラは弾むから」
ユタラと舞弥は東洋人の女性の口から出た言葉の意味が理解できなかった。
それでも東洋人の女性は一方的に言葉をまくしたててくる。
「あっ、ごめんなさい。まだ自己紹介もしてなかったわね。私の名前は東恩納美由紀。デリーでフリーライターをしている日本人よ」
日本人と聞いて両目を見開いたのは舞弥だ。
まさか遠い異国の地で同郷の人間に遭うとは予想もしていなかったのだろう。
そして普段の舞弥ならば、年上ながらに愛嬌が感じられる美由紀と世間話に興じたかもしれない。
けれども今の二人はフリーライターの美由紀に構っている暇などなかった。
これから二人は偽りの職業に身をやつして因縁の地へと向かう身なのだ。
それゆえにユタラと舞弥は美由紀の依頼を断って奥の部屋へ向かおうとしたが、息を荒げていた美由紀は一歩も引き下がらずに断固として食い下がってくる。
「そこを何とか受けてくれないかしら。融通が利かない受付嬢のせいで討伐隊への同行許可が下りなくなった今、頼れるのはレンタル・ソルジャーの人しかいないのよ」
と、美由紀が満面の笑みから一転して泣きそうな顔になったときだ。
「そこのあなた、ちょっとこちらへ来ていただけませんか?」
二人の男が美由紀の両手を左右から挟むように掴んだ。
ポンプ・アクション式のショットガンを肩に吊るしていた屈強なガードマンたちである。
「え? ちょっと待ってよ。私は別に怪しい者じゃない。あの子たちに大切な用事が――」
「詳しい話は別室で聞かせていただきます」
先ほどから騒いでいたせいで要注意人物と見なされたのだろう。
美由紀はガードマンたちに引きずられるように別室へと連れて行かれてしまった。
「今の人、レンタル・ソルジャーに何の仕事を依頼したかったのかな?」
「何にせよ僕たちには関係ないよ」
それよりも、とユタラは妙に静かすぎるロビーを一望した。
「さっきから他のレンタル・ソルジャーの姿が見えないことのほうが気になるね」
「ちょっと、それって油田施設奪還の作戦会議がもう始まっているってこと?」
「かもしれない」
素っ気なく返事をしたユタラとは対照的に、舞弥は艶やかな黒髪を激しく掻きむしる。
「かもしれない、じゃないわよ。作戦会議に遅れたら作戦自体に参加できないじゃない。そうなったらあたしたちの本来の任務も果たせなくなる」
舞弥はユタラの腕を掴んで通路の奥へと走り出した。
一分もかからず通路の一番突き当たりの部屋に到着。
すかさず金属製のノブを舞弥が回して二人は室内へと足を踏み入れる。
「どうやら作戦会議には間に合ったようね。でも、あたしたちが最後だったみたいだけど」
油田施設奪還の作戦会議が行われるという部屋には、獣臭が漂ってきそうな人間たちがパイプ椅子に座っていた。
ユタラが目視したところによると数は二十人。
インド人が十二人、白人が二人、黒人が六人だ。
女性は舞弥以外に一人もいない。
そして黒人に関しては事前にプラムから情報を得ていたのでユタラは特に驚かなかった。
プラムが言うには今のインドで黒人の顔を見るのは珍しくないらしい。
「それにしてもロビーと違って殺風景な部屋ね。安物のパイプ椅子しかないじゃない。本当にこんなところで作戦会議が行われるの?」
舞弥の言うとおりだ。
部屋の内装はロビーと比べて格段に劣っていた。
日の光を迎え入れる窓もない。
室内を明るく照らしているのは、天井に嵌め込まれていた蛍光灯である。
他に気になった点と言えば、前方の壁にかけられていたカーテンだろうか。
だが、カーテンの裏に窓がないことはすぐに察しがついた。
カーテンには陽光を遮断している形跡がまったくなかったからだ。
「まあいいわ。とりあえず、あたしたちもどこか適当な場所に座りましょう」
「そうだね。どこか目立たない場所に座ろうか」
ユタラが同意したとき、適度に冷房がかかっていた部屋に二人の男女が現れた。
一人はオールバックの髪型に口ひげを生やした中年の男だ。
剃刀を髣髴とさせる鋭利な目つきが印象的で、清潔感のあるグレーのスーツを颯爽と着こなしている。
もう一人は大人の色香を醸し出していた二十代後半と思しき美貌の女性だ。
茶色に染めた髪に高価そうなゴールドフレームの眼鏡をかけており、ストライプ柄の白シャツの上から黒の長袖ジャケットを羽織っていた。
下半身は下半身でバルーンタイプの黒ミニスカートから無駄な贅肉のない美脚をこれ見よがしに露出させている。
女性のほうの正体は知らなかったが、男のほうの正体は一目でわかった。
何度もアジトで顔や経歴を頭に叩き込んだ人物だ。忘れたくとも忘れられない。
マラディン・ラル。
デリーで有名なPMC――〈ヴィナーヤカ〉の社長を務めている男だった。